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【MIND】 見上げない心が、育むもの。



私たちは誰もが人生のある時点で
誰かを見上げたことがあるはずだ。



それは時として、
憧れという形を取る。

華やかな経歩を持つ先輩や
理想的な生き方を体現している人物に
出会ったとき


私たちは無意識のうちに首を傾け、
その姿を仰ぎ見る。


しかし「見上げる」という行為には
もう一つの意味が潜んでいる。

それは自分を低く位置づけ、
相手を高みに置くという微妙な力関係の構築
だ。




ふと、20代の頃の自分の姿を思い出す。

「自分なんて、あの人に比べたら全然・・・」

と言いかけて言葉を濁した、あの瞬間。
今でも心に残っている。



他者と比べることでしか
自分の価値をはかれなかった
当時、あの時の自分の目には
何が映っていたのだろう。

おそらく自分自身の
価値を測る物差しを他人に委ねてしまっている
寂しさだったのではないか。


自分が他人を見上げなければ、
他人から見下されることはない。



この言葉に初めて出会ったとき
私は少し反発を覚えた。

傲慢さを説いているようにも聞こえたからだ。


しかし時間をかけて考えるうちに
この言葉の本質が見えてきた。

それは決して
他者を軽視することではない。

むしろ自分自身の中に
確かな軸を持つことの大切さを説いているのだ。


私たちは誰もが
かけがえのない物語を生きている。

その物語の主人公である自分自身を
なぜ脇役に貶める必要があるだろうか。



他者の素晴らしさを認めることは、
自分の価値を下げることと同義ではない。

むしろ自分の価値を
知っているからこそ他者の輝きもまた
純粋に称えることができるのだと思う。


「春の木漏れ日は、地面に落ちる影も
木々を通り抜ける光も、どちらも等しく美しい」

それと同じように
人それぞれの存在の仕方に
上下などないはずだ。

そのことに気づくまでには、
少なからぬ時間が必要かもしれない。



それでも、一歩ずつでいい。


自分の中に揺るがない確かさを
育んでいけばいい。

そうして育まれた自尊心は、
決して傲慢さとは違う。

それは誰かと比較することなく、
自分自身であることを受け入れる
静かな強さなのだから。



そんな感じ。

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