不便なことは、いけないことなの?
最近の日本の缶詰は、ほとんどが缶切りを必要としなくなりましたね。
スーパーの缶詰売り場を眺めながら、つくづく思いました。
我が家の鉄道と地図と漢字をこよなく愛する家族は缶切りの使い方を知らないと思います。
一度教えたことがあるけれど、覚えていないだろうなぁ。
缶切りを使わずに開けられることは、私には便利で嬉しい。
グッと引っ張って、パカン!と外せば蓋が開く。
でも、実はみんなが便利になった訳ではなかった・・・
数年前、あるドキュメンタリー番組を見ていたとき、一人暮らしの高齢のご婦人が買い物を終えた後、顔なじみの店員さんに缶詰のフタを開けてもらっていた。
何で?今食べたいの?ここで?
その時の私は、そう思ってしまった。
何も知らなかった、何も気づけなかった私。
今よりも幾分若くて身体も元気で、痛いところなど無かった当時の私には何も理解できなかったのです。
その後ご婦人は、私と同じように怪訝そうな顔をしていたであろう若い撮影スタッフに向かい、笑顔でこう告げたのです。
『開けられないのよ! 自分では。力が無くて、手も痛いしね。だからいつも開けてもらってるの、最近の缶詰はみんな缶切りを使わないから・・・』
ああ、そうだったのか!
でも、その言葉の意味を本当に理解できたのは最近のこと。
固い缶詰のフタを引き上げたり、瓶詰めの蓋を開けたりする際に、手首や指を痛めないか心配するようになってきました。
今の私よりも数十歳先輩であろうご婦人が、それらを開けることができないのは無理もないことです。
便利なサポートグッズも沢山あるようですが、それらの情報はご高齢の方々には届きにくいようです。
どんどん便利に合理的になっていく世の中で、いつの間にか人が置いて行かれているような気がしてしまうのです。
なんでも簡略化されて、不便なことや物がどんどん切り落とされて・・・
いつか人間も同じように切り落とされてしまうのかしら?
私も切り落とされてしまうのかしら?家族は?友達は?・・・
以前ある方から『退歩』という言葉を教えていただいたことがあります。
進歩ではなく退歩。
人が人らしく生きるために、これからは進むばかりではでなく、退いてみることが必要な時代になるだろうと、その方はおっしゃっていました。
また、5,6年前の別のセミナーで、とある著名な大学教授が
『不便なことはいけないことですか?』と聞いてきました。
この問いかけにドキッとしました。
このドキッ!は、自分の心の中に不便がいけないものとは言わないまでも、便利な方が良いに決まってる!との考えがあったからだろうと思います。
さらにその教授は続けて、合理性、利便性ばかりを追求する考えでは、皆さんと同じような行動ができない個性的で、ユニークな人達をも必要が無いもの価値が無いものと見なすようなことに、なりはしませんか?と問うてきました。
ガーン!!!
私の頭の中でそんな音がしました。
個性的で、ユニークな家族を育てている私が、そんな重要な事を全く理解できていなかったことに気付かされて、ガーン!!!だったのです。
その教授は、車が大好きだそうで、手間のかかる車ほど愛おしいとおっしゃっていました。
不便で手間がかかるものだから、より愛着も湧くし、簡単には手放せないし、大切に扱うようになる。
面倒くさくて、不便なものがあるからこそ、世の中は楽しいのでは?
私は、そんなことを教えていただいた様な気がしました。
今まで当たり前だった『進歩と利便性』の追求。
追求とまでは行かないまでも、『退歩』と『不便さ』の必要性について考えてみるのも良いかもしれない。
コロナ禍の影響で、いろいろな生活様式が急速に様変わりしている今だからこそ、一度立ち止まって、本当に向かうべき方向はそれでいいのか?
考えてみたいと思います。