〈歴史〉の網状世界へと
書評:リン・ハント『なぜ歴史を学ぶのか』(岩波書店)
学生だった頃の私は、教科としての「歴史」が嫌いだった。「日本史」も「世界史」もだ。
嫌いな理由は、とにかく「暗記」しなければならなかったからだ。
大人になって、ある程度の知識がついてからならいざ知らず、子供の場合、「歴史」教科書に書かれていることは、そのほとんどすべてが初耳であり、およそ自分には無縁な話ばかりなのだから、興味を持つためのフックとなるものが全然ない。したがって、頭に入ってこないし、定着もしない。その上、年号まで丸暗記させられたのでは、面白いわけがない。
だが、最近は「歴史」の面白さが、すこしだがわかってきた。
なぜ面白くなってきたのかと言えば、直接関連するわけではないバラバラに仕入れた各種の知識が、それからそれへと、いつの間にか有機的に結びつきだして、論理的な「知識のネットワーク」を自己形成し始めたからだ。
と言っても、私はいまだに「歴史マニア」ではない。
私は基本的に、「専門」と呼ぶほどのものは持っていない、一介の読書家にすぎない。その上で、あえて専門的に読んでいるのは、「宗教」に関するものであり、なかでも「キリスト教」ということになる。そして、素人は素人なりに、「聖書」から始めて5年以上にわたり1000冊近いキリスト教書およびその周辺関連書を読んできたから、不勉強な神父さんや牧師さんをやり込められるくらいの知識は、すでに身についた。
しかし、かと言って「キリスト教書(神学、教会史、聖書学など)」ばかり読んできたというわけではない。キリスト教信者になるのなら、それでもいいのだろうが、私は「宗教」の問題を考えるための基礎教養として「キリスト教」を勉強することにしたので、「キリスト教」を総体的かつ客観的に理解するためには、それに関連するものとして、例えば「無神論」とか「科学史」「哲学史」「西欧史」といったものについても、おのずと「最低限の知識」が必要となったのだ。
これは、若い頃「ミステリ(推理小説)」にハマった時と同じパターンで、私は「ミステリ」について「体系的」に知りたいと思い、E.A.ポーの「モルグ街の殺人」に始まるとされる「ミステリ史」を学ぶために、時系列にそって主な作品を読もうと試みたのだ。
しかし、もちろんのこと、同時代の国内新作も読みたいから、そうした「海外の古典」ばかり読んでいるわけにもいかないし、体系的に「ミステリ」を研究しようとすれば、例えばポーは「怪奇小説」や「幻想小説」を書いていた人だから、そこからの派生ジャンルとしての「ミステリ」を理解するためには、そっちの方も、ある程度は読んでおかなければならない、ということになる。さらには、ポーの生まれた「時代」や「国(風土や社会環境)」についても、ある程度の知識が必要だ。
一一と、こうなると、結局は収拾がつかなくなってしまったのだが、ともあれ、そうした「面で押さえたい」「全体と部分を総合的に把握したい」という傾向が、今の「キリスト教」研究にもあるために、「キリスト教書」だけではなく「宗教学」や「科学史」「哲学史」「西欧史」なんてものにも手をだして、結局、いわゆる学者的「専門家」とは違った、本の読み方になってしまったのだ。
しかし、こういう読み方の場合、幅広い知識が蓄積されていくうちに、あっちで読んだことと、こっちで読んだことが、思わぬところで共鳴し合い、結びついて、思わず「おおっ!」と声をあげたくなるようなことが、たまに起こるようになる。
一見、別々のジャンルの本に書かれていたことが、予期せず共鳴し結びついた時に、私は「単なる(構築的な)知識」ではなく、「普遍的な原理」に触れたと感じることが出来て、これこそが「知の喜び」だと実感する体験を繰り返すようになったのである。
で、ここまでは前置き。
本書で、著者が語っているのも、じつはこれと「似たようなこと」なのだ。
「歴史学」というのは、当初は、ヨーロッパの特定の大国のエリートの間において、国家をリードするエリートを育てるための学問であった。そのため、今から見れば、その研究範囲は、きわめて限定されたものでしかなかった。
ところが、時代が進むにしたがい、その視野は、否応なく広がっていった。つまり、昔は「ヨーロッパの特定大国」の「エリート階層」の「男性」にだけ開かれていた「歴史学」が、今や「女性」や「非ヨーロッパ人」などの、かつては社会的マイノリティーだった人たちにも徐々に開かれ、その研究対象も「ヨーロッパの特定国と特定圏」に限定されることなく、「あらゆる国や地域」へと広がり、かつ、それがグローバルな視点から関連づけられて「巨大で複雑なネットワーク」を構成し、それを多少なりとも踏まえるのが当然だとさえ考えられるようになっていった。
つまり、一人の人間(研究者)が、「全体」を踏まえた上で「歴史を語る」などということは、「専門」を持てばこそ、困難にもなってきたのだ。
しかしまた、「全体観」を欠いた「ミクロな知識」だけでは、「ミクロな知識」の「全体」の中での正しい位置づけが困難となって、「歴史」を見誤ることにもなりかねない。
だからこそ、「歴史学」の全体を見渡す、すぐれたパースペクティヴが是非とも必要となり、求められるようになったのが「歴史学」をめぐる昨今の状況であり、そうした求めに応じて書かれた好著のひとつが、まさに本書なのである。
それにしても、皆が皆、こうした「歴史に対する積極性と公正さ」を持っているわけではない。
知りたいことだけを知ればそれで満足だとか、自分好みの知識だけを掻き集めて理論武装すれば、それでひとかどの「歴史家気どり」といった人たちが、情報を得やすくなったこのネット時代には、目立って増えてきている。
しかし、そういう人たちの語るものが「歴史」の名に値しないというのは、言うまでもなかろう。
「人間の歴史」を知ろうとすることとは、偏頗な知識を寄せ集めてこね上げる、個人的な「創作」などではないのである。
求めても求めても、その完全な「真相としての歴史」には届かなくとも、それでもそれへと、新たな手がかりを求めてつつ、精一杯手を伸ばす知的営為。それが「歴史を学ぶ(研究する)」ということなのではないか。
だからこそ、本書でも紹介されているとおり、
『ローマの政治家キケロが、二〇〇〇年以上も前に説明している。「生まれる前に起こった事柄に対して無知でいることは、子どものままでいることを意味している。なぜなら、人間の一生が価値をもつのは、それが歴史の記録によって先人たちの生きざまのなかに組み込まれた場合に限られるからなのである」。』(P107)
ということにもなろう。
「子供」は、自分の「狭い視野」の中でしか考えられず、その外が「想像」できない存在だからだ。
そして、これはなにも『生まれる前に起こったこと事柄』に対する『無知』に限られた話ではないはずだ。
例えば「他者(異性、異国人、マイノリティー等)」や「他国(異境の地)」や「未来」などの〈外部〉について知ろうしない人、考えようとはしない人というのも、やはり同様の意味で『子供のまま』なのではないだろうか。
「歴史」に詳しいのは(=知識が豊富なのは)大切なことだ。しかし、それが「歴史オタク」的な「視野狭窄(=自閉)」におちいれば、かえってそれは「反知性」を結果しかねないし、事実そうなってもいる。
私たちは、本書に描かれた「歴史学」の「歴史と現在」の姿をとおして、普遍的な「知のありかた」を学ぶことが出来るはずである。