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佐藤優の〈嘘と誠〉

書評:佐藤優『君たちが知っておくべきこと 未来のエリートたちとの対話』(新潮文庫)

佐藤優の読者は、ファンとアンチに二分される傾向があるが、それはたぶん佐藤が、きわめて「韜晦」的な人物だからであろう。
だが、佐藤を信頼するにせよ、否定するにせよ、果たしてその評価は、趣味的あるいは決断主義的な判断に拠るものになってはいないだろうか。

『私はいろんな形で、イタヅラみたいな仕掛けの本を書いています』(P109)

一方で自身の「本音」を隠し、他方では「本音」を語る。
そして、佐藤の場合、その「隠す・明かす」という態度の切り替えが、意識的つまり戦略的なものである(=無自覚で自然なものではない)からこそ、その再起性(自己言及性)によって、隠したり明かされたりする彼の「本音」そのものの真実性が、必然的に疑われるし、疑われて然るべきなのである。

『「変な人だなあ、この人の考えは合わないなあ」と思っても、相手の考えを最後まで聞いて、この人はどうしてこういう思考法をするのか、と考えてみるクセをつけよう。
(略)
 話者の誠実性を見抜く力は、非常に重要だと思う。この人の発言は戦略的なのか、それとも自分が思っていることを正直に言っているのか。』(P234〜235)

『生徒(※ 質問者) でも、話者の誠実性を見抜くって実際はけっこう難しいと思うんです。特に対面して話すのではなく、テキストを読む時は大変です。その本がどれくらい戦略的な意図で書かれたのか、それともわりと正直に書かれているのかを見抜くにはどうしたいいのでしょう?
佐藤 それはね、三年くらいのスパンで一人の著者のものを継続して読んでいくと、戦略的に書いている人の場合、論旨にブレが出てくるから分かる。』(P235〜236)

佐藤の本ばかり読めるのなら、それも可能だろうが、周知のとおり、佐藤の著作は、ものすごいペース刊行されている。対談本が多いとは言え、普通であれば、読者は自身の興味に応じて、佐藤の著作をチョイスして読まざるを得ないから、佐藤の「誠実性」を確認するという作業は、そう簡単なことではないはずなのだ。
だから私には、佐藤のファンやアンチが、十分に佐藤を分析した上で、佐藤を信頼したり批判したりしているのかが、いささか疑わしく思えるのである。

言うまでもなく、佐藤は「外交官」だった人なので、敵味方ふくめていろんな人とのつながりを作ろうとするだろう。その場合、味方には「本音」を正直に語れるが、敵に対してはそうもいかない。敵に対して「あなた方は間違っている。そういう考え方は愚かだ」と批評家のように言ってしまっては、敵側との繋がりが作れず「情報」を取れなくなってしまい、結果として、敵との戦いにおいて損をすることになるからである。
だから、外交官は「嘘」をついてでも、敵に接近しようとするものなのだが、しかし、相手も馬鹿ではないから、露骨な嘘(やオベンチャラなど)では、逆に信頼性を失わせるだけなので、おのずと「嘘と誠の兼ね合い」が問題にもなってくる。

『 情報(※ インテリジェンス)の世界においては、リエゾンという連絡要員がいます。例えば東京にはアメリカのCIA、ロシアの対外諜報庁(SVR)、イギリスのSIS(いわゆるMI6)など各国の秘密情報部の人間がいる。普段は外交官、だいたい参事官か一等書記官を装って活動しているけど、秘密情報部の人間だということは互いに明らかにしていて、関係者だけは知っているわけ。
 その人たちは、国家間にどんな対立があるときでも、その後ろでニコニコ笑って会って調整する。そこでは絶対に嘘をついてはいけないという約束がある。もちろん本当のことを全部言わなくてもいいんだけどね。そういう特別な訓練をされた人たちを業界用語でリエゾンと呼びます。』(P54〜55)

つまり、佐藤優の言論人としての態度は、まさに「リエゾン」的なのだと言えるだろう。

通常「言論人」というのは「嘘はつかない」というのを原則とする。実際には、そうもいかないことが多々あるとは言え、言論に生きる者が、その言論において、読者からの信憑を失ってしまっては、どんなに正しいことを言ったとしても、読者を説得することができなくなってしまうからである。

そして、そうした意味で佐藤優は、純粋な「言論人」ではなく、リエゾン的あるいは外交官的な「戦略的言論人」だと言えようし、だからこそ、佐藤を簡単に信用したり、拒絶したりすることは、佐藤の最も重要な部分を、基本的に「読めていない=読もうとしていない」ということにもなる。

もちろん、佐藤の繰り出すいろんな「話題」や「情報」が面白いから、そういうものの提供者として佐藤を「おもしろい作家」として評価するという消費者的態度も、それはそれでいいだろう。そういう態度も「あり」ではあるが、それだけでは、佐藤優というユニークな人物の書くものの読者としては、いささかもったいない態度なのではないだろうか。

それよりも佐藤優という「アンビヴァレンツな人物」の中の、その「矛盾と調整」の部分、その機微を読み解いてこそ、佐藤優という人物を、本当に読んだことになるのではないだろうか。

私がこのように考えるのは、たぶん、私が佐藤優に興味を持った発端が、彼の「キリスト教徒」という属性、さらに言うなら、彼が「キリスト教徒でありながら、外交官でもあった」という、その日本人には珍しい「属性」にあったからであろう。

私は「キリスト教」というものを批判的に研究しており、その興味の中心は「十分に知能の高い知的な人であっても、どうして宗教という非現実なフィクションを信じてしまえるのか」という疑問にある。
例えば「イエスは死後三日目に、肉体を持って復活し、その肉体のまま天に昇り、父なる神の右側に座した」とか「マリアは、原罪を持たずに生まれてきて、処女懐胎してイエスを産み、肉体を持ったまま昇天した」とか「キリスト教の一神教である。したがって、神は、父なる神と子イエス・キリストと聖霊の三位にして、それは一体である(断じて三つではない)」などといった「荒唐無稽な教義」が、なぜ信じられるのか。
そんなものを信じられる人が、徹底したリアリストでなければならない外交官であったという「矛盾」を、内的にどう折り合わせたのかと、私は佐藤優の生き方に「疑問」を持ったのである。

佐藤の態度が、基本的に「外交官」的であり「リエゾン」的なものだというのは、比較的わかりやすい。

佐藤が「郷土沖縄」の側に人間であり、基本的に「反安倍政権」であるというのは、ほとんど明示的に語られていることからもわかるその一方、自民党と連立政権を組む公明党、そしてその支持母体である創価学会へ接近するという態度の「矛盾」が、「外交官」的な意図に基づくものであろうことは、もはやあきらかだ。
佐藤の、公明党や創価学会や池田大作SGI会長にたいする「大絶賛」は、それらとのパイプを作っておくことが、安倍自民党にたいする一定の「具体的な影響力」の担保になるという「外交官」的な戦略によるものである。
そして、そうした佐藤の意図や本音については、たぶん公明党や創価学会の上層部も気づいているのだろうが、佐藤のような「外部の有名人」が「絶賛」してくれることは、組織の求心力に陰りが見えはじめている創価学会・公明党にはありがたいものであるから、お互いに「利害が一致」して、佐藤による「戦略的な絶賛」ということが行われているのだと見て、まず間違いはないだろう。

ただ、私が佐藤のこうした行ないに引っかかりを覚えるのは、佐藤の「公明党や創価学会や池田大作SGI会長にたいする大絶賛」を素直に信じてしまっている「一般の創価学会員への思い」という点においてなのだ。

要は、佐藤は、自身の政治的意図を持って、素朴な信仰者たる一般の創価学会員を騙しているのである。
完全な嘘こそついてはいないものの、公明党や創価学会や池田大作SGI会長の、評価してもいい部分だけを針小棒大に「絶賛」して見せ(欠点や問題点については、意図的に沈黙す)る行為は、実質的には、一般創価学会員の知的レベルを見下した上で、彼らを「コケにした」ものだとも言える。
だから、宗派がちがっているとは言え、同じ信仰者として、佐藤は「やましさ・後ろめたさ」を感じないのか、と私はそこを疑問に思うのだ。

無論、佐藤は「唯一正しい信仰としてのキリスト教」の信者であり、創価学会の信仰というのは「愚かな間違い(偶像崇拝の妄信)」にすぎないのだから、そんな信仰や信仰者は尊重するに値しない、とする立場もあろう。
しかし、誤ったものや誤った人たちを、切り捨てたり、好きに騙し利用する態度が、はたして「イエスの教え」に合致していると言えるのだろうか。もちろん、そうは言えまい。
だからこそ、佐藤優の「キリスト教信者」の部分と「外交官」の部分とは、内的に「矛盾」しているのであり、その矛盾の故の無理(観念的な自己正当化による、無矛盾性の自己回復のための、心理的負担)を強いられるのは、結局のところ「キリスト教信者」の部分であろうはずなのだ。
そのあたりを、佐藤優は、どのようなに自己正当化し、折り合いをつけているのか、そこが問題なのである。

もちろん、このような問題意識は、決して私だけのものではない。

『生徒 神学的良心と愛国心が相反することはないんですか?』(P231)

という問いや、

『信頼関係が十分に確立されている身内の中では、灘校生たちは、思いっきり背伸びをして、よく読み、よく議論し、私に対しても、臆せずに自分の意見を積極的に述べる。「佐藤さんの言っていることは、矛盾しているのではないか」と論戦を挑んでくる生徒もいた。本書を読んでいただいた皆さんには、よく理解していただけたかと思うが、ここでは真剣な議論の応酬がなされている。』
(249P、「あとがき」より)

といった追及は、質問者である灘校生たちが、佐藤に「人間としての誠実性」という本質を問い「この人は本当に信頼できる人なのか」という、当然の疑問を抱いていた証拠であろう。

そして、佐藤自身、自分の中で、完全には「折り合いがつけられない矛盾」のあることを自覚しているだろうし、そこに「やましさ」を感じてもいるだろうが、その「矛盾」を一時的にではあれ、押さえつけておくロジックとして考えられているものの一つが、沖縄返還時の日米密約について、最晩年になってから真相を語った、元外交官の吉野文六の「教養人的態度」なのであろう。

『 吉野さんは、なぜ人生の最後になって本当のことをしゃべったのだろう? 沖縄返還交渉の時には、確かに密約が必要だと外務官僚たちは考えた。しかし、歴史に対して嘘をつき通すことは、本当に日本のためになるんだろうか。本当に外務省のためになるんだろうか。吉野さんは自らの中に蓄えた知識と見識をもとにそう考えて、最終的に大きな選択をした。教養とはこういう場面で生きてくるわけだよね。』(P200)

結局、「嘘」をつくという行為は、誰かに被害や負担を押しつけることである、という事実は否定し得ない。
だが、当面、どうしても避けないわけにはいけない問題に対処するためには、「嘘」をつき、ある程度の「負担」を誰かに押しつけないわけにはいかない。
それは、その相手に対する態度として、決して「正しい」ものだとは言えないけれども、「大きな被害を出さないために、小さな犠牲もやむを得ない(大の虫を生かすために小の虫を殺す)」という政治的判断が、良心にもとずいて選択されているのである。

これは一般論としては正当化されよう。しかし、負担や犠牲を強いた相手への「負い目」はけっして無くなるものではない。
だからこそ、「教養」の名において、佐藤優は、自身がやむを得ずついてきた「嘘」について、その最晩年に「懺悔」するつもりなのではないだろうか。その気持ちがあるからこそ「いま嘘をついていることを勘弁して欲しい」という、内的な自己正当化を行っているのではないだろうか。

私はこんな、リアリスト佐藤優の選択を、否定する気も批判する気もない。
しかし、信仰的真理という側面から見れば、やはり佐藤の信仰はどこかで「自己欺瞞的」であるのは否定できない。「最後は神に委ねる」という決断ができない点において、佐藤は信仰者としては決定的に足りない部分がある、と評価せざるを得ない。
「信仰ではどうにもできない部分がある」と思っていながら信仰に止まり、リアリズムもまた信仰の一部であるとするような「合理化」は、いかにもプロテスタント的であり、ボンヘッファー的であるとも言えようが、それでもそれは、どこかで「信仰の限界」を認めているという点において、信仰的ではないとは言えるだろう。

また、佐藤のこうしたリアリスト的な選択は、個人の側に立つ「文学」とも相容れない部分がある、という点も指摘しておかなければならない。
文学は「大きな被害を出さないために、小さな犠牲もやむを得ない」といった政治的判断において語るものではなく、あくまでも個人の内面において「正直に語る」ものであって、その意味では、信仰と同様に原理主義的なものだとも言えよう。
そうした見地からすれば、佐藤優の態度は「不徹底でおもしろくない」という評価も避けられないのである。

無論、佐藤優は、こうしたことはすべて承知の上で、リアリズムを選択しているのだし、「ソ連崩壊の目撃体験」からもそうせざるを得ないのだろうから、それを批判するつもりはないのだが、しかし、そこには「矛盾」があり「犠牲」があるという事実は、リアリズムの観点からも直視されなければならないのである。

初出:2019年8月5日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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