
あの頃〈僕ら〉は、どうだったっけ?
書評:紺津名子『サラウンド』第1巻(torch comics・リイド社)
最初に断っておくが、本作は「BL」ではない。
帯に「男子高校生の日常」とあるとおり、ごく普通の男子高校生たちの、他愛のない日常を描いた作品で、ドラマティックな事件などは、いっさい起こらない。
男性読者なら「ああ、こんな感じだったかなあ」という、ちょっとした懐かしさとも郷愁ともつかぬものを覚えてしまう作品なのだが、作者が名前どおりに女性なのであれば、「男って、こんなふうに見られてたのかなあ」という感慨もある。
じっさい、女子から見れば、男というのは、おおよそ子供っぽくて、いっそバカに見えたのだろうと思うのだが、しかし、そうした「男子のバカっぽさ」を見守る作者の視線は、どこまでも温かい。
バカな男子への「憧れ」さえ感じさせるし、その意味で、本書に描かれた「バカな男子」たちは(当然なのかもしれないが)「理想化された、バカな男子」たちである。
だからこそ、彼らは、平凡かつバカなのに、愛おしいのだ。
現実の男子には、もっともっとガツガツしたところがあるように思う。他人にはつまらないことでしかなかったとしても、当人たちにとっては、その時々に夢中になっていることもあるだろうから、この作品の三人組のように、良いように肩の力が抜けてはおらず、充分に暑苦しくってウザいことも多いだろう。かく言う、私自身が、多分そうだったと思う。
それでも、「ああ、こんな感じだったかなあ」と思えるのは、やはり、こういう「特に意味もない、抜けた瞬間」が確かにあって、それが今となっては愛おしく感じられるからかもしれない。
人気ミステリ作家の東野圭吾にも『あの頃ぼくらはアホでした』という自伝的作品がある。
東野は関西人だから「アホ」になるわけだが、どっちにしろ、「あの頃」の「アホ」状態が、今となってみれば「憧憬の対象」だというのは、たぶん間違いのないところだろう。もう「アホ」ではいられないからこそ、「アホ」でいられた時代が、「黄金時代」としての輝きを放つのだ。
本作の「男子の日常」も同じである。
とるに足らないエピソードの積重ねだが、こんな「日常」は、望んだ時には、もう決して手には入らない、贅沢きわまりない「黄金」の時間なのである。