かぐや姫って月に帰ったんじゃないの?【歩いて目指せ日本橋13日目】
この記事は、江戸時代の旅人みたいな放浪の旅に出たかった人生どん詰まりの京都在住OLが、京都三条大橋から東京日本橋までを徒歩で旅した18日間の記録です。
【ルール】
【前回の記事】
【追伸:藤枝宿の写真について】
前回の記事で藤枝宿の浮世絵写真(浮世絵と同じ構図で写真を撮ること)を削除する失態を報告しましたが、その償いとして藤枝までリベンジしに行きました。
こんなに分かりやすい看板があったのに何で消しちゃったんでしょうね。これで何とか53枚分写真が揃いました。
駿河国・江尻宿(静岡県静岡市)
おはようございます。ここは静岡県静岡市にある江尻宿です。
ここら辺は徳川家康が眠る久能山の玄関口で、久能山東照宮記念棟が建っています。
清水みなと
旅を始める前に、前日は暗くてよく見えなかった「清水みなと」に立ち寄りました。
奈良時代には百済に船を出し、戦国時代には武田信玄が水軍基地として重視し、江戸時代には東西を結ぶ海路の中継地点として栄えた港です。
今回通る「さった峠」は、富士山と太平洋を同時に拝める東海道きっての映えスポットなので、富士山が見えるほど快晴なのは幸先が良いです。
大半の一里塚は石碑か看板のみ残っている状態ですが、たまに当時を再現して木を植えてくれている場所があります。
駿河国・興津宿(静岡県静岡市)
興津に着きました。7世紀には、東北の蝦夷対策で「清見関」という関所が置かれていた場所です。平安時代の「更級日記(日本史と国語でやりましたね)」では、「海まで柵が設けてあった」と書かれており、駿河以西の地域を守るために重要な役割をになっていたことがうかがえます。律令制の崩壊と、東国統治の基盤(鎌倉幕府など)が出来たことで、鎌倉時代以降は関所としての機能は失いましたが、清見という名前は、近くの海辺を指す「清見潟」として残りました。「清見オレンジ」としても身近な地名ですよね。
景勝地かつ避寒地だった(とはいえこの日は寒かったのですが)興津は、明治の鉄道開通以降には別荘地としても名をはせ、井上薫、西園寺公望などもここに別荘を構えています。江戸時代に脇本陣(本陣から1つランクを落としたホテル)として使われていた宿・水口屋は、西園寺や井上を訪ねた政治家たちなど、著名人御用達の宿として明治以降も存続しました。
宮様まんぢう
興津の名物に宮様まんぢうという一口サイズの饅頭があります。おやつ用に買いました。
明治時代に幼少期の大正天皇が興津に立ち寄った際、まだ幼い大正天皇でも食べられるようにと、一口サイズのお饅頭をふるまったことから、「宮様」と名前がつきました。子供向けの一口サイズなのですが、実態は酒まんじゅうです。
峠越えにむけて宮様まんぢうでエネルギーを蓄えようと、興津で休憩をすることにしたのですが、ここで重要な事実に気付きます。
ガイドブックがない・・・。
前回の記事の末尾でも書いたのですが、京都からずっと苦楽を共にしてきたガイドブックが、カバンの中にないのです。
【静岡市内で消えた私の相棒】
最後に開いたのは夕方ごろだったので、府中か江尻のどちらかで落とした可能性が高いです。でも落としていたら、流石に音で気づくはずなのですが・・・。ダメ元でホテルに電話してみましたが、「いや〜ないですね」と言われてしまいました・・。そんな・・・。
ここから府中まで戻って探すのは流石に無理があるので、一旦諦めて旅を続けることにしました。ズタボロ(鈴鹿峠と岡崎での雨のせい)のガイドブックが静岡の道端で北風に吹かれているのではと想像すると悲しくて仕方がありません・・・。
ガイドブックの話で脱線しましたが、興津の寒桜が見頃を迎えていました。まだ寒いのにここだけ春の陽気でした。
さった峠
本日の難所・さった峠を越えていきます。途中に色々と面白い看板があったので、2つ紹介します。
さった峠に直接関係はありませんが、江戸末期に和宮が京都から江戸の徳川家茂へ嫁いだ際、東海道ではなく、あえて難所だらけの中山道ルートで江戸に下った理由の一つが、「さった峠」が「去った」を連想させて縁起が悪いからだそうです。(勿論これだけが理由ではなく、東海道はポピュラーな分道中襲撃されるリスクも大きいので、それなら中山道で碓氷峠を越えた方がましだというのが定説みたいですが。。。)
これまでの峠は基本人影が皆無だったのですが、ここだけは絶景スポットだけあり、かなり人が多いです。お互い励まし合いながら上を目指します。
急にブワッと視界が開けて、目の前に富士山と太平洋が現れました。はるばる京都から見知らぬ住宅街や1号線沿い、時には峠道を歩いてきたという過程もあってか、大げさでも何でもなく、日本にこんな絶景があったのかと心の底から感動しました。写真の技術がダメダメなので魅力が伝わりにくいのが悔しいです。
惜むべきは、なくしたガイドブックの表紙がまさしくこのさった峠だったことです。こんなに綺麗な景色が見られるなら頑張って歩こうと、これまでの旅のモチベーションになってくれていた本なので、本当は一緒に記念の写真を撮りたかったのですが、一番肝心な日にまさかガイドブックをなくすとは・・・。ほんまに・・・・。
富士山はシャイなのですぐに雲の後ろに隠れました。初めだけでもお迎えしてくれてありがとうね。
ながめを堪能したので、東側のふもとにある由比宿を目指します。
駿河国・由比宿(静岡県静岡市)
由比は53次の中でも小規模な宿場です。ただ、宿場町を調べていると「○○はXX、△△と並んで小さい宿場町」と表現されていることがあるのですが、このXXと△△に当てはまる宿場町が紹介ごとに異なってて、結局三大小規模宿場町がどこなのかはイマイチ分かりません。
由比と聞いて、高校時代に日本史を勉強された方が一番ピンとくるのは由比正雪ではないでしょうか。1651年・慶安の変で江戸幕府転覆を企てた人です。彼の出自には所説ありますが、一説にはここ由比の紺屋で生まれたといわれています。江戸に奉公に出た後、軍学者として名をはせた正雪は、関ケ原の戦い、大坂の陣で大量発生した浪人救済を掲げて幕府転覆を企てるのですが、計画が露見したことで、前回の旅で訪れた府中で自刃に追い込まれました。
さくらえび
由比の名産はさくらえびです。国内でさくらえびの水揚げをしているのは、駿河湾だけだそうで、中でもここ由比の漁港でのさくらえびの水揚げは国内最大級です。かき揚げがテイクアウトできたので、お昼ごはんに頂きました。休憩したところで蒲原を目指します。
駿河国・蒲原宿(静岡県静岡市)
旧五十嵐歯科医院
大正時代の歯医者さんの建物がそのまま残っています。間取りは町家と和風ですが、外観は洋風です。
東海は温暖で雪はほとんど降らないとのことですが、歌川広重が描いた蒲原宿は「蒲原夜之雪」と題され、ザ・雪国な光景が描かれています。
17〜19世紀の日本は小氷河期だったそうなので、もしかしたら本当に雪が降っていたのかもしれませんし、「雪降らせた方が映える」みたいな広重アレンジだったかもしれません。
旅と並行して東海道中膝栗毛を読んでおり、蒲原編は「休憩中の大名行列に紛れて無銭飲食したうえに、体を拭く用の手ぬぐい(汚い!!!!!!)にご飯を包んでトンズラした」ことと「泊まった安宿で夜這いしようとしたら相手を間違えた」みたいな最低なエピソードでした。弥次喜多さんモチーフのキャラはいるものの、肝心の宿場町内でのエピソードはアピールしない宿場町が多いのですが、こんなエピソードが多すぎるのが原因だろうなと思いました。
かぐや姫伝説
かぐや姫のラストといえばかぐや姫が月に帰るというのが一般的ですが、富士山周辺の地域では、かぐや姫の故郷は月ではなく富士山で、彼女は富士山の神様だったといわれています。話のラストではかぐや姫から不老不死の薬を貰った帝が、「彼女なしで生きても仕方がない」とわざわざ富士山に登って薬を焼き払うのですが、一説にはこれが転じて不死の山=富士山になったそうです。
次の吉原宿までまだ半分ほどありますが、次の日仕事なので、新富士駅から京都に帰ることにしました。新富士駅に着くまで、ずっと富士山が綺麗に見えました。
さて、問題の失われしガイドブックのその後です。私が「ガイドブック」と説明したのが悪く、当初はホテル側もピンときていなかったみたいなのですが、数時間後、再びホテルから、「富士山と海が表紙の本でしょうか?」と折り返しの電話を頂きました。
そうです!!!
そしてその表紙の風景は、静岡県民のあなた方が誇るべき、さった峠からの絶景です!!
ホテルの館内に落ちていたみたいです。いつ落としたんだろう・・・。
その後着払いで発送頂き、継飛脚(江戸~京都を3日で移動できる猛者)よりも早く京都で受け取ることができました。令和に生きていて良かったです。
丸一日静岡で過ごすのは次回が最後です。吉原、原、沼津を経て、東海道最難関の箱根峠を控えた三島宿まで歩きます。
寧々
【おまけ】歌川広重の浮世絵と同じ構図で各宿場町の写真を撮るチャレンジ
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