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それでも、純粋性を愛そうよっていう。

純粋であることは、神様と契りを結ぶことである。

なんて言ったら引かれちゃうかな。

でも今日は、そんなテーマで書いていきたい気持ちなのです。


純粋であることって、何よりかっこいいことだなと思うんです。

自分の中の純粋性を捨てないことって、大人社会に適応するためにはどうしても「損である」とされやすくて、

そのことから、純粋であることはカッコ悪いとか、純粋さを捨てないことは人の迷惑になるとか、純粋さなんかより効率性や合理性を重視したほうが(要するにカネのために感情を殺して生きたほうが)クールだぜとか、

今は時代の空気感が随分変わってきているとは思うのだけど、少し前まではこういう 資本主義の奴隷みたいな考えに ひたひたに浸かりきっている大人がすごく多かったよね。(すなおさん言葉を選んでくださいね)

だから、この世の中で純粋でいることって時にすごく痛いことなんだなって感じていたんだ。


※ 純粋といえば、いつになく純粋な気持ちで泣きながらもがんばって書いたこちらの↓記事、いっぱい見てもらえて嬉しかった!



今これを読んでくださっているみなさんも、きっと一度は聴いたことがあるんじゃないかなと思うのですが

千と千尋の神隠しのテーマ曲の『いつも何度でも』という作品がありまして、ワタクシこの歌が大好きなんですよ。

(このかたのばーじょんがとてもすき)


この曲ってなんかすごく可愛らしくてピースフルな雰囲気だから油断しちゃうけど、言っていることはめちゃくちゃロックだなあっておもうんですよ。

すげーかっこいい。


「かなしみの数を言い尽くすより 同じくちびるでそっと歌おう」

って、きっと誰もがそうありたいっておもうけど、人の悪いところばっかり見つけようとする間違いさがし・犯人探しみたいなのが当たり前になっている集団の同調圧力の中にいたらこんなこと言えないし、思うことすら間違ってるのかな なんて感覚を持ってしまう。

みんなこういうメッセージを音楽の世界の話としてぼんやり共感はしても、実生活に戻ると「そうは言ってもそんなの綺麗事だろう」っていう顔して過ごしてる。


「輝くものは いつもここに わたしのなかに 見つけられたから」

なんて、私は今はわりと日常会話の中でもこういうことフツーに言うんだけど、たぶん多くの場合はこういうのってなかなかに勇気の要る発言だったりするのよね。

どうした?宗教入った?とか言われちゃうでしょ。

(まあ、そう言われたら「ええ、宗教っすよ」とかテキトーに流せばいいだけなんだけど)


純粋性を持ち続けること、哲学的であること、自分の信じる世界観を大切にすることは、大人社会の中ではなんだかとても窮屈で、そしてとても贅沢なことだよね。

だから私は思うのだよ。

世間では綺麗事と言われるようなことを綺麗事とも思わずに貫き通せる自分でいることって、すごく貴族的で優雅だなあって。

眉間にシワ寄せて目先の利益ばっか追い求めるよりも、圧倒的『美』だよなあって思うし、現代の貴族って純粋な人のことを言うんじゃないかな。


ここでちょっと、以前書いた【書くことで新世界の扉が開かれる『ハートが歓喜する愛と至福のblogメソッド』】からの引用になるのですが。

現代って、目に見えるタイプの財産や幸福っぽいものだけでは幸せになれない時代。
多くの人が「成功とか幸せになれそうなものを追いかけたけど、幸せになりきれなかった」という状況を経験しています。

気が付いたときには、自分たちが成功だと思い込み追い求め続けたもの(資本主義的な幸福の形)がもはや成功と呼べるものではなくなっているということが起こってくるのだ。

第一章「あなたの心の経験は必ず誰かの道標になる」より


目に見える成功や安定を手に入れられたら幸せになれると信じて追い求めたのに、心や身体がボロボロになってしまった人、たくさんいるよね。

テレビやニュースで大きく伝えられることはないかもしれないけど、生きることに疲れてるのに、それでも一生懸命笑顔作ってぎりぎりのところで生きてる人たちが、そこらじゅうに溢れてる。


比較や競争の中で目に見えるタイプの「勝ち」をゲットするゲームにはみんな結構お腹いっぱいになってるし疲れちゃってる。

比較・競争・無価値感・劣等感・将来への不安で回る経済は、もう末期なんだよね。


そんな末期状態にある無価値感社会の中で、今まで通りの資本主義的な「成功のしかた」とか「生き方の正解」を追い求める強迫観念みたいなものを捨てられない人ほど、今結構苦しくなっちゃってるんじゃないかな。

自分が悪夢の中でうなされているだけだということにも気がつけずに。



冒頭に書いた「純粋であることは、神様と契りを結ぶことである」。

この反対は、「純粋性を捨てることは、資本主義と奴隷契約を結ぶことである」。になるとおもう。

こんなこと書くとやばい奴って思われるかもしれないけどね。


比較・競争・劣等感を元手に回る経済(に基づく人々の価値観)というものが音を立てて変容してきている今、純粋性とか綺麗事と言われるものを受け容れる力っていうものが、一周回ってすごく必要になってくるのではないかな、なんて私は思うんです。

自分の中の純粋さを思い出すことは、もしかしたらすごく痛い道のりになるかもしれないけれど、それでもこんな今だから、私たちは 私たちの中の純粋性を、もう一度愛そうよ。

などと、湿気と暑さにやられてぼーっとする頭で考えるすなお氏なのでありました。


***


ここからちょっと、純粋性について別の角度からお話しがしたいのでサブスク版のお部屋に移行します。

ご購読いただいてるかたはこの先もよかったらお付き合いくださいな。

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