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図書館に棲む翁
本学の図書館では、数十年前に退職されたとある「先生」がほぼ毎日、読書にふけっている。
このことは一部の教職員界隈では有名な話で、いくつ年齢を重ねても揺るがぬ知的好奇心を示すものとして、多くの教職員から模範とされている。
一方で、学生たちに「先生」はほとんど認知されておらず、きっとよく見かけるおじいさんと認識されている。まさか毎日学生たちと並んで読書している「地域のひと」っぽい人が、高名な学者だなんて思わないもの。かくいうわたしだって、教えてもらうまで気がつかなかったし。
自分の地位を振りかざすこともなければ、周囲に干渉することもない。ただひたむきに学究へと励む姿はまさに「知の象徴」だ。
と、思っていた。先日までは。
この頃、感染症対策で利用が厳しくなった図書館において、その「先生」の行動が少し浮いていることには気づいていた。それもただ、複雑な利用ルールに対応できていないのかもしれないと自分のなかで勝手に思うことにしていた。
しかし、事態はもっと深刻だった。
先日、感染症対策で利用不可になった席に「先生」は座っていた。
気づいた職員がおそるおそる「こちらは利用禁止になっておりまして…」と声をかける。
「知の象徴」である「先生」ならば、職員の求めに応じて平和的に席を移られることだろうと思った。
でも違った。
「なに!?聞こえないよ!!!ああ!?」
「先生」は怒鳴った。それも大声で。
職員が必死で説明するも「先生」はまったくかみ合わない応答をして、職員に高圧的な態度で迫る。
腰が引けそうな職員。圧の強さに内心ビクビクしきりだったに違いない。
めげずに説得を続けるも、
「だから聞こえないって!なんだって??あ?」
と、「先生」は声を張り上げた。
何回かこのやりとりをくり返して、ついに聞こえたのか、「先生」はふてくされながら席を立った。
「知の象徴」である「先生」はきっと、年若い職員に注意されることが我慢ならなかったのかもしれない。あれほど模範とされ、高名な存在となってしまえば、面と向かって注意してくれるひとなんて、もういないのだろう。
一方、その職員さんはおそらく、「先生」のことを知らなかった。だからちゃんとルールを主張できたし、忖度も過剰な配慮もなしに向き合おうとした。
孤立無援の闘いを強いられ、心細かったかもしれない。でもたしかに、わたしはちゃんと見ていた。見ていることしかできなかったけど。
今度見かけたときは「あのとき大変でしたね」って声をかけたい。
さてここで、ひとつの疑惑が生じてくる。
毎日のように読書にふける「先生」が、当該の席上にデッカく書かれた注意事項が読めないはずはない。つまり「先生」は、利用不可であることを知りながら席を利用したのではないだろうか?
「図書館が「そんなこと」で利用制限されるなんてとんでもない!」なんて思想を抱いていたとしてもなんら不思議ではない。
真意のほどは「先生」本人にしかわからない。聞いてみたいけど、理不尽に怒鳴られそうなのでやめておきます。
いずれにしても、引導を渡されぬまま自らの地位と年齢がグイグイ上がっていくということは、実はかなりむなしいことかもしれない。誰も何も教えてくれなくなってしまうんだもの。
そう考えると、「先生」がどこか底なし沼のような寂しさにとらわれている気がした。図書館に入り浸るのも、他に居場所がないだけなのではないかとも思えてきた。
そのときから、わたしはそのひとを「先生」ではなく、「翁」と(陰ながら)呼ぶことにした。
だから今後、見かけることがあっても、
「先生」がいらっしゃる…!!
ではなく、
きょうも「翁」が元気そうだ!
の心持ちでいようと思う。
本学の「知の象徴」は、わたしが思っていた以上に危うく、寂しげな存在だった。
老いってつらい。
怪談話みたいなタイトルのくせして、その実は老いることの苦しみ=「老苦」についてのお話でした。