「人生は他者」だけど「地獄とは他人のこと」らしい
人生は他者だ。
西川美和さんの小説・映画『永い言い訳』で最重要となるセリフだ。
『永い言い訳』は、自分本位に生きてきた主人公が、妻の死をきっかけに、自分がどれだけ愛されてきたのか、そしていかに他者によって人生が紡がれてきたのかを理解していく…という物語である。
物語の終盤、主人公はノートにこのことばを刻み、先立たれた妻への想いを胸に他者と向きあうことを決意する。
ここでの「他者」は、主人公に人生を見つめ直させるような、おおむね好意的な存在として表現されている。
しかし、そんな他者について一刀両断するようなセリフが、60年ほど前のフランスで編み出されている。
それは、
地獄とは他人のことだ。
ということばである。
これはJ.P.サルトルの戯曲、『出口なし』のなかで示されたセリフである。
恥ずかしながらサルトルをじっくり腰を据えて触れたことはないのだけど、わたしの大好きな映画、『ハーフ・オブ・イット 面白いのはこれから』のなかで、主人公がしきりに引用していたので記憶に残っている。
『ハーフ・オブ・イット』は、他者からのまなざしにさらされる「青春」のなかで、セクシュアリティやエスニシティ、職業の壁を超えた「美しさ」と「愛情」を見いだしていく主人公たちを描いた物語である。
劇中でも示唆されているように、他者からの「まなざし」は人それぞれが持ちうるであろう「感覚」にフタをしてしまう。
おそらくそこでもっともフタをされてしまうのが、人それぞれがもつ「美しさ」への「感覚」なのだと思う。
他者のまなざしを意識せずに、何が美しいかという個人的見解を語ることは不可能に近い。
なぜならそれが社会というものだからだ。
「まなざし」こそが「普通」をつくる。普通であることが人生の、そして社会の「指針」となっていく。
しかし、「普通」を維持するためには、欲望を理性によって抑え、自らが抱くさまざまな「感覚」にフタをせざるを得ない。
このことへの痛烈な皮肉と、「美しさ」について問うた一作が、映画『アメリカン・ビューティー』である。
『アメリカン・ビューティー』は、アメリカの(白人中流)社会において「普通」であることに懸命であろうとする人びとが、それぞれの「美しさ」を見いだすさまをユーモアを交えて描き出すものだ。
物語のラストで、登場人物それぞれが見いだした「美しさ」が明らかになる。それはどこか儚げなのだけど、それ以上に気持ち悪さを伴う。
そう、なにか「吐き気」のようなものだ。
サルトルは、吐き気-すなわち嘔気-について、「存在」がむき出しになったことへの反応であると解釈した。
この概念を借りれば、わたしは『アメリカン・ビューティー』のなかで、むき出しの「美しさ」を目の当たりにしたからこそ、「吐き気」のようなものをもよおしたのかもしれない。
だからこそわたしはこの作品が大好きなんだけども。
しかし、上記で「アメリカの(白人中流)社会」と述べたように、この作品が映し出す「美しさ」は、すべての社会に普遍的とはいえない。むしろアメリカ白人中流社会によって作りあげられた、アメリカ白人中流社会のための「美しさ」であるとも解釈できる。
それではやはり、わたしたちは自分なりの「美しさ」の「感覚」を見いだすことは不可能なのだろうか。
おそらくそうではないと思いたい。
ただし、自らのもつ「美しい」の「感覚」を他者に主張しようとした瞬間に、その「感覚」は自分のものではなくなる。
なぜなら、わたしたちが用いる言語などのコミュニケーションは、他者によって付与されたツールだからだ。
もうすでに「わたしの感覚」は、他者という土俵のうえに立たされてしまっているのである。
もっと言えば、「わたしの感覚」を言語化したものは、「わたしの感覚」を直に取り出したものと同一ではないのである。
つまり、感覚のひとつひとつをふくめ、人生は他者によってつくられ、つくりかえられているのだ。
こう考えると、『永い言い訳』の「人生は他者だ」というセリフはいささか皮肉にも思えてくる。
もちろん、他者を拒絶して自分本位の人生を築くことは破滅をもたらす。繰り返すが、ひとは社会のなかでしか生きられないからだ。
西川が描いた主人公は、むき出しになった他者の存在を意識することで、文字どおり「吐き気」をもよおしながらも、前を向いていく。
そして、そこでたどりついた「前」は、友人やその子どもも交えた希望に満ちたものになっていた。
とりあえずここまでをまとめると、「地獄であるはずの他者によってもたらされるものこそが人生」ということになるだろう。
しかし、芥川龍之介はこう言う。
人生は地獄より地獄的である。
と。
つまり芥川は、人生そのものこそ、フィクションであるはずの地獄よりも地獄のようであるとしたのである。
たしかに、この社会に散らばる数々の目を背けたくなる現実は、わたしたちが思い描くような「地獄」よりもずっと厳しいものかもしれない。
だからこそ、その地獄的な世界を和らげるために「涙」があると、わたしは思う。
坂本九は『涙くんさよなら』(詞:浜口庫之助)のなかで、涙くんに呼びかける。
君は僕の友達だ
この世は悲しいことだらけ
君なしではとても生きていけそうもない
ここでいう「涙くん」とは、わたしたちにこの「悲しい」世の中で生きていくための「お薬」を処方してくれるような存在に思える。
アニメ映画『インサイド・ヘッド』でも、「カナシミ」がもたらす思い出が、少女に前を向かせる決め手となっている。
この物語では「カナシミ」があるからこそ、「ヨロコビ」がもたらされるのだと訴えてかけている。
さて、さまざまな方向へと話が散らかってしまったが、ここでのだいじなことは下記の3点にまとめられる。
①「地獄よりも地獄的な」人生の「悲しいこと」をちゃんと「悲しい」と思えること。
②他者を地獄とまでは思わずとも、自分とは決して同一にはなり得ないと意識すること。
③そのなかでも、自らの「悲しい」を他者に受け渡し、かつ他者からも受け取ることで、自分を伝えつつも他者をなるべく知ろうとすること。
「自分」にとって「他者」は最大の脅威だ。しかし、他者なしで自分は存在できない。
この矛盾をどう乗り越えていくか。そのカギは「悲しい」への向き合い方にあるように思う。
情緒的な話をすると、これからを生きる子どもたちに、「人生は地獄より苦しいけどせいぜいがんばりや!」なんてことはとても言えない。あまりに無責任すぎるからだ。
その代わり、声を大にして伝えたいことがある。
「悲しい」と思うことを畏れないでほしい。そして、それを伝えることも、受け取ることも。
その先にはきっと、他者とともに築く「ヨロコビ」に満ちた人生が待っているのだから。
誰かに直接伝えられる機会がくるかどうかはわからないけれど、とにかくわたしはそう信じている。