2021年の振り返り(ネルソン水嶋の近況報告)
2021年の振り返りをしたところ、「物」「血」「社」というキーワードが見えてきた。
自己整理のため、あともし気に掛けてくれてる人がいればそのためにも共有しておこうと思い、ここに書いておきます。
「1年を振り返る」というお誘い
年の暮れ、土佐山アカデミーの吉富さんから「1年の振り返りをしませんか?」というお誘いをもらう。夕方からの約束だけどノンアルコール、話をあてにお酒を飲む訳じゃない。その振り返りはマニュアルまで存在していて、「NASA」でもやってるプログラムを元にどうたらという、とにかく賢い人達が考えたものらしい。
40人のビジネスパーソンが絶賛した「1年の振り返り」完全マニュアル
簡単に説明すると、4人で1年を1人1時間かけて話し、合間合間に3人が深掘り、最後に話し手の1人がまとめ、また3人がコメントする。最後に各々がとったメモを共有。あとは各自酒飲むもクソして寝るもよし。つまりイベント終了。
マニュアルの詳細に興味が湧いたらリンク先を読んでもらうとして、これがかんなり有意義な時間になった。自分自身の整理にもなったし、ポール(参加者の一人)の一言がヒントになり事業の方針も決まった。
時期的に厳しかったか4人全員は集まらなかったけど、3人全員がヒアリングが大事な仕事をしているので、本当に質の高い振り返りができたと思う(相変わらず自分は説明が下手、という自省のおまけ付き)。参加者によって毎回得るものが変わりそうだし、1月のうちにまたやろうかなと思ってる。
なおリンク先のマニュアルは対面前提ですが、今回はオンラインで沖永良部島と高知と東京をつないでやりました。
事前に振り返りシートを作成
振り返りは、前もってひとつのシートを準備。
私のがこれ。
1年を四半期に分けて、「大きなイベント」「注力したこと」「記号」「一言メモ」「キーの人物」を書いていく。キーの人物は個人名ばかりなのでここではまるっと伏せました。リンク先にあるテンプレートを持ってきて編集したんだけど、「ポップ体フォントは締まんねぇなぁ」と思ってたら、他の2人はきっちりフォントを変えていてやっぱりそうだよねとちょっと笑った。
さて、今見返すと、振り返っただけでまとまってはいなくて、それを取り繕うように無駄に言葉が並んでる。でも今回2人に向けて口頭で説明したこと、コメントと、最後にメモをもらったこと、それを後日咀嚼する中で、冒頭の「物」「血」「社」という3つのキーワードが浮かんできました。
それらを軸に2021年を振り返ります。
『物』→コト(4・5次産業)からモノ(1・2次産業)へ
今、自分の主な事業は「コミュニケーションツールの開発・販売」です。たまに投稿を見かける人からすると、「なにやらイラストを印刷したTシャツをつくっている」かもしれないけど、具体的に説明すると、「共通言語がない人同士でもコミュニケーションのきっかけをつくるもの」をつくっています。
その背景には、あちこちで語っていますが、「急激に外国人住民が増え多文化社会へと向かう日本で生まれる衝突、これをなくしたい、あるいは建設的なものにしたい」という課題解決意識があります。動機の根底にあるものはプライベート的とも言え、「クリエイターになる」という夢を叶えさせてくれたベトナムへの恩返しであり、原体験はベトナムにおける外国人体験です。でも実は動機にもうひとつ、課題の文脈と離れるため積極的には言わないことがありました。
それが、「コトづくりからモノづくりへ」という、自分の仕事による成果物の転換です。ブロガー、ライター、編集者、私がこれまでやってきた仕事は、情報という「コト」を扱うものでした。企画としてモノをつくることはあっても、最終的に売るものは原稿という「コト」です。原稿料だったり、広告収入の源泉は、メディアの広告主がその注目によって得られる利益であり、元を辿れば多くの場合、資源としてモノがある訳です。たとえ情報ビジネスでも、お金の流れる元を辿ればモノがある。これを書きながら気づきましたが、シンプルに一・次次産業ってことかもしれません。一方で私が携わってきた情報発信という仕事は、四次産業とも、五次産業とも言われています。
あるテレビ業界人の方が「テレビは虚業だ」と話していたのですが(今でも思っているか分かりませんが)、メディアに関わる業種や仕事、つまりはライターも虚業だと思っています。何かを広く伝えることはできても、他者との関わりなしにそれ単独では稼げません。でもそれはすごく大切な立ち位置で、だから経済も社会も成り立っている。後ろ向きな意味で書いてはいないことを断っておきます。
でも私は、べとまるという自前のメディアの運営や、そのあとに立ち上げから関わっていたメディアでの仕事を続け、そして「続けられなくなる」中で、モノづくりに関わってこなかった自分に辟易している部分がありました。今でこそ言葉にできますが、メディア運営を商売として考えたときに、売り上げ=モノ(生産)×コト(営業)のかけ算においてどこまでも「コト」しか担えないと思うからです。
つまり、ブロガーとして、ライターとして、編集者としても、どれだけがんばってコトを100にしたところで、モノが0ならいつまでも0なんですよね。どれだけ話がおもしろい営業でも、何も売る商品がなければ、売り上げもない訳で、それは結局「続けられない」という形でメディアに返ってきます。それこそYahoo!のいいとこに載ったって、ダメなんです。だから虚業だと思うのです。ほぼ日刊イトイ新聞とか分かりやすいですよね、めっちゃモノ売ってる。つくってるもの、つくってないもの、あるけれど。
そんな経緯があり、起業にあたって私はモノにこだわっていました。もっと言えば、モノとコトの二刀流を目指したいと思っていた。数年前に流行ったオウンドメディア(メーカーなどが運営するウェブコンテンツメディアという認識でいいと思います)もあらかたなくなり、伝聞と想像の半々ですが、その理由はコトを担う人が外注で、ブームの沈静化とともに「効果あんま出ないぞ」と予算が切られたからと勝手に認識しています。ウェブ上のブランディングはほぼゼロからの出発で、1~2年で成るものではない…というのもありますが、そもそもモノもコトも当事者意識を持った人達が一蓮托生でつくらないといけない、でなければコンテンツと売り上げだってリンクしない。はず。だからこそ、メディアを続けることも踏まえた上で、私自身がまずモノづくりを体得しなければならないと思っていたのです。
この10年続けてきた間で、よいビジネスパートナーと出会えればよかったのですが、ついぞそういう人は現われなかったか、あるいは私が出会いに気づいてこれなかった。今となっては、個人として、モノもコトの二刀流、ビジネス宮本武蔵になりたいという欲もあるのですが。
ただ、そんなモノへのこだわりから、コミュニケーションTシャツというアイデアに至った訳ではありません。全世代全文化的コミュニケーションを考えたときに、少なくともこの現代で、アプリ(スマホ)など扱う人を選ぶものではなく、それこそ子どもでも扱いやすいアナログツールであることは重要だった。モノへのこだわりと、課題解決のアプローチがたまたま重なったのです。本当にふしぎだなと思います。
振り返りが昨年どころじゃなくなっていますが、そんな自分にとってはじめて事業としてつくったモノを知ってもらう目的もあったクラファンが、2021年の2月に成功を収めた。それは間違いなく大きなイベントでした。
ベトナム人実習生の失踪・過労死・自死などを解決する”Tシャツ”開発
ま、物といっても、既成品のTシャツに印刷しただけといえばだけなので、デザインや翻訳というコトのウェイトが大きく占めていますけど。一歩目としては上々ということで、今後余裕があれば、そして必要が出てきたら、より複雑なモノづくりをしていきたい。その点で沖永良部島で、えらぶいろクレヨンやジャガイモねんどをつくっている一般社団法人しまやどりさん(宮澤さん)に出会えたのはよかった。
『血』→沖永良部島、奄美人としてのアイデンティティのおこり
もともと沖永良部島は母の出身であり、私の半分は島由来です。
とはいっても子どもの頃に何度か遊びに、あとは学生の頃に畑仕事を手伝ったくらいで、生まれ育った訳ではありません。でも両親の出身はどちらも大阪でもなければ関西でもないので、大阪人という意識もいうほどない。そんな中、実はベトナムという土地こそが自分にはじめてアイデンティティを与えてくれたとも言える存在だったのですが、当然ながら「在住者外国人」という枠の中で、でした。
そこで沖永良部島に住んだことで、なにか血が騒ぐというか、はまった部分があります。夢中になるという意味ではなく、腰が据わった感触があるというか。もともと自己暗示にかかりやすい性格で、自分がこれだと思ったことはトコトン突き進む節があります。逆に、まったくこれだと思えないことへの拒否反応は高いです。だから会社員生活が本当に嫌々でしょうがなかったんですけど。
そんな自分にとって「ルーツのある土地に住む」というのは、生産性とでも言うか、モチベーションとでも言うか、人間力という曖昧な言葉しか出てきませんが、とにかくとても重要だったと思います。しかも生まれ育っていないもんだから知らないことばかり、だけどルーツがあるから文化も歴史も現代社会もめちゃくちゃ興味があるんですね。それでネットにある論文を読んで楽しんでいたのですが、「奄美群島南三島経済新聞」と「琉球新報」という2つの新聞記者の仕事をはじめたことは大きな転機でした。
取材で聞いた話を、自分でまとめることが仕事ですから、楽しくて楽しくてしょうがないのです。自分で言うのもなんですが、興味津々な自分が「鬼」なら、記者という仕事は「金棒」にも例えられます。そこにさらに降って湧いたように現われたのが鹿児島大学の奄美教育プログラム。取材はいわば興味で当たりをつけるフィールドワークな訳ですが、このプログラムによってこれまで先人たちが研究してきた、沖永良部島に留まらない、文化・歴史・自然などの情報を、4ヶ月という短期間ゆえに決して深くではないかもしれませんが、学ぶことができました。また、沖永良部島を含めた奄美群島各島を拠点にする人達とつながることで奄美人としてのアイデンティティも強化されました。
ここで予期せぬ収穫は、事業と大きくリンクしたこと。事業の土俵は、外国人共生、いわゆる多文化共生と表現される分野だと思っていますが、そこで語られがちの「相互理解」という言葉に、なにかスッと腑に落ちないモヤモヤを感じていたんですね。でも、自分のルーツがある沖永良部島と奄美について学ぶうちに、それが一気にサーッと晴れた。それは、自分のアイデンティティを大事にできなければ、相手のアイデンティティを大事になど到底できないということです。他者への想像力(思いやり、配慮)の基本は、自分にそれがあるかどうかだと思っています。あるからこそ、相手にもあると想像できる。
相手の文化を理解しようという言葉の前に、一体どれだけの人が自分の文化を理解しているのか、興味を持っているのか。自分なりの、ですが、多文化共生の本質見つけたりという気がしました。なお、これは与論島での実習で気づいたことですが、長期出張直前という状況もあったんだと思います。きれいに奄美のことと多文化共生のことが頭の中にあったからつながったんでしょうね。
もちろん、アイデンティティとはいっても、それが必ずしも血のつながりだけを意味するとは限りません。私もベトナムに暮らしたことで、他国への興味も湧いたことですし。ただ自己暗示にかかりやすい自分としては、ルーツがあるということがこの大きな発見につながったのでした。
この「血」は、来年も、たぶん再来年も、大きなテーマになる気がします。何をやるにしても関わってくるでしょう。だって私は死ぬまで沖永良部島由来、奄美由来の人間なんですから。そして、父方の新潟県糸魚川市にも、なにかつながりを求められるときが来たらと思っています。
『社』→社会起業家としての自覚、大変さ、楽しさ
かっこつけてる感じがして自分では言わなかったのですが、県の関連補助事業の採択だって受けたしもう言っていいだろうと思い名乗ります。駆け出しですが、昨年は自分が社会起業家になった年だと思っています。さまざまな文化が交わる中でどう生きるか、支援できるかは、立派?な社会課題です。
鹿児島県の起業支援事業はその前年から知っていたので、そこに照準を合わせていろいろと動いていたのですが、きっちり念願通りに採択を受けることができ、その流れで政策金融公庫から融資を受けて、8月10日に法人を設立しました。いろんな人に教わりながら事業計画書をつくりましたが、アイデアを含めて褒めていただける機会が多くて、ようやくビジネスの入口には立てたのかななんて思っています。
起業するということには、これまで自分が学ばせてもらったスキルや経験…言わばクリエイティビティというやつを、どれだけ人や社会の役に立ち対価(売り上げ)に変えられるか…ビジネスパワーに転換できるか挑戦したい、という思いもありました。その点で、幸先はよかった。幸先は。
「法人をつくることは簡単だ、つづけることが難しい」なんて聞くけど、本当にその通りです。つづけるもなにもまだ一期も迎えていないのだから失笑されそうですが、一人社長としてはまず会計も税務もアップアップです。なんでこんなのやらなくちゃいけないんだコンチクショーと思いながらやってます。だからこそ、早く売り上げを立てて、税理士さんにまるっとお願いしたいものです…。
でも、そんな法人としての諸々の業務は、経営者としての自覚を育てるいい儀式になっている気がします。ネットで調べもしますけど、最終的には地元商工会さんに頼れる。また、やはり個人ではなく法人として動くことで、関わる人々が一気に広がったと思います。法人もあれば、行政もあるし、NPOも社団も財団法人も。そんな多様な出会いに、ライターとしての自分のスキルをうまく絡ませれば最高におもしろいものができそうですけどね。そこのところの準備も着々と進めています。
ただ一方で、かなり大変さも感じています。立ち上げ段階で、あと補助金を受けていることもあってけっこうお金を使っているんですよ。あとでダラダラと使うよりも半分が返ってくるうちにババッ!と使って悪いことはないと思うんですけど、そこで得られたものをどう活かせるかですね。だから、「大変」の内訳は、会計や税務関係の業務と、あとなによりもプレッシャーだな。
でも、昨年は最後の最後に光が見えたのでよかったです。具体的にはこれのことです。 https://suzuri.jp/COMETI
2022年は「語」っていく年
ここでは昔話もだいぶ入りましたけど、1年の振り返りで話したことはだいたいそんな感じです。
冒頭で書いた事業の方針にもつながったという、ポール(友人)の言葉は、「ネルソンに共感する人は商品を買うし、共感しない人は買わない」とでした。これは、あー、そうかもなぁと思って。実際、クラウドファンディングがそんな感じだったんですね。というよりクラファンは共感が鍵でしょうし。
そのさらに3日前、どうしたら売れるのかーと島の友人に相談したところ、「物ではなく物語」と言われて、ズドン!と胸に刺さって。というのも、頭では分かってたはずなんですよ。ライターとしてPR記事などを書くときにそれを意識していたはずなのに、自分のことは見えないもんですね。
その二人の声を振り返り、気づかされたのは、自分はこの一年、物にこだわりすぎていて、語(かたり)をないがしろにしていたということでした。こういうSNSではよく書くのですが、商品を買って役立ててほしい人達に語れていたのかというと、クラファン以降まったく伝えてこれなかったように思います。
物がなく、語るだけに辟易した自分が、物にこだわりはじめて、すっかり語ることを忘れていた。なんかこう、人間一人のキャパシティもホントたかがしれてますね。私が、かもしれないけど。今年は再び語りに戻ってくる年、いや、ちがう。モノを左手に、コトを右手に、いよいよ二刀流を目指す年。これ、物と語りで物語っていうのもおもしろいですよね。2022年は物語をつむぐ年とも言えます。
事業において、商品開発の工程はぼちぼち区切りが付いて、今後はいかに知っていただくか、買って役立てていただくか、ということに注力していきます。
沖永良部島、奄美についても事業の領域に深く関わってくると思います。というより、一週間後に奄美大島で奄美教育プログラムの講義があり、そこでビジネスプランの発表会があるんですけど、早速そこで話します。半年眠らせてるアイデアがあるんです。今進めてノウハウを得たことを、どう横展開していくか。本当にゼロからまた新しいことをやるのではなく、今あるものから派生させる。大事です。
最近は、その過程で学んだ知識や経験を、島内で新たに挑戦する人達に共有していきたいと思っているところです。というのも最近、奄美広域事務組合とCAMPFIREが共同運営しているクラウドファンディングで、キュレーター(起案者のサポート)の委託を受けることになったため。鹿児島大学のプログラムで学んだビジネス設計もうまく活かせそうでワクワクしています。
でも当然、私自身の挑戦が成功しなければ、その説得力もついてこない。自分のために、コミュニケーションに困っている人のために、島のために、奄美のために、私はうまくいかなければなりません。勝手に頭の中で大勢を巻き込んでがんばります、その方がやる気出るから。
添付にある画像は、ポールと吉富さんにつくってもらったメモです。上がポールで、下が吉富さん作。私はほんと走り書きのようなものしか渡せていないので、次回また別の人とやるときはがんばろうと思った。ポールは16年前から知っているのですが、2021年で私は大人になったと言われました。ずっと「おもろいことやろうぜ」的な付き合いをしてきた仲間なので、ここに来てそのコメントは大きいように思います。社名を「オトナキ」にしたくらいだからそれこそ自己暗示がかかっていたのかもね。そっかー。
あと一ヶ月ちょっとで38歳になるんですけど、その歳でドリアンの皮装備するのは勇気が要るよな。でもなんとなく、ヘンな企画もビジネスを絡めてやればなんでも大人な香りが漂う気がする。いっちょがんばりたいと思います。
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