空と宙の境の春嵐
「試験始め!」
一斉に紙をめくる乾いた音がした。紙に言葉や数字、記号を書くサラサラという音が続く。憂鬱な気分を振り払おうと、私も勢いよく1枚目の問題用紙をめくった。ざっと問題に目を通してから、静かに目を閉じた。
ああ駄目だ。1問目からさっぱりだ。なんで昨日の夜、寝ちゃったんだろう。徹夜でやれば苦手な科学のテストもなんとかなると思っていた。教科書に記された化学式が子守歌を囁き始めた頃から、記憶が無い。
すぐ横の窓から入ってきた生ぬるい風が、私の解答用紙をさらっていった。手を上げると先生がやってきて、無言で解答用紙を机に置いてくれた。頭をちょっと下げてから、真っ白な解答用紙を腕で隠す。
問題用紙をまたしばらく見つめて、窓の外に視線を移した。真っ青な気持ちいい春の空だ。あの空の先は宇宙。こんな抜けるような青空の日は、空と宙の境がどうなっているのか特に気になる。
地上から100kmのエリアには、カーマンラインという仮想の線が引かれていて、その線を超えた先が宇宙らしい。いつか宇宙飛行士になって、そのカーマンラインを超える瞬間を自分の目で見たい。
ばふっと、舞い上がったカーテンが顔面に当たった。慌ててカーテンを顔から引き離していると、先生がまたやってきて窓を閉めてくれた。
宇宙飛行士になるために、まずは目の前のテストをなんとかしなくては。また問題用紙を見てみるが、押し寄せてくる化学式に太刀打ちできる気がしない。
完全に諦めて2枚目の問題用紙を捲ってみる。数式や英文が羅列されていた。あれ?これは科学のテストのはず。出題ミスだろうか?こんな盛大に?
全身の神経を研ぎ澄ませて、周囲の雰囲気を探る。相変わらずサラサラサラと、シャーペンの芯と紙の擦れる音がリズミカルに響いている。誰1人気付いていない?そんなことあるだろうか?
また横からの突風に襲われる。必死に問題用紙と解答用紙を抑えながら、さっき先生が窓を閉めたことを思い出す。周囲を見回せば、先生や同級生の姿は消えていて、無数のテスト用紙が教室中で舞っていた。
ゴゴゴと低く響く空調機器の作動音で目が覚めた。のっそりとアイマスクを取る。横を見れば、同僚のリリヤがモニターを凝視していた。
凛々しい横顔と大きく張り出した鼻。いつも大きい鼻がコンプレックスだと言っているが、私はリリヤの堂々とした鼻が好きだ。照れくさくて、まだ伝えていないけれど。視線で気付かれたのか、リリヤがこちらに顔を向けた
「まだ交代の時間じゃないから、寝てていいよ」
「んー……なんか変な夢みたんだ。眠いけど、もう寝ないほうがいいかも」
「あー、あるある。悪夢から覚めた後すぐに二度寝すると、悪夢の続編が始まるんだよねー」
「悪夢……っていうか、焦る夢だったような……気がする」
「それって、悪夢じゃないの?」
リリヤがモニターの前から移動して、横にあるパネルを操作し始めた。
のそりと起き上がって、簡易ベッドと自分の身体を繋いでいるベルトを外した。身体が浮き上がらないように仮眠中は必ず着けなくてはならないのだ。ベッドからふわっと離れて、モニターの前に陣取る。
モニターには、宇宙のパノラマ映像が映っていた。この調査用の小型宇宙船が移動しながら撮影してきた映像記録だ。早回し状態になっていて、宇宙船がぐるぐると地球の周回軌道を辿りながら、宇宙へと進んでいく様子がよく分かる。
火星がちらりと映り込んでからは、無数の岩石の群れの中に突入していく。火星と木星の公転軌道の間にある小惑星帯だ。アステロイドベルトとも言う。まだ星になる前の岩石の密集地帯。事前に綿密な観測調査を行い、宇宙船が岩石とぶつからずに突破できるルートを計算しておいたからこそ撮れた貴重映像だ。
巨大な岩石と岩石の間を滑り抜けていくようなスリリングな映像がしばらく続いた後、その岩石の群れの輪も遠くなっていく。木星も土星も天王星も遠のいて、そろそろ海王星の姿が見える。そこで映像はスタート地点に戻った。ループ再生しているらしい。
映像は灼熱の大気圏から宇宙空間へ飛び出した直後から始まる。しばらく映像が上下に揺れた。振動が収まると、青白い地平線がはっきりと見えてくる。恐ろしいほどに暗い宇宙空間と、地球の青い輝きのコントラストは強烈だ。オーロラの透き通る輝きもだんだんと強くなっていく。青緑から赤へと変化していくオーロラに、包み込まれている。
「ああやっぱり……カーマンラインを超えた時の景色は格別に綺麗。何度見ても、この世の物とは思えない。リリヤはどう?」
リリヤはパネルを忙しそうに操作しながら、ふふふと笑った。
「私も好き。大気圏を無事に超えたっていう安心感もあるのかな。すごく、ほっとする。恐ろしい宇宙空間に飛び出したんだって、頭では分かってるのにね。地球の陸地とか海とか雲とか風とか、何もかもと切り離される感覚がして、切ないのに安心してるの。毎回不思議な気持ちになる」
ついに青白い地平線は地球の輪郭になって。地球から離れていく私達の視界のほとんどを宇宙空間が占めていき、地球は極小さい星の1つになっていった。
眠くなってきた。もう悪夢は見ない気がする。やはりもう一度、眠っておこう。
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