一対の時計師とクリームパン
息を詰めて、ムーブメントに最後の部品,、テンプを組み込む。
時計の基幹部だ。全てのピースが狂いなく揃わなくてはならない。最後まで気が抜けない。
よし。見事に複雑なパズルが完成したことを確認して、極小のネジを止める作業に移る。素早く正確に。細いドライバーを回し終えた。
最後に、最も重要な精度のチェック。緊張する工程だ。モニター付きの長方形の機器にコードで繋がっている透明な台に、ムーブメントを慎重に乗せる。
全ての情報を、皮膚の下に埋めたチップで管理できる今の時代、もう時計を使う人間は絶滅しかけている。しかし、私は死ぬまで正確な時計を作り続けるだろう。
モニターに表示される数字が、正確な時計師だと私を認めてくれていた。ほっとした時、丸い壁掛け時計がピピピと鳴った。
ああ、午後の休憩か。腕時計を見つめる。反対側の私が作った時計だ。私は自分で作った時計しか信用できない。使わない。
ピーと、また異なる電子音が玄関から聞こえてくる。いつもより早い。大切な得意客だ。
「どうも」
「どうも」
いつもの短い挨拶を交わして、無言で押し付けられた紙袋を受け取る。香ばしく、淡く甘い香り。
「クリームパン」
「お土産。来る途中で売ってたから。好きでしょう。私も好きだから」
「これはありがたい」
黒いマントと黒いニット帽の彼は、ずんずんと作業部屋に近づき、ドアを開けた。私は温かいクリームパンを抱きながら、後から部屋に入る。
彼はもう、注文の懐中時計を迷いなく手にしていた。彼の注視している文字盤の針は、左回りに進んでいる。文字盤の数字も逆。
「今回も、注文通りに作っておいたよ。お眼鏡にかなうかな」
「うん、いいね。正確だ」
「その言葉が一番嬉しいよ。じゃ、お代のほうを」
「ああ、もちろん。こっちも注文通りさ」
彼は手に持っていた小さな黒いカバンを机に置き、ジッパーを開けた。カバンからさらに小さい黒い箱を取り出す。その箱には、シンプルなシルバーの腕時計が収まっていた。
今つけている腕時計とそっくりだ。正確無比な針の動きも。さっそく、付け替えてみた。
「ああ、確かに。こちらも、正確だね」
「良かった。じゃあ。これからもご贔屓に」
いそいそとカバンをしまうと、彼は玄関に足早に向かう。慌てて追いかけた。
「ねぇ、クリームパン、一緒に食べてかない?コーヒーなら、あるし」
「ごめん、ミラーユニバースセンターのワープゲートの予約時間がギリギリなんだ。こちらの地球への帰還が遅れたら、対の私である君にも迷惑がかかる。だから、また今度。時計、ありがたく使わせてもらうよ」
風のように、彼は去って行った。残された腕時計とクリームパンを見比べる。
時間が逆に進むという、鏡写しの宇宙の地球。命さえも、鏡写しで存在しているという。つまり、そこに存在している彼は、対の私だ。ここにいる私は、対の彼。彼と私は、同一人物ということになる、らしい。
偶然出会えた私たちは、時計の交換を数年間続けている。彼も私も、やっぱり正確な時計師だ。
今は、午後3時30分。おやつ休憩にしよう。熱いコーヒーと、ふかふかのクリームパンで。