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アイス・レコード交響曲
今日も夏を名残惜しむように、蝉が鳴いている。よっこらしょ、と年季の入った立て看板を出した。喫茶店『律』の営業開始だ。
お客さんは、まだしばらく来ないだろう。自分用のコーヒーを淹れようとした時、ドアベルが鳴った。
「やぁ、マスター。朝早くからごめんね。ちょっと、見てもらいたいものがあってさ」
常連の老紳士、石崎さんが、小さなクーラーボックスを抱えて立っていた。朝に来るのは珍しい。いつもは夕方頃に来て、他の常連さんたちと世間話をしているのに。
「いらっしゃい石崎さん。もう営業中ですから、どうぞどうぞ」
急いで店に招き入れる。石崎さんは初めて店に入った時のように、きょろきょろと店内を見回した。
「ははは、本当に、いつ見ても面白い喫茶店だなぁ。子供のおもちゃ箱の中みたいだ」
店内には、私が趣味で集めているものを飾っている。絵画や置物だけでなく、日用品や工具など、一般的には飾らないものも。気に入ったものは何でも、飾りたくなってしまうのだ。
「初めて来た時、石崎さんはずっと楽しそうに店内を見て回ってましたね。せっかく熱々のコーヒーを出したのに、すっかり冷めてしまって」
「そうだったね。もったいないことしたなぁ。ここのコーヒーは天下一品だっていうのに。ああ、今日はアイスコーヒー、一杯頼むよ」
「へへへ、ありがとうございます。もう九月だっていうのに暑いですねぇ」
石崎さんをいつもの席に誘導する。見慣れないクーラーボックスが妙に気になった。
「おっと、本題を忘れる所だった。マスター、この店にレコードプレーヤー、あるよね?レコードを持ってきたから、聴いてほしいんだ」
「ああ、ありますよ。ちょっと待っててください」
店の裏手にある倉庫へと急ぐ。レコードプレーヤーを持ってくると、石崎さんは軍手をしていた。
「あれ?レコードをかけるんですよね?その軍手は……」
驚いて言葉が続かなくなった。石崎さんは、小さなクーラーボックスから、冷気を放つレコードを取り出したのだ。
「これは氷のレコードだよ。レコード自体が、溶けない氷でできている。部屋に飾ってても、ちっとも溶けないんだ。まぁ、とりあえず一緒に聴こう」
レコードプレーヤーをカウンターに置くと、石崎さんは手慣れた様子でレコードをセットし、針を落とした。
すぐに聞き馴染みのあるメロディーが聞こえてくる。しばらく聴き入っていると、石崎さんが針を外した。
「カノン、ですね。驚いた。ちゃんと音が鳴るんですねぇ」
「ほぉ、マスターにはそう聴こえるのか」
石崎さんの言葉に首をかしげる。
「これはね、聴く人によって音が変わるんだ。私はきらきら星」
「へぇ!面白いレコードですね!どこで買い求められたんですか?」
「貰ったんだよ。オルクス、という氷の星でね」
沈黙が落ちる。冗談なのか本気なのか、読めない。
「マスター、白状するよ。私はサラリーマンではなくて、宇宙飛行士だったんだ。ついでにもう一つ。私がここに来るのは、今日で最後かもしれない。来週、入院するんだ。持病が悪化してきてね」
色々な衝撃で、頭が追いつかない。
「急にごめんよマスター。驚くよな。でも、このレコードの話を聞いてくれるかい?初めて、人に話そうという気になれたんだ」
「あ、ああ……いいですよ」
石崎さんは冷気を放つレコードを愛しそうに撫でてから、口を開いた。
「太陽系外にある小惑星、オルクスの探索をしていた時だ。オルクスは、至る所で氷のマグマが吹き出す危険な星だった。それで、二人一組で探索していたんだ。でも私の不注意で、相棒と一度はぐれてしまってね。すぐに合流できたんだが、その相棒の様子がおかしい。すぐに、相棒ではない、別の何かだと気づいた」
「石崎さん、もしかして怖い話なんですか?私、ホラー、駄目なんです」
「ははは、怖くないから大丈夫。相棒のふりをしていたのは、寂しがりやな異星人だったんだ。名を尋ねたら『冬』だと答えた。そう聞こえただけだから、本当は違う名前だったのかもしれない。一面氷だらけの星で、ずっと独りだったらしい。寂しさを紛らわすために、氷の塊に聞こえた音を刻んで保管していた」
「……ところで、相棒さんはどうなったんですか?まさか……」
「ああ、先に母艦に帰っていたよ。『冬』は見たものを完全にコピーできるが、コピーする対象物は傷つけない。優しい異星人でもあったんだ」
「ああ良かった!これで安心して聞けますよ。それで?その『冬』が氷のレコードをくれたんですね?」
「うん。音楽が保管されているという氷の塊を『冬』が撫でると、きらきら星が聴こえてきた。素晴らしい、と率直に褒めたら、ぜひ貰ってほしいと言われた。でも大きすぎてね。無理だと伝えると、『冬』は瞬時に氷をレコード盤の形に削りあげたんだ」
「そりゃすごい」
「私もびっくりしたよ、ははは。はぁ、すっきりした。宇宙飛行士を引退してからも、ここで楽しい時間が過ごせたのは、マスターのおかげだよ。そのお礼だ。このレコード、貰ってくれないかい?」
急な申し出に、また言葉が詰まった。
「……嬉しいですが……研究所とか博物館とかで管理してもらったほうがいいのでは?」
「『冬』から、温かい場所で保管してほしいと言われている。温かい場所といったら、マスターや常連さんたちがいる、この喫茶店しか思いつかなくてね」
「……光栄です。では、皆で大切にしますね」
石崎さんは満足そうな笑顔で頷いた。そして再び、氷のレコードに針を落とす。私は祈りながら丁寧にアイスコーヒーを作り始めた。穏やかな旋律が聞こえてくる。
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