トロンボーンの音色はアアルへ向かう
重低音が、祖母の植物の園に響き渡る。
太陽に熱せられたトロンボーンから放出される音は、水やりを終えたばかりの葉に残る水滴も震わせているのだろうか。そんなことを考えながら、思い切り吹き続けた。
音程がふらふらするけれど、あのおじさんは気にしないだろう。細かいことは、気にしない人だった。
縁側から入ってくる夏の風は、寝そべっている僕の身体を丁度よく冷やす。替えたばかりの畳の、いい香り。なんだっけ、これ。
「い草だよ」という伯父さんの声が頭の中で再生される。ああ、そうだ。い草。安心する香り。夕方になりかけの空。カラスとヒグラシの鳴き声。
普段ぼんやりしている伯父さんの目は、研究しているエジプト神話の話になると、爛々と光った。重い口は軽やかに動き、古代エジプトの神秘を必死に伝えようとする。
僕は小さい頃から、その瞬間が特別好きだった。異次元の世界のようなエジプト神話の話も。親戚の中で浮いていた伯父さんに、僕は頻繁に話をせがんだ。
特に好きだった話は、アアル。古代エジプトで、遥か東にあると言われていた楽園。
”アアルにはね、い草がそこら中に生えているんだ。ほら、あの、畳に使われるやつ。あの、い草だよ”
記憶に沈んでいる伯父さんの声がまた、脳内で再生された。投げ出した手で、畳を撫でる。すべすべ。微睡が、さっきから僕を執拗に追いかけてくる。
”アアルに行くにはね、マアトの羽根より心臓が軽くなくちゃいけないんだ"
”マアトは太陽神の娘さん。正義と真実を愛する女神様”
”罪深い人間は心臓が重くなる。だから、羽根と心臓を天秤にかけて調べるんだ”
心臓が重かったら、どうなるの。
”なんと、恐ろしい幻獣に食べられてしまうんだ”
怖い。
”ふふ、怖いよね。でも、死後の審判だから。本当に食べられるわけじゃない。きっと、罪悪感が自分の意識を飲み込んでしまうんだ。生きている間、悪事をしないようにっていう、戒めだよ”
い草の香り。額を撫でてくる涼しい風。全ての音が遠くなっていく。
心地好すぎる。ここは、もしや、アアルか。
早朝に吹いた重低音が、また耳の奥で鳴る。
トロンボーンは、神の楽器だという。
僕なりの弔いを。葬送曲を。最期まで孤高だった伯父さんに。
下手でごめんなさい。でも、どうかアアルに連れて行ってください。女神様。伯父さんを、どうか。大それた悪事なんか、絶対にできない、善い人だったから。
い草の海の中に寝ころんで、子供みたいに笑っている伯父さんを想像する。
最後の意識の糸が切れて、眠りの奥へ落ちた。
ああ、い草の、楽園の、香りがする。
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