
ひるねこだんごのエントロピー
窓からの温かい日差しが、私の目蓋を押し下げてくる。頭を振って、真面目にテストを受けている生徒たちを見つめる。監督の先生が寝ていては、示しがつかない。
立ち上がって、手を後ろに組み、生徒たちの机の間を静かにゆっくり歩く。座っていては寝る。絶対寝る。それは駄目だ。前のテストの時、ついウトウトしてしまって、テスト後にとある生徒から「稲森先生、テスト中に居眠りしてたでしょ。居眠り先生じゃん」と言われてしまった。
歩いていても、眠気がひたひたとやってくる。国語教師らしく、祇園精舎の鐘の声……と心の中で平家物語の序文を唱えてみる。祇園精舎って、実はインドのお寺なんだよなーなんて思い出しながら。
ああ駄目だ。眠い。立ち尽くして、天を仰ぐ。その瞬間、救いのチャイムが鳴った。
帰り道の足取りが重い。眠くて眠くて、ついに早退してしまった。大事なテストの日は、鬼のような業務量になる。明日の自分に託した仕事量を想像するだけで、胃が痛くなった。
自宅の最寄り駅に着いて、よろよろと歩き始めた時。”猫とお昼寝しませんか?ひるねこ屋“という看板が目に入ってきた。ひるねこ屋……新しくできた猫カフェだろうか。
行きつけの猫カフェを思い出す。最近は忙しくて、全然行けていない。ああ、猫が恋しい。昼寝もしたい。
よろよろと、私の足はひるねこ屋に近づいていく。
「いらっしゃいませ~、お荷物お預かりしますよ」
「あ、どうも。あの、何となく、入っちゃって」
ドアを開けると、すぐに店員さんが出迎えてくれた。奥の方から、ニャーニャーと元気に鳴く声がする。
「ご新規様ですか。ありがとうございます。どうぞ奥のカウンターへ。色々説明いたしますね。説明後にキャンセルされても全然かまいませんので。どうぞどうぞ」
奥のカウンターに着く。なんとなく、店員さんの後ろの壁に掲げられている、大きな世界地図が気になった。青い肉球スタンプが所々に押してある。
「時間は私が調整するので、数時間眠っても実際に過ぎた時間は10分ということになります。2時間くらい、ぐっすり眠るお客様が多いですね。完全に猫の姿になっていただくので、猫団子状態で眠れるのが気持ちいいと評判です」
猫になれたら、と何度も思ったことがあるが、まさかここで叶うとは。どうやら、自分が猫になり、あのたくさんの猫たちと昼寝ができる、というサービスらしい。
しかし、人間が一時的に猫になれるとは、どういう仕組みなのか。時間も、そんな簡単に操作できてしまっていいのか。
「あの、ものすごく魅力的なんですけど、仕組みが気になって……。特に時間の調整って、どうやるんですか?」
「んー、例えば……あの光景をどう思いますか?」
店員さんが左手で示した方向にある部屋には、様々な毛色の猫が、あちらこちらに自由に移動している。
「散らばってますね。猫が」
「そう!そうです!猫のエントロピーが増大してるってことです」
「と、いいますと?」
「人間は、色々なものが散らばることで、時間が流れている、と認識できるんです。でも人間というのは、結構いいかげんに時間を捉えています」
「え?」
「例えば、綺麗に数字が並んでたトランプのカードがバラバラになってると、誰か混ぜたんだなって思うでしょう?でも、ハートとかスペードのマーク、赤と黒の色でくっきり分かれていたら?混ぜる前かも、と思いません?」
「ほぉ。確かに」
「そういう感じで、人間に時間を錯覚させるんです。実は、人間よりも猫のほうが時間を理解していて……おっと、これ以上言ってしまうとオーナーに叱られてしまう。私、雇われの店長なんです。猫変化とか時間操作とかの力はオーナーから借りているだけでして」
「そ、そうなんですか?オーナーって、すごい人なんですね」
「……厳密に言うと、猫っていうか……」
「え?」
「いえいえ、なんでも。安全であることは保証します。今のところ、世界中にある支店で無事故です」
「このお店、世界中にあるんですか!?」
「ええ。こちらに飾っている世界地図をご覧ください。支店のある国に肉球スタンプが押されています」
青い肉球スタンプは、ほぼすべての国に押されている。あんぐりと、口を開けてしまった。
「稲森先生、最近テスト中に居眠りしないね。前より動きにキレがあるし……何か良いことあったの?」
以前、私の居眠りを指摘してくれた生徒が、集めたばかりの答案用紙を束ねている時に話しかけてきた。
「ふふ、そうだね。良いお昼寝スポットを見つけたんだよ。猫になれるんだ」
「えー?変なの~」
昼寝仲間の猫たちを思い出す。ひるねこ屋に行きたくなった。
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