緊張とリラックスその2
力の定義がないのが問題というお話からの続きです。
リラックスも脱力と、捉えてしまうと、技にならない。
例えば、あるポーズ(型)をとって、そこから
脱力してください、といわれて、そのポーズが、崩れてしまうなら、
意味がない。
そのポーズを動かすことなく、リラックスできなれば、
稽古する必要性がない、だって舞台の上でだらだらされても困りますよね?
それで、力には流動するタイプの力がありますよねって、お話でした。
私たちは、学校で、力と言えば、筋肉を固めることだ、みたいな教育をうけて育ってしまったので、力こぶとこか、腹筋が割れているなんてことで、一喜一憂したりするわけですが、この固めた筋肉のまま、動けば、身体は壊れやすくなりますので、結果、街の整体師やカイロプラクティックさんが繁盛するという仕組みなわけです。
反面、この流動する力のことをエビデンスを求めながら、説明するのは非常に難しいんですよ。実際のところ、物理学の中でも、力学と単純に言っても、ニュートン力学、熱力学、波動力学、量子力学など、いろんな分野があって、それぞれが、それぞれの法則で動いているわけです。そして、それらを統合するような理論がないし、エネルギーというものの定義事態がないみたいなんです。笑
これは、困りました。説明ができない。そして、科学だと物質とエネルギーが、分離できないんですよね?多分?それを認めると、いきなり非科学的ってことになるからですね。
このことは、僕たちが生きている間には、解決しそうにない。だって、未だに物質に重さがあることすら証明できないで苦しんでいるのが、科学の現状ですから。笑
ですから、私たちが生きている、現世で、この流動する力を感じたり使いたいのなら、ちょっと非科学的なことを受け入れるだけの度量と言いますか、それなりの器量が必要になるというわけです。覚悟はありますか?笑
例えば、「氣」
ああ、これ聞いただけで、うさんくさいと思う人は、もう全然、科学的思考とかが嫌いな人だと思うので、このnoteは、まったく無理ですからね。たぶん、この話だけではなく、日本文化全般的に無理だと思います。
日本語の中に、「気」という字は、普通にたくさん使われいますよね。気が進まないとか、気が向いたらね~。とか、病気は気からとか、この気って、何?
ただ、この気というものの定義もあやふやなので、捉えどころが難しいのですが、流動する力をたとえるには、かなりいい線いっていると思います。
だって、気を固めて下さいって、言われても困るでしょう。気は、ためるとか、流すとか、膨らますとか、止まるとか、そんなふうな表現で、表されるように気自体が流動している感じですよね。
つまり緊張とリラックスという問題を考えるとき、まず、緊張には、かなり乱暴に言えば二種類あって、静的な緊張と動的な緊張がある。それにたいして、それぞれリラックスする方法は、違うし、しかも二項対立をとらないという関係性のなかにある、つまり緊張の内容によっては、リラックスが、必要ないかもしれないわけです。
こうした考えは、たぶん合気道やら、古武道の世界では、当たり前の考え方なのかもしれません。だから、システム的な稽古ではなく、技の稽古になるわけです。では、なぜその考え方が、演劇にはないのか?
それは、たぶん、演劇を精神活動と捉えているからだと思います。
流動する力というものは、精神には、たぶん捉えきれません。身体を使わないかぎり、無理なのです。ですから、西洋演劇では最初から、そういう可視化できないような、非科学的な力には頼らないと、決意したのかもしれませんね。
どうして、精神じゃ気を使えないんですか?
それは、憶測ということにしておきますが、気は、結局、無自覚、無意識の世界でこそ、力を発揮する性質があるからだと思います。だから、認めたくても捉えきれないんですよね。でも、その、扱い方というか、寄り添い方のヒントは日本の文化の中にたくさん残されていると思います。
じゃあ、どうするの?と、つづく