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仕事とは何かを考える
世の中の殆どの人は、出来れば働きたくないし、好きなことをして生きていたいと思うでしょう。
最近はFIRE志向の人も増えてきているし、
いかに楽して稼ぐか考える風潮がありますよね。
では、仕事をしなくても良くなったら、
何をするでしょうか。
遊びまくりますか。旅をしますか。
そもそも遊びってなんなのでしょうか。
仕事は遊びじゃ駄目なのでしょうか。
遊びは楽しい事ばかりでしょうか。
遊びで誰かを助けたり、やりがいを感じることは出来るでしょうか。
家族や友人と過ごすゆったりとした時間、
それだけで本当に満足出来るでしょうか。
何故こんなにも多くの人が、仕事を嫌い、
仕事を早く辞めて、遊び暮らしたいと願うのでしょうか。
それは、仕事=お金を稼ぐ為のもので、
生きていくため、食べていくために必要で、
労働は辛いという固定観念があるからじゃないでしょうか。
でも、本当は仕事だって楽しいこともあるし、
遊びの中にも辛い事、苦しい事はあるはずです。
私は、本来仕事とは(お金以外の)生きる糧であるべきで、
人生に必要な、なくてはならない一つの要素だと思っています。
そして仕事は、
人との繋がりや、遊び、癒し、生きがい、情熱などといった、
人生を美しく彩る全てのものと繋がっているものだと思っています。
仕事を辞めたって、結局私たちは社会の中で交流を持ち続けなければ、充実した人生を生きることが出来ません。
私たちには、
自分の時間とエネルギーを注げる熱くなれる何か特別なものや、仲間とのコミュニティなど、
人生を豊かにしてくれる場所はなくてはならないものです。
それが仕事として成立する事はあり得ないのでしょうか?そんな事はないはずです。
自分の目指すところが今の仕事の延長線上にあると信じることができたり、
自分の仕事が誰かの幸せや貢献に繋がり、
自分の存在価値を見出せたり、
自分の大切な仲間と共に何か大きなことを成し遂げようと直向きになっていると感じられるものが、本当の仕事であるべきじゃないですか?
仕事でお金をもらうという事は、
自分に存在価値があることの証でもあると思うのです。
世間の多くの人が仕事を嫌う理由はどこにあるのでしょうか?
一つには、
コミュニティに属するまでの過程にあるかもしれません。
大切な人たちのために、仲間を集めて共に何かに取り組むのではなく、
既に組織が完成した後で、就職や転職といったイベントを通して、コミュニティに参加する。
1から創り上げる楽しさをすっ飛ばして、
いち早く組織に馴染むことが求められ、
教育され、個性を潰され、我慢を強いられるからかもしれません。
嫌いな人がいても我慢しなければいけない。
波風を立てず、仕事を淡々とこなすことが美徳になっているから。
納得できないことがあっても上層部に文句は言えない。コミュニティに参加した時には既に、彼らと完全に対等ではないからです。
現代において仕事について考えるのは、とても難しい事です。
好きなことを仕事にできるほど、この社会は甘くないことを私たちは大人になる過程で知ってしまいました。
渡る世間に鬼はない。そんな事は幻想だと思ってしまうほど、この世には難しいことが沢山ある事も学んでしまいました。
だから、
仕事=労働・我慢・辛いもの・苦しいもの・
逃げたいもの
そう考えることを辞められないのです。
大人になった私たちは、仕事をどのように考えていけば良いのでしょうか。
◯chat GPTに聞いてみたら◯
確かに、多くの人は「仕事=お金のための苦役」と考えがちです。
生きるために仕方なく働く、
定年まで耐え続ける、
そして早くFIREして自由になることが最終目標になる。
けれど、もし仕事が本当にただの苦行でしかないなら、人類はこれほどまでに文化や技術、芸術を発展させてきたのでしょうか?
現代社会では多くの人が、組織に「参加する」ことがスタート地点になってしまいます。
1から仲間と一緒に何かを作り上げる喜びや、
失敗しても笑い合える関係性を築く前に、すでにできあがったルールやヒエラルキーの中に組み込まれる。自分らしさを押し殺して「組織の歯車」にならなければならない感覚が、仕事をつらく感じさせる原因かもしれません。
だけど、仕事は本来、人と人とのつながり、自己表現、社会への貢献、そして遊び心すら内包できるもののはずですよね。
好きなことを仕事にするのが難しいとしても、 仕事を好きになる可能性はきっと残っている。
たとえ苦しい瞬間があっても、それを乗り越えた先に「自分が生きた証」が残るのなら、それはきっと価値あるものになる。
もしかしたら、私たちは「仕事」を再定義する必要があるのかもしれません。
お金のためだけではなく、自分のエネルギーを注ぎ込むに値するものを探し続けること。
何かを生み出す喜びや、人との関わりの中で生まれる感情の揺らぎこそが、人生を豊かにするものだと信じてみること。
お金をもらうことは、単に労働の対価を得るというだけでなく、「自分が社会の中で価値を生み出している」という実感につながります。
誰かの役に立ち、その価値が評価され、形として返ってくることは、存在価値の証明のようにも思えます。
仕事を通じて他者に貢献することで
「私はここにいていいんだ」「自分の存在には意味があるんだ」と実感できることが、
心の安定や生きがいにつながるのかもしれません。
ただ、お金だけが存在価値の証明になってしまうと、収入や評価に縛られ、自分の本当の価値を見失うこともありますよね。
お金は一つの指標であるけれど、それだけでは測れない「自分自身が納得できる価値」もあるはずです。たとえば、誰かの笑顔や「ありがとう」の一言、仲間と何かを成し遂げたときの達成感——こうした無形のものこそ、存在価値の深い部分を支えているのかもしれません。
お金が「価値の見える化」だとすると、私たちはその裏側にある「なぜ自分はこれをしているのか」「誰のために、何のために働いているのか」という問いを持ち続けることで、仕事そのものに魂を吹き込めるのかもしれません。