〈それ〉がない日記㊼(最終回)
さて、ずいぶんと時間が空いてしまいました。
ここまで男の〈それ〉がない日常を覗いてきました。男はいつだって、何かしらの〈それ〉を失くしています。ポケットの中に、鍋の中に、屋根の上に、洋服ダンスに、記憶の外に。失ってから初めて気づくことがある、とはよく言ったものですが、この男の場合は、見つけてから初めて失っていたことに気づく、といったところでしょうか。
しかし、世の中にはただの偶然では片付けられないことが起こるものです。声が出なくなっていた男は子どもたちにどうしても伝えたいことありました。なんとかして伝えたい、でも声が出ない。もどかしい気持ちでいっぱいになりながら、1日1日失っては取り戻してきた〈それ〉を並べていました。
するとどうでしょう。
〈ね〉〈こ〉〈が〉〈あ〉〈ら〉〈わ〉〈れ〉〈た〉
〈む〉〈や〉〈み〉〈に〉
〈そ〉〈ば〉〈で〉〈さ〉〈け〉〈ぶ〉〈な〉
〈す〉〈き〉〈ま〉〈を〉〈ぬ〉〈い〉
〈ち〉〈へ〉〈と〉〈び〉〈お〉〈り〉〈る〉
〈つ〉〈く〉〈し〉〈ぜ〉〈ろ〉
〈ゆ〉〈め〉〈の〉〈え〉〈ほ〉〈ん〉
〈よ〉〈も〉〈う〉
男はそれをきれいに並べて、子どもたちに読ませます。
それまで大騒ぎをしていたつくしちゃんとゼロくんは、ぴたりと静かになりました。縁側ではどこかのおうちの猫さんがニャーと鳴いています。
まだ平仮名を覚えたばかりのゼロくんが一文字一文字、声に出して読みました。つくしちゃんが読みやすく書き直すと・・・
「猫が現れた。むやみに傍で叫ぶな。
隙間を縫い、地へ跳び降りる。
つくし、ゼロ。夢の絵本、読もう。」
子どもたちはそれを読むと一目散に布団へ駆け込みました。枕元に置いてある絵本を読み、そして、静かに静かに眠りについたようですよ。
おしまい。