【人を変える方法】がん患者にできる、たった一つの冴えたやり方
最近、母の元気がない。どうしたもんかな。
分析と考察
もちろん癌なので体調は常時、良いとは言えず、一日中寝てばかりのときもある。
そして食欲もない、というよりかは喉が細くなってしまい、食べ物を飲み込みづらくなっているので満足に食べることが困難、といったほうが正しい。飲み込むためには、必然的に咀嚼回数を増やす必要があり、そのせいで満腹中枢が刺激され、結果量を取ることが困難になる。
ダイエットには良いかもしれないが、母にとって栄養不足は死に直結する深刻な問題だ。現在、母の体重は40.2キロだ。身長は164ある。
無理してでも食べる必要がある。
そして食べ物を【無理やり食べさせられる】というのは当人にとって酷く残酷な行為だ。
ぼくたちは世話をする立場にいるし、母には味方だと感じてもらう必要がある。敵に世話される屈辱は想像に難くない。そして出来ることなら根本的に「食べなければいけない」と思って欲しい。
ぼくは考えた。体に良い食べ物だとか、論理だとか、そういったものよりもっと先にしなければならないことがあるのではないか。
そう、メンタルの改善だ。
大抵の場合、メンタルというのは考えることが多すぎるときに悪化する傾向にある。(脳のタスク切り替えの際に疲労が溜まる)
たとえば、なんとなくで放っておいた物事、家の片付け、家賃の支払い、友達の結婚式の返事、不良品の返品、足りない日用品の補充、家計簿、将来の不安、健康保険の更新、、、考えるだけでうんざりする。
母の場合は、転移した癌の状態や、この先どれだけ生きられるか、まどろんでいく自身の思考、満足に体も動かすことの出来ない不満、周りの人間に迷惑をかけていないかという不安など、そういったものがあると感じる。
そしてそういうときに周りの声は届かない。
わかる。いつだって人間は考える生き物だから。
だが、今そんなことはどうでも良いことなのだ。
バカになってもらわないといけない。例えば子供時代、公園で遊んでいる子どもたちの輪にノータイムで「まーぜーて!」と言っていた頃の能力。
あれは思考が発達していないからこそ出来たものだ。大抵の人間はそこから拒否される悲しみを覚え、それを恐れる。
赤ん坊におとなしくしろといっても無駄なのと一緒で、母に論理的な思考は求めちゃいないし、おそらく不可能なのだ。(そしてそれは母自身の悩みでもある)
我ながらごちゃごちゃとうるさい。一体どうすれば良いのか。
たった一つの冴えた方法
筋トレしかない。
そしてそれは母以外のぼくたちがするのだ。
辛い。ぼくは今31才なのだけれど、23才を超えてからまともに運動した記憶がない。
筋トレの有用性は最早周知の事実だ。年齢が進むごとに必要性は増す。テストステロンが増えるとか、血行促進、脳機能改善、こんなことはほとんどの人が知ってることで、今更説明するのも憚られるほどだが、行わない人が多い。
何故か。答えは単純だ。しんどすぎるからである。
人は、逆境にいる他人を冷ややかに見る習性がある。生存本能に基づくものなのだが、日本人などはとくにそれが顕著だ。どうせ無理なのに、という感情は誰だって経験があると思うがまさにそれだ。
そしてそういう感情は継続によって薄れていく。そして次第に応援or反対へと変わっていく。ぼくの場合は対象者が母である以上【反対】になるとは考えられない(というか、そこで反対してくるような人なら正直、死んだほうがぼくのためである。)
そして、人は人を応援しているときに幸福を感じる。そういうふうに出来ている。
つまりぼくの作戦としてはこうである。
1、落ち込んでいる母の近くで筋トレを実施する。
・はじめはウザがられると思う。
・直接見る必要がある(好感度は接触回数に比例するため)
↓
2、継続を行い、母に慣れさせる。
・依然、直接見てもらうor感じられる距離に居てもらうことが重要。
(知らない間にやっていると思わせないようにする必要がある。バイアスがかかり、体感より客観的視点が優先されるため)
↓
3、プロテインなどを持ってきてもらうなど、簡単な助けを要求する
・応援する心にブーストがかかる。(親和性&自己正当化による自己肯定感の強化)
・あわよくば簡単な筋トレを実施してもらう。そこまでいけば目的はほぼ達成できている。
↓
(4、母が筋トレを実施した場合、基準を下げる必要がある。知り合いのトレーナーへ指示を仰ぐ。)
まとめ
ぼくは筋トレを実施する。というかすでにしている。
視覚的に派手&時間をかけられない(母のスタミナへの考慮)といった理由からHIIT(15分間の地獄である。)とヘッドフォンを着用してのホットヨガを採用している。
母のためでもあり、ぼくのためでもある。これからどうなるかはぼく次第である。
VIAテストで【継続性】が最下位だったぼくが実行できるのかは怪しいところだが、やるしか無いのだ。多分。