【掌編小説】はりぼて処世術
結婚だったろうか、妊娠だったろうか。
たしかそのどちらかの理由で退職する斜め後ろの席の女性が、同じチームの人ひとりひとりに挨拶をして回っている。
「短い間でしたが、ありがとうございました」
転職してまだ日が浅く、ほとんど会話したことのない私のもとにも律儀にやってきてそう言う。
“残念そうな”、“惜しむような”表情を顔に貼り付け、静かに立ち上がる。
「こちらこそありがとうございました。お元気で、体に気をつけてくださいね」
かまずに言えてほっとする。
――私、本当はあなたが結婚しようが妊娠しようが、まったく興味がないんです。
別に恨みなどありませんから、元気でいてくれればいいなあとは思いますけれど、それ以上でもそれ以下でもないんです。
明日どこかですれ違ってもたぶん気がつかないレベルなんです。
なんだかすみません。
もちろん、そんな本音は一ミリも表に出さない。
「Aさんこそ、入りたてでしんどいこともあるでしょうけど、頑張ってくださいね」
さわやかで満ち足りた笑顔を残し、彼女は私の隣のデスクに進んでいく。
私はゆるゆると椅子に座り直し、再びパソコンと向かい合いながら、舌で頬の内側をなめた。
やさしさの不意打ちを食らってうまく返せなかった「ありがとうございます」が、口のなかにこびりついて気持ちを沈ませる。
チームのみんなで、と彼女はお菓子の詰め合わせを置いていった。チームのまとめ役の女性が箱を片手にデスクに配っていく。私のもとには二枚入りのクッキーがやってきた。
個包装された、ぷっくり膨らんだクッキー。
さくっとして、ほろりと溶ける。
クッキーは甘くて、ほのかに香ばしくて、そして少し苦かった。
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