見出し画像

「ネガティブケイパビリティ」は世界を受け入れ、人生を創造する

私は長年瞑想を実践しているのだが、瞑想の実践を続けると「ネガティブケイパビリティ」が身についていく。

「ネガティブケイパビリティ(Negative Capability)」とは、詩人ジョン・キーツによる造語で、「不確実さや曖昧さの中に留まれる能力」のことだ。
今回はこの「ネガティブケイパビリティ」について考えてみる。


◎「判断する気持ちよさ」に依存する私たち

そもそも私たちは普通、答えを性急に求め、すぐに結論を出そうとする。
なぜなら、答えや結論を出さないと私たちは物事に対する自分の態度を決められないからだ。
「どうすればいいか」がわからないままでいることは不快なことであり、それゆえ私たちはすぐに判断を下そうとする。

「あの人は性格が幼稚なんだ」
「この仕事はたぶん自分の性に合わない」
「上司はきっと私のことをこう思っているに違いない」

そんな具合に、私たちは会って間もない人のことを性急に「こういう人」と決めつけたり、就いて間もない仕事であるのに「自分にはきっと向いていない」と決めつけたりする。
そして、他人の頭の中などわかるわけがないのに、「こう思っているに違いない」と断定しては、その自分自身の想像によって苦しめられるのだ。

私たちは、「不確かで曖昧な状態」に留まることがなかなかできず、「判断したい」という欲求にしばしば引っ張られる。
そして、「自分で下した判断」によって、人や物の見方が固定されてしまい、他の視点から世界を眺めることができなくなる。
要は、自分で作った檻の中に、自分自身を閉じ込めてしまうのだ。

だが、判断することは気持ちがいい。
実際、何かについて断定的に語ることは私たちに「つかの間の全能感」をもたらす。
「自分には真実がわかっている」というこの感覚が、私たち自身のエゴを慰めるのだ。

また、「断定的に語る人」のことを、周りも一目置く傾向がある。
「断定的に語る人」は「自分」をしっかりと持っており、「確かな判断力がある」と見なされる。
実際には感情的に反応しているだけだとしても、「こうだ」と自信満々で言い切る人に対しては、人間は本能的に気後れするようにできている。
それゆえ、「断定的に語る人」については、「この人は自分より上だ」と私たちは勝手に思い込んでしまいやすいのだ。

反対に、なかなか結論を出さず、いつまでも不確かさの中に留まっていると「優柔不断な人」というそしりを受けかねない。
確かに、ビジネスの場面においては「決断すること」が多く求められるだろう。
特に管理職や責任者の場合は、その傾向が顕著になる。
むしろ、「判断し、決断すること」が管理職や責任者の仕事と言ってもいい。

だが、ビジネスではなく、こと「創造的な行為」においては「判断し、決断すること」は必ずしも最優先事項ではない。
むしろ、「創造的な行為」において、人は主体的に判断したり決断したりせず、「偶然」に対して身を開き、それと同時に「必然」の中を生きようとするのだ。

◎即興的に踊る時、「偶然」と「必然」は一致する

話がわかりにくいと思うので、もう少し説明してみる。

たとえば、私は即興舞踊が趣味なのだが、即興で踊る時には前もって決められた振り付けなどは用意されていない。
それゆえ、どう動いてもいいわけだが、この状態はとても「不確かで曖昧なもの」だ。

だが、その「不確かさ」の中に忍耐強く留まっていると、動きは自然と現れてくる。
腕を上げたくなるかもしれないし、身をかがめたくなるかもしれない。
とにかく何かしら「心と身体の声」が聞こえてくる。
「不確かさ」の中で耐えていることによって、「こう動きたい」「こう在りたい」という「内的な欲求」が、かすかに感じ取れるようになるのだ。

そして、その「心と身体の声」に導かれながら動いていくうちに、思いもかけないような体勢になったり、新しい動きが出てきたりする。
そこには筋書きのないドラマがあり、全ては「偶然起こったこと」のようにも見える。

だが、不思議なことに、主観的には「他の動きはありえなかった」という「必然性」が感じ取れる。
あらゆる動きが可能である以上、その中の一つを選択したことは「単なる偶然」に過ぎないわけだが、本人の主観においては、他の選択肢などありえず、全ては「必然」であったように感じられるのだ。

しかし、このような「偶然」と「必然」の一致の感覚は、最初に「不確かさの中に留まる」ということをしていないと出てこない。
というのも、初めから動き方を頭で考えて決めてしまい、「自分の心と身体の声」を聞かずに無視してしまうと、全ては「偶然」ではなく「確定事項」となってしまうからだ。

そして、そういう時には、主観的にも「必然性」を感じることはない。
そもそも「心と身体の声」に導かれながら動く時、そこには深い納得感があり、「これ以外の動きはありえない」という実感があるものだ。
だが、「心と身体が発する声」を聞かずにいい加減に動いてしまうと、それらの感覚は全く得られない。
それは「機械的な演技」であり、私たちの心と身体が欲しているものではないのだ。

◎頭を空っぽにして待つことで、言葉は浮かび上がってくる

このように、即興舞踊においては、「自分の心と身体が発する声」という「不確かで曖昧なもの」と向き合い続けねばならない。
それゆえ、「ネガティブケイパビリティ(不確かで曖昧なものの中に留まる能力)」が必要とされるのだ。

そして、これについては文章を書く時も話は同じだ。

私は基本的に構成も筋書きも決めずに書き始める。
書いた内容を後から大きく修正することも滅多になく、だいたいにおいて、思いつくまま即興的に書いているのだ。

だが、そうすると、途中で何を書いたらいいかわからなくなることがしばしばある。
そういう時には、ネットで記事を検索して他人の意見を知りたくなったり、本を開いてネタや表現を借りたくなったりする。
自分の中がすっからかんで、逆さにしても何も出てこないように感じられ、早急に外側から「書く内容」を補充したくなってくるわけだ。

しかし、そういった欲求には流されないように努め、黙ってパソコンの前に坐ってままでいるようにしている。
あたかも「神の啓示」を待っている祈祷師のように、頭を空っぽにしてただ待つのだ。

すると、不思議なことに、どこかのタイミングで突然、言葉が浮かんでくる。
いくら頭をひねっても出てこなかった続きの言葉が、どこからともなくやってくるのだ。

そこにも、即興舞踊の際と同じように、「偶然」と「必然」が一致する感覚がある。
「あらゆる表現が可能でありつつ、それでもこれしかあり得なかった」という矛盾した感覚が現れるのだ。

◎「自分は我が家にいる」という安心感が、人の認識を忍耐強くさせる

このように、「ネガティブケイパビリティ」は、私にとって「表現行為」の基盤となっている。

こと「何かを表現する」という場合には、人は性急に判断や決断をしてはならない。
勇猛果敢に対象へ挑みかかったり、自分の意志で何かを征服しようとしたりするのではなく、むしろコントロールを手放して、「受容的に待つこと」が大事なのだ。

そして、最初にも書いたが、この「ネガティブケイパビリティ」は瞑想の実践によって身につく。
というのも、瞑想によって「不確かで曖昧なもの」を受け入れるための「受容性」が養われるからだ。

そもそも、瞑想中は様々な思考や感情が現れてくる。
だが、瞑想者はそれらの思考の意味を知ろうとしたり、感情の根を探ろうとしたりせず、全てをあるがままに受け入れる。

それと同時に、瞑想者は「自分の内側」へと深く潜っていく。
呼吸の感覚に意識を向け、それを味わいながら深めていくのだ。

そうして「内側」に潜れば潜るほど、思考や感情は沈静化し、「とても静かな場所」に出る。
そこには「穏やかで懐かしい感覚」があり、瞑想者は自分が「我が家」に帰ってきたことを知る。
そして、この「自分は我が家にいる」という安心感が、「不確かさや曖昧さ」に耐える能力を当人に与えてくれるのだ。

私たちが性急な判断や決断を自制できないのは、「安心感」がないからだ。
何かを決めてしまわない限り落ち着くことができないので、私たちはさっさと結論を出してしまいたくなる。

だが、「自分は我が家にいる」ということがわかっていれば、心配することは何もない。
もちろん、世界は不確かなままであり、自分の能力などたかが知れている。
「わからないこと」は無数にあるし、「解決できない問題」は残り続けるかもしれない。

しかし、もしも「我が家」にいるならば、私たちは「わからない」という事実に耐えることができる。
その時、結論を出すことによって自分を落ち着かせる必要はなく、私たちは「この世界の不確かさ」をそのままに受け入れることができるようになるのだ。

◎「ネガティブケイパビリティ」は世界を受け入れ、人生を創造する

瞑想は「ネガティブケイパビリティ」を育て、「ネガティブケイパビリティ」は私たちの「表現行為」を下支えする。
であるならば、「表現」をする人たちはみんな、多かれ少なかれ瞑想をするべきなのかもしれない。

もちろん、ビジネスのために瞑想を実践する人たちがいることも私は知っている。
彼らはもっと迅速に的確な判断や決断ができるようになるために瞑想をする。
確かに、瞑想にはそういった能力を鍛えてくれる部分もあるし、それはそれで使ったらいいと思うが、「ネガティブケイパビリティ」のことも私は忘れてはならないと思う。

なぜなら「ネガティブケイパビリティ」は、この世界が根源的に持っている「不確かさ」に対して心を開く能力であり、無数の選択肢がある人生の中で「これしかない」というたった一つの「必然」を選び取るための「創造的な力」でもあるからだ。