書いていることを最高速ですると

書くという行為について、前回のnoteについては確かに考えてから書いていたのですが、それだと私自身、頭の中で考えた文章を書くということになってしまい、自然さが失われてしまうのではないかという気がしたので、私自身今回のnoteでは自然に筆を動かすことにします(実際にはタイピングですが)。前回のnoteについては次に挙げられます。

私はこのところ、自分に関することで、昔の自分の行いについて反省することがかなりありました。
私なりに分析すると、私はネットというメディアを通して文章を書くという時に「準匿名」のような形で、つまり誰でもないといったら失礼だけど、他の人も同じように話しうる仕方で書いていたのではないかと思います。
その点については、もちろんこの文章だってそうなのでしょうが、何らかの仕方で良い意味での特異性を自己の言葉に与えること自体は可能ではないかと思っています。それは自分自身、本当はより誠実に書けるはずなのに、誠実に書いてこなかったことがあるのではないかと思い、それは自分自身の実は解離的な症状かもしくは精神障害、特に今、離人症、自我障害、統合失調症、解離性障害という4つの病名が診断書にあった自分からすると、私自身はそういった影響が文章に出てしまうこと自体は避けがたいのでですが、私自身は自分の言葉でどう言えるかということについてかなり拘っているところがあったのではないかと思います。
私自身の言葉で言うと、私自身は分身的幻聴と言いましたが、それは社会的領域の本来は外にある私的な自分の暗い自我の思考です(例えば、それはニーア・レプリカントにおけるゲシュタルト体としての思考と言えば良いかもしれません、ニーアについては次を参照のこと)。https://note.com/neko2to1/n/n79ab181fe074

それは、暗い自我の思考であり、社会的な場面では確かに使うことは少ないかもしれません。

改めて言及するまでもなく、分身のテーマを扱った文学作品は数多く存在している。また、このテーマのもとに書かれた評論の類も決して少なくはない。しかしながら、この経験は通常「飼い慣らされた社会的自我」と「暗い抑圧された自我」との葛藤の物語として、精神分析的あるいは道徳譚的な<光>と<影>の色彩を帯びがちであった。この傾向は特に主流文学やゴシック小説などに強くみいだされることだろう。

清水学「<透明人間>と<分身>の肖像ー孤独の文学社会学・試論ー」『ソシオロジ』 社会学研究会、38巻3号、1994、5頁(太字強調は、ブログ作成者)。

(暗い自我については、私は男性的な自我だと認識しています。男性的な思考はありますが、それは思考としては暗いものです。それは分身的な思考であり、私自身それを主人格と呼ぶこともできるとは思います。その意味では主人格は暗いのですが、その責任は私にあります。飼い慣らされた自我の方でコミュニケーションしないと、社会的な場面ではそれこそ大きな葛藤を生んでしまうと思うので、私は自分の人格を変えることについてはそれほど抵抗がないです。どこに行っても同じ人格の方が葛藤を生むのではと私にとっては思いますが、その意味で私は分人主義的な生き方をしてきたと思います。)

ですが、私は同時に学者に囲まれて20代を過ごしたという点があり、どうすれば研究者になれるかという点について、誠実になることが一番の近道だと言ってくれた先生がいました。私自身、その意味で誠実さを失っていたところがあったのかもしれないし、どんなこともクローズにしてしまうと、私は内面が肥大したように感じ、それこそ周囲から孤絶された個として悪い意味での複数性を生じさせてしまう、それは一度、紹介した千葉さんの記事でも言われていることでしょう。

人間がほかの人間と違うこと、人間が分かたれていること、つながれないことによって話が通じないと苦しむこと──。これは「悪」ですよね。つまり、悪があるからこそ、人間は個人でいられるわけです。これはいまこそ主張しないといけないと思います。個人でいられるということと、悪の存在を積極的に肯定することは同じことなんです。

千葉雅也「いまあえて主張しないといけない。複数性とは「悪」である:これからの〈らしさ〉のゆくえ #1 千葉雅也」 https://wired.jp/2020/03/19/hints-for-the-futurist-chiba/
(最終アクセス日:2023/08/26)

私たちは思考をしながら、何らかの理路に到達することを夢見ているのかもしれないのですが、私自身、自分が男性でいることについては拘らない方が良い、その意味では私自身は男といういわゆる伝統的な言い方で言われているその性役割としての男には拘らなくて良いと思っているということです。つまり、上野千鶴子さんの『セクシィ・ギャルの大研究』を読んだのですが、私自身は社会的な場面では女的に振る舞って良いということは思います。

つまり、上野さんのその本のなかでは、私はオスだけど、女として振る舞うことをしているタイプの人間なのかなと思います。それは、私自身は男としては正しくあれないというその一点に尽きるのではないかと思います。それは、私の思い込みかもしれないですが、どうしても自分は男性としてはポリティカル・コレクトな振る舞いをできなくて、ちょっと悪い感じになってしまうんですよね。ちょい悪オヤジという言葉がありましたが、ちょい悪な感じになってしまう。それでは良くない場面においてはそのような振る舞いは抑圧されねばならない。
私は今日、面白い本を読みました。

『アバターと共生する未来社会』のなかでは、実際に人格の問題も触れられています。実際にそれを引用してみると、次のような感じになります。

人々のアバター使用に対して「アバターは仮面であり、生身の自分こそが本物」といった理解は、それほど筋がいいとは言えない、という話だ。/実社会で仕事をしているときも、本人の人格というより、仕事上求められる性格を演じている部分が少なからずある。人間には、そもそも場面や相対している人間によって、いくつもの人格を使い分ける多面性がある。「正しいひとつの人格」なるものは幻想にすぎない。

石黒浩 『アバターと共生する未来社会』 集英社、2023、186-187頁(太字強調はブログ作成者による)。

その引用箇所の後においても、人間はどこに行っても同じ人格である方が生きづらく、キャラクターを切り替えるようにしてその場に適応することはむしろ人をより自然にするだろう、というようなことを言っています(自分の言葉なので、正確に映しているかは分かりませんが)。
人の多面性はたとえば、その人を24時間カメラで追えば、どこかで人格を切り替えている場面があるということをこの著者の石黒さんが言っているようなことと関連しています。私自身は確かにいつか論文を書きたいという気持ちがあり、その論文を書く時において自分の問題はある程度解決されている必要があるので、そのための助走としてこのnoteはあると言うことに言っておきたいです。
そして、分身と呼んで悪いと思っているけれど、私の男性的自我(主人格)については、その自分を通して大学時代ある意味でマジョリティに埋没させることを可能にしてくれたという点において恩はあると思っている。
私は違和感としてはセリフを言うことと、自分の言葉を語ることはまた違うと思っていて、実際に自分の持っている大量の蔵書のなかの本で、いわゆる学術書においては、考えたセリフを言っているような本は皆無であり、そこではその人の誠実な思考が表されていると考える方が妥当であり、その誠実な思考を展開できるという点で、彼ら/彼女ら(あるいは彼でもない彼女でもないtheyを含む)の思考は実際に人に見せられるものであるということになり、それは確かに規範だと思います。
昔読んだのですが、ジョルジュ・カンギレムは『正常と病理』のなかで次のように言っています。

ゴールドシュタインが彼の患者たちについて指摘したことがらは、彼らが、新しいが「狭められた」(rétréci)環境に合わせながらその活動水準を低下させることによって、新しい生活規範をつくり上げることである。脳障害におかされた患者たちにおける環境の縮小は、彼らが正常な環境、ーーつまり以前の環境ーーの要請に反応することができないということに通じている
厳重に保護されていない環境では、これら患者は破局的反応しかないできないだろう。ところが、病人が死んでしまわない限り、彼の心づかいは、破局的反応の苦しみから逃れることである。ここから、これら病人の、秩序への偏執、小心、単調さへの積極的な好み、支配できるとわかっている場面への愛着が、生ずる。病人は、一つの規範しか受け入れることができないために、病人である。すでにわたくしが多く用いてきた表現を使うならば、病人は、規範を持たないために異常なのではなく、規範的であることができないために異常なのである。

ジョルジュ・カンギレム 『正常と病理』 滝沢武久訳、法政大学出版局、1987、163-164頁。

病人の生活についてはそれは一つの規範しか受け入れられないから、病人なのだとカンギレムは言っています。つまり、健康な人は、複数の規範を設定できるし、またここでは言っていないですが、規範を創造することさえできるから健康なのである。
例えば、私がここで言うのは変かもしれないですが、フェルナンド・タティスJrは、ステロイド使用に関する違反になり、出場停止処分になりましたが、彼は、その出場停止処分明けに観客からブーイングを受けた時に自分でそのブーイングを指揮するようなことをして、さらなるブーイングを受けたということはありました。私はそれはある意味で新しい規範だと思います。本人が心のなかでどう思っているかは分からないけれど、取り乱すことなくブーイングを軽やかに弾いてみせる彼の仕草は私も少し敬意を持つことさえできるような状態でした。

誹謗中傷を受ける人は参考になるのではないのでしょうか。もちろん、タティスJrのメンタルは私たちとはまったく異なる次元にいるほどタフかもしれませんが(実際に彼の契約額はそれを示していると言えば示しているのではないか)、私たちも少々中傷的なことを言われてもそれを煽り返すことくらいのことはしなくても、私たちはその中傷からは距離を置いて、自分は自他区分をしっかり置いて、自分を攻撃してくる人とは自分を完全にそれに同化しなくても良いということ、いわば、そこで誠実なふりをするくらいなら、別の仕方でしっかりと説明責任を果たすことをしても良いのではないかと思います。
私は先に「人間の多面性」と言いましたが、私もある医師には解離ではなくて(他のことを考えたほうが良いと言われました)、「多面性」の範囲だと言われました。確かに「多面性」の範囲かもしれないですが、どの場面でどの自分が適切かということ、また、ミシェル・フーコーが言うところの「自己の自己に対する関係」のなかで自己に対して誠実に書くことはどのようにして可能になるのかということを考えざるを得ないのではないかと思いました。(フーコーの「自己の自己に対する関係」、もしくは「自己への関係」については、例えば「倫理の系譜学についてーー進行中の仕事の概要」のなかで俎上に載せられています。次の『フーコー・コレクション 5 性・真理』のなかの170-234頁のインタビューがその表題のものになります。)

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480089953/

私はそのように考えていますが、最後に『供述によると、ペレイラは……』のなかで、次のようにカルドーソ医師にアントニオ・タブッキは語らせています。

ペレイラさん、ひとつ、おたずねしたいことがあります。あなたは哲学者医師というのをごぞんじですか。いいえ、ペレイラはいった。知りませんが、どういう人たちですか。中心になっているのは、テオデュル・リボーとピエール・ジャネのふたりです。わたしはパリでこのひとたちのテクストを研究したのですが、彼らは医者であると同時に心理学者で、また哲学者でもある。そして、彼らの主張する学説に私は惹かれたのです。たましいの連合、というのですが。どんな学説か、話してください。ペレイラがいった。計測不可能な自我の多元性から分離したものとして、自己の部分の「まとまり」を信じるのは、キリスト教的伝統においては、たましいの幻覚(とはいっても素朴なものですが)ということになります。リボ博士とジャネ博士によると、人格は多数のたましいの連合だというのです。私たちはじぶんのなかに多くのたましいをもっていますかね、それで、たましいの連合は、主導権をもったエゴの統制のもとに、みずからをおくのです。

アントニオ・タブッキ 『供述によるとペレイラは……』 須賀敦子訳、理想社、2000、108頁(太字強調はブログ作成者による)。

リボー博士とジャネ博士については実在している自分です。
リボー博士については次を参照ください。

ジャネ博士については『心理学的自動症』で知られています。

http://www.arsvi.com/w/mm21.htm

ジャネ博士についてはフロイトの精神分析と並ぶ心理分析として知られていて、フランスにおける深層心理学の系譜を成しています。
松本雅彦さんが日本ではそうしたことについて詳しいのではないかと思います。

私はChatGPTではないので、人間の手によるものということで粗いところ、また私の人間性の問題もあるかと思いますが、書くべきことについては書いていきます。
私は大学院生として10年間以上は活動していましたが、大学院で学んだことをどうにかして還元していきたいと思い、無償でnoteをしています。
分身の問題については言葉にできるかもしれませんが、それは実際に難しいのですが、このnoteでしていることは、分身=主人格の思考自体を光の領域に移行させるという主観の試みです。

私はこの『光のとこにいてね』という本は未読なのですが、ふっとこの本のタイトルを思い返しました。妄想と思われるのが嫌なので、私はどのようにして移行させているかについては言葉にしませんが、私のアイデンティティをノンバイナリーにして、男性的な暗い自我の思考がアクセスしている記憶の領域を私自身が滑空することによって、そのメモリーを使いつつも、別の<私>によって言葉を組織化(organization)しているということです。
別の<私>による組織化、まったく記憶領域が使えないとなると大変なので、主人格の記憶領域にアクセスしつつ書くことが可能になったので、前回のブログではそれができなかったのですが、現在のnoteにおいては主人格の記憶領域を使いつつ自分で自分の言葉で語るということをしています。
自分自身の工夫です。なんとかしていきます。

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