無垢なる心
僕の視点からしっかり言葉にしていきたいとまず思いました。
ある存在が無垢なる心を抱えているとはいかなることか。
僕はその点において、分からないことがあるし、それでいいのかなと思うことはある。僕は無垢なる心を持っているのだろうか。
ベタに生きる存在としての僕があるなかで、そこで脳内人格というか、僕の心のAlter egoに頼って言葉にするべきなのかと思うことがありました。
普通のメールや普通のLINEができないなかで、その普通のメールやLINEができるようになることは僕にとっては目標ではあると思っている。
お盆休みなので実家に帰ってきて、そこで色んな人と話しているなかで、自分は普段の自分というのは少なくとも家庭内ではこういう感じなのかなと思っている。
僕はここである本のことを紹介したい。
それは『脱学校の社会』という本である。
この『脱学校の社会』は僕が教育学部で専門課程に進んだ頃に知った本で、学校外での教育について考えた本だと思っています。
僕自身はこの本のことを最近になってまた想起しています。
学校でもし解離した自分が成長していたのだとしたら、学校外での自分の方が僕の原型ではないかと思うし、学校のなかで成長した自分と、学校外で成長した自分のどちらが自分にとって人と交流するベースになるのだろうかということは思います。
人と会って頭を下げて挨拶して、そのなかで、自分はある種のパーソナリティが自分にあることは認識しているけれど、そのパーソナリティはいわゆる主人格と呼びうるものかもしれないし、人と交流する時の基本となることかもしれない。僕はメールを送る時に主人格としてメールが送れず、それで人との関係が混乱したことが多かったです。
メールを送ることに困難がありました。
それは僕自身の解離した意識(どちらが解離した意識かは分からないけど)=女性人格?無性人格?で言葉を送っていることになるのではないかということで、解離した意識という言い方が適切でなければ、柴山雅俊の言うところの「眼差しとしての私」からの言葉になっていて、「存在者としての私」からの言葉になっていなかったのではないかと思います。
メタな自分を持つことも大事で、例えば最近だと浜崎あゆみさんが「歌手としての自分」と「それを俯瞰で見ている自分」とが「時にぶつかり合いながらの25年だった」と回想しています。
僕にもベタに生きている自分というのがいて、それを俯瞰で見ている自分、眼差しとしての見ている自分とがいて、それがベタ/メタの対立で、自分はずっとメタな意識で人にメールを書いたりしてきたのかもしれないです。
その意味でベタなコミュニケーション、ベタな友達になるコミュニケーションとかが下手で、それで僕は人間関係に困難をずっと抱えてきたのではないかと思います。
『トランスジェンダー入門』は読みました。トランスジェンダーかつ同性愛者については「眼差しとしての私」については少なくとも当てはまります。
つまり、心は女性、好きになるのも女性という意味で。
ただ「存在者としての私」は異性として女性に愛されたいという気持ちがあり、それが私的圏域のなかでの親密圏のコミュニケーションを形作ってきた、そのなかで自分自身はその「存在者としての私」と「眼差しとしての私」のなかでセクシュアリティという面においても葛藤を抱えているのだと思います。
また姜尚中さんの『悪の力』をこのところ再読しました。
悪というのは身体感覚が欠如したところに生じるものだったというところです。
悪というものはその身体感覚のなさ、空虚さのなかに生じるものだったということです。
僕にとって確かに身体感覚として女性の身体感覚が生じることはなかったかもしれないし、あえて言うなら髪を伸ばしていたころはそうだったかなと思います。
髪を伸ばしていた頃の写真を一枚アップしておきます。
僕は自分自身が某ハードロックのシンガーのような感じかなと思いました。彼自身のように僕は見た目には恵まれているわけではないのですが。彼も髪を伸ばしている頃はあったし、その時の雰囲気とこの写真の時の僕の雰囲気は似ているのではないかと思いました。
僕自身は最近知った言葉で、ヘテロセクシュアルかつクィアという存在なのかもしれません。
クィアかつホモセクシュアルというのは良く見ます。僕自身はホモセクシュアル(これは一応身体の性からすると男性との性愛経験になりますが)の経験はないです。
そのカミングアウトには意味がないかもしれないけれど、僕自身は私的には女性との関係がずっとMainでした。
そのことを踏まえて、僕自身のパーソナリティ、あるいはこれからのLifeについて考えたいです。
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