自己の晴明さを保つために
※このところ、noteの記事を話しながら書く形式を取っていたのですが、今回は黙って意識を集中させて書くことにします。それによってもしかしたら自分の言葉の形式が変わっているかもしれませんが、その点ご了解いただけたら幸いです。
生きているなかで孤独のなかで自己のなかに自己を二分する線が入り、孤独の中で自己が上位の自己と下位の自己に分裂してしまうような感覚に陥ることがあります。
そのことについて、私はGilbert Simondon(1924-1989)というフランスの哲学者が彼の博士論文のための草稿のなかで言及しているのを知っています。Gilbert Simondonはそのことについて、「個体性のパラドックス(paradox of individuality)」という言葉で表現しています。つまり、自らの揺るぎない個体性、とりわけ魂の個体性だと思うのですが、それを探求するなかで、自己の魂にむしろ亀裂が走ってしまうという事態について言及しています。この言及はルソーの思想についての言及のなかでなされています。
https://www.upress.umn.edu/book-division/books/individuation-in-light-of-notions-of-form-ii
何がパラドックスかというと、「二分化の条件(condition of splitting)」としての孤独と、「孤独による二分化が自由にし、高めた自己の様々な部分の間の相互性の条件(condition of reciprocity between the different parts of the self that the splitting due to solitude unlashes and exalts)」としての孤独という2つの条件としての側面が孤独にはあるということです。(splittingですが、原著のフランス語版ではdédoublementという原語が用いられているので、二分化と訳します。)
孤独の中で(魂の)個体性を探求するなかで、かえって自己が二分化してしまうということがあるのだと思われます。ただ、その二分化によってバラバになった自己に相互交流を与えるのもまた孤独だということです。
私は魂において確かに自分が二分化しているのを感じます。それはもしかしたら並列的なものかもしれないし、ある批評家の人は確かに解離においては並列的に声が聞こえる(それに対して、統合失調症においては垂直的な声――例えば、神の声――が聞こえるということが言われています)ということを言っています。(確かに多重人格の理論への批判も含んでいますが。)
私はまた表と裏の問題があるのではないかと思いました。私の言葉のなかで表と裏がある。そして、斎藤環さんがこの前紹介した『「自傷的自己愛」の精神分析』のなかで言っていたのですが、確かに裏の知識を知ることは、表の知識を勉強することによりも早く人に対して斜めに構えたようなことを言えるということはあるのですが、裏の知識は表の知識の代用にはならないということがありました。斎藤環さんによれば、「裏情報は、「表の知識(一般常識、根拠のある情報)」のメタレベルだから」(同書、145頁)特に広い意味で自分に自信がない人が惹きつけられやすいということです。
私も実は昔研究者を目指していた時期があり、その時にある先生に言われた大事なことは、「研究者を目指すなら誠実であることが一番の近道だ」ということでした。私もどうして今まで自分は話しながら書くのではなく、自分と向き合いながら書いていたのだろうかということを振り返ると、私は自分に対して誠実であることはこうした書き方でしかできないのではないかと思っていたからだと思います。
解離の問題はあるのですが、また自分のジェンダーに対して思うことはあるのですが、自分は何らかの仕方で自分の言葉が再度の繊細さを取り戻すことを祈っているので、今回はここ数回とは形式を変えて、自分との向き合いのなかで出てきた言葉であるこの言葉にしたいと思います。
自己には多様性がありそれは多面的な感覚かもしれません。解離ではなかったとしても多面的な感覚はあります。
その多面的な感覚をどうまたこの場で言葉にすることができるようになるのか、その問題について考えたいと思います。