アキのエッセイNo.30-「トイレでするのは危ないからオムツでして」と祖母に促し、「尊厳」について考えさせられたこと
こんばんは、アキです。
前回の記事でも書きましたが、祖母(要介護3で重度認知症)が「全介助状態」にまで容態が悪化した状態でショートステイから帰宅してきました。
座位や立位保持が出来なくなり、トイレはもちろん行けない。臥位にてオムツ交換で対応するしかありませんでした。
しかし、祖母は今までトイレに行くことが出来ていたため、尿便意を感じると、起きて、物に掴まりながら立ち上がり、トイレに行こうとします。
本人の気持ちを配慮し、出来ればトイレで排泄させてあげたいのですが、座位や立位が保持出来ず、またトイレが狭いため、介助するには難しいため(立たせるのに1人、ズボンやオムツの上げ下げをさせるのに1人、計2人はきついです)
「トイレでするのは危ないからオムツでして」と言って、オムツでの排泄を促すしかありませんでした。
そのような説得を受けた祖母は、トイレの便座に座り、沈黙して、涙を流しました。私も父も、その気持ちを受け止めるしかありませんでした。
一回こちらが折れて、トイレでの排泄の介助をしましたが、2人がかりでもかなりきつかったです。転倒の危険があるため、やらないほうが良いことは分かっていました。しかし、祖母の黙って涙を流す様子がいたたまれなかったのです。
私でも、「トイレではなくパンツの中で排泄しろ」と言われたら抵抗感が生じますし、とても勇気がいることと感じます。
トイレで排泄をすることは、ある意味では「人としての尊厳を保つ行為」だと思われます。
今まで、当たり前のように出来ていたことが出来なくなり、分かっていたことが分からなくなる。
次第に自分が今までこなしていた役割(仕事、主婦、趣味など)もこなしきれず、喪失していく。
どんどん自分の何かが壊れ、失っていく。それがもたらすのは「恐怖」や「悲しみ」、「苦しみ」ではないかと思います。
一番のそれらは、トイレでの排泄が出来なくなること、つまり「今まで、人としての尊厳を保っていた行為が出来なくなること」だと私は思うのです。
ですから、軽々しく冷めた気持ちで「オムツの中で排泄しろ」なんて言えません。
私だって、それを受け入れるのに相当な覚悟が要りますから。
ですが、今後も回復の兆しがなく、トイレでの排泄がほぼ不可能であるならば、祖母は嫌でも受け入れざるをえないでしょう。
「老いを受け入れていく」という作業は、何て残酷なんだと感じます。
それでも、受け入れるしかないならば、そうするしかない。本人が老いを受け入れていけるよう、寄り添い、支えるしかないのだと私は考えます。
出来る限り、尊厳を保てるよう支えていければと思いますが、そもそも尊厳とは何か?ですよね。
トイレでの排泄もそうですが、やはり
「人として扱われること、人として認められること」だと思います。
つまり、どんなに機能が落ちたとしても、本人として見て、声をかけ、話をして、一緒に生きていくこと。
人生に寄り添う。
どうしても、今までのような生活が出来ないとしても、それを周りが「それでも、あなたはあなただよ」と受け入れて、安心して老いていけるよう支えること。
尊厳を保つために周りが出来ることは、そういうことではないかと、祖母のその出来事を通して私は考えました。
読者の皆様
お読み下さりありがとうございました。
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