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「紫の桔梗が伝え続けるもの」 京都 蘆山寺

今回は、以前行った「蘆山寺(ろざんじ)」について。

蘆山寺は京都市上京区にあり、寺町通りに面しています。
こちらなんと、紫式部が生まれ育った邸宅跡があった場所なんです。

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説明書きを見てみましょう。
天慶元年(938年)比叡山の高僧「元三大師良源」が船岡山の南麓に與願金剛院を開く。寛元3年(1245年)法然の弟子である覚瑜が出雲路に廬山寺を開く。この2つのお寺を兼務した蘆山寺第三世明導照源上人(1339~1368年)によって、蘆山寺を與願金剛院に統合し、現在の蘆山寺となる。
室町時代に応仁の乱(1467~1477年)で焼失した後、天正元年(1573年)に現在地に移転する。…という感じですかね。

つまり、この蘆山寺に紫式部が住んでいたわけではなく、紫式部が生まれ育った邸宅跡のこの地に、後から蘆山寺が移転してきたということなんですね。なるほどなるほど。
勝手に勘違いするところでした‼

こちらは山門です。
奥に見えるのは大師堂です。

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山門を抜けて、右側に進んで行きます。
すると、大きな石碑がありました。

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こちらの石碑には、こう刻まれているそうです。
(ホームページに説明があります)

右側「有馬山ゐなの笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする 大弐三位」
→紫式部の実弟である惟規が、父の為時について「史記」を学び、なかなか覚えられずに難渋していたが、わきで聴いている紫式部はすらすらと覚えてしまうので、為時は「この娘が男でないのが残念だ」と嘆いた。」
という話。

左側「めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半の月影 紫式部」
→「思いがけず出合って、その形を見たのかどうか分からぬうちに、雲の中に隠れてしまった夜中の月のように、久し振りにお目にかかり、お姿をみたかどうか分からぬうちにもうあなたはお帰りになられましたのね。」
といった意味。この句は紫式部が子供の時の友達に贈った歌。

そして、石碑の左側に受付がありました。
では本堂へ向かいましょう。

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こちらは「源氏庭」です。

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源氏庭は、白砂と雲を形どった苔で造られているそうです。

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本堂は、この源氏庭の反対側にあります。
(本堂は撮影禁止だったので写真はありません)

源氏庭に、紫式部の邸宅跡を記念する顕彰碑がたてられています。
石碑には「紫式部邸宅址」とかかれてあります。

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昭和40年11月この顕彰碑がたてられるとともに、源氏庭が整備されたみたいです。

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紫式部は、平安京の東に接した中河と呼ばれる地(現在の廬山寺の境内を中心とする処)に住んでいました。
それは、紫式部の曽祖父である、権中納言藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅であったそうです。
紫式部はその邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み育てます。
そして、ここであの「源氏物語」を執筆したのです。
その為、邸宅があったといわれているこの廬山寺の場所は、「源氏物語執筆の地」と伝えられています。(源氏物語・紫式部日記・紫式部集などはほとんどこの地で執筆されたものだそうです)
ちなみに、紫式部は長元四年(西暦1031年)59歳ほどで死去したといわれています。

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源氏物語に出てくる朝顔の花は今の「桔梗」のことだそうで、紫式部に因み、6月末~9月初め頃まで、紫の桔梗が花開く姿が見られるとのこと。

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桔梗が咲く時期はやはり特に人気があり、みなさん本堂の前に座ってのんびりとお庭を眺め、美しい桔梗の姿を楽しむ姿が多く見られるそうです。
この苔の部分のあちこちに、桔梗が可愛らしく静かに咲くみたいですよ。
そして、その紫の桔梗たちが、昔ここで源氏物語が生まれたということを、ずっと伝え続けていくのでしょうね。

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そう考えると、やはり桔梗が咲いている源氏庭も見てみたいものです。


人の多さとしては、私が行った時は他に誰もいませんでしたが、
季節(桔梗の時期など)や時間帯によっては混むかもしれません。
ただ、あまり広くはないので、団体で来るような感じはしませんでした。

蘆山寺のすぐ目の前には京都御苑もあり、こちらを見た後は京都御苑をお散歩するのもいいですね。


ではまた。

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