「□から○へ」 京都 源光庵
源光庵は曹洞宗の寺院です。
場所は京都市北区にあります。
千本通りから鷹峯街道へ入り、真っ直ぐ北へ上がって行きます。
鷹峯街道は緩やかな坂になっており、しばらく歩くと源光庵に到着。
交通手段としては、市バス「鷹峯源光庵前」で下車すると、
徒歩ですぐという所まで行けます。
1346年(貞和2)臨済宗⼤徳寺2代徹翁国師によって開創。
1694年(元禄7)加賀・⼤乗寺27代卍山道白禅師により、臨済宗から曹洞宗に改められ、以降は曹洞宗の寺院となる。
本堂は卍⼭禅師に帰依した⾦沢の富商・中⽥静家居⼠の寄進によって
1694年(元禄7年)に建⽴された。
なんだか好きな感じです。
中央に見えるのは先程くぐってきた入り口にある三門です。
本堂に入る前にここをウロウロしていました(笑)
では本堂へ。
すごく広々としています。
本堂には、「悟りの窓」と名付けられた丸窓と「迷いの窓」という名の⾓窓があります。
それがこちら。
左の丸窓が「悟りの窓」、右の四角い窓が「迷いの窓」です。
この窓は本堂が建てられた時からあり、それぞれに仏教の概念・禅の境地の意味が込められているそうです。
悟りの窓の円型は「禅と円通」の⼼を表し、円は⼤宇宙を表現しています。
そして、円迷いの窓の⾓型は「⼈間の⽣涯」を象徴し、⽣⽼病死の四苦⼋苦を表しています。
ここではそれぞれの真正面に座り、じっと眺めてみました。
「迷いの窓」を見る。
「悟りの窓」を見る。
そして私は最後に両方を見ました。
私以外誰もいなかったので、しばらくの間、
ただただ見させていただきました。
そう、ただ見るだけ。
自分とその窓だけの空間に集中する。
こちらで実際やってみるとわかるのですが、
別の空間に行った様な、身体がなんとも不思議な感覚になりました。
持っていかれる…いや、ふわっと自分の個体という感覚がなくなって
消えていくような、なんだかそんな感じがしました。
感じることに集中していたら、
随分時間が経っていたようでした。
この窓は、見る人によってそれぞれ感じ方が違うんだろうなぁ。
それぞれみんな、生きてきたものが違うように。
しばらく経った後にようやく立ち上がり、
丸窓の見る角度を少し変えてみることにしました。
すると、白い蔵のようなものが見えました。
この眺めもいいですね。
新緑の緑と蔵の白が綺麗です。
こちらも角度を変えてみました。
四角もやはり、なんとも言えない魅力があります。
光が差し込む具合によって、影がその表情を変えていきます。
憂い、愁い…なんだろう、私には表現が難しいです。
では本堂の畳廊下を見てみましょう。
上をご覧ください。
この天井が「血天井」と呼ばれているものです。
こちらの⾎天井は、伏⾒桃⼭城の遺構(昔の建築の残存物)です。
中央に足の形が見えます。
血天井とは、伏見城で討死した者達の血痕が残った床板を
天井に張り替えたものなのです。
「慶⻑5年(1600年)家康が会津の上杉景勝の征伐に向けて諸将を率いて出兵、その際、鳥居元忠は伏⾒城を預かり守り抜く役⽬を与えられました。」
「(1600年)慶⻑5年7⽉、徳川家康の忠⾂・⿃居彦右衛⾨元忠⼀党1800⼈が
⽯⽥三成の軍勢と交戦し討死、残る380余⼈が⾃刃して相果てたときの恨跡です。」
(説明はホームページより)
本来であれば、なぜこのようなものをわざわざ見えるように残すのか…
と、すごく不思議でした。
しかし、「供養するため」「家臣を弔うため」という理由を知って、
納得するに至りました。
壮絶な出来事だったのでしょう。当時の悲惨さを物語っています。
意味を知らないでただ見るだけでは、
そういった考えもあるということには気づけなかったと思います。
血天井がある場所はこの他にもいくつかありますが、
徳川家にゆかりある寺院でこの床板を保存することにしたそうです。
そしてなぜ天井板にしたのかというと、
「決して誰にも踏まれることのないようにする為」
だったそうです。
では他も見て回ってみましょう。
縁側があったので、少し出てみました。
緑がきらきらしていて気持ち良さそうにしています。
ちなみに、本堂裏の庭園は枯⼭⽔庭園となっています。
源光庵は、沢山見所のある場所ですね。
そして、色々と考えさせられることが多かった気がします。
では、帰りましょうかね。
源光庵に行った際にはぜひ、
あの窓をゆっくりと眺めていただきたいなと思います。
ただし、こちらも現在拝観休止の状況ですので
すぐに行くことができないのは残念なところですが、
いつか機会があればぜひ見てもらえたらと思います。
(今回の写真も以前に行った時のものです)
あの窓と真正面から向き合った時、
「自分」というものが
もしかしたら見えるきっかけになるのかもしれません。
ではまた。