「アムリタ」を手に高野山へ③
体でしか学ぶことのできない、密教。
私は書道が好きで、ヨガが好きで、それはどちらも頭で理解してもダメで、ひたすら体を鍛えるしかない。だから好き。
そんな私が、「アムリタ」を持って高野山に行った。
魂は生きているという「事実」
2泊目は真田家が宿坊にしたという蓮華定院。
ものすごく暗くて、蝋燭の火だけに灯されて金箔の調度品がきらきらと輝くみたいな妖艶な本殿で、阿字観のあと、ご住職は語ってくれた。
アメリカ人の女性が、夢にクチナシの花を持った若い女性と出会って、「お母さんにこれを渡してほしい」と託された。目が覚めてカフェに行ってみると、その「お母さん」がいて、夢の話をすると、夢に出てきたのは2週間前に交通事故で亡くなった娘さんだったということがわかった。
ご住職は言った。「亡くなった人の魂が、今も私たちのそばで生きているという事実」。さらっと語られて聞き流すくらいだったけど、ああ、そのことはこの高野山では「事実」として認められていると知るには十分だった。
「アムリタ」で語られる魂
さて、吉本ばななの「アムリタ」は、一言で言うなら、「魂の物語」である。妹を亡くし、自分も階段で転んで半分記憶を失った主人公・朔美が、不思議な力を持つことになった弟と高知やサイパンを旅し、魂の存在を感じていく、そんな話である。
竜一郎という小説家の登場人物は言う。
高野山で私が得たことと、「アムリタ」で語られていることは、とても似ている。でもこれは奇跡でも、シンクロニシティでもなくて、たぶん、もともとに流れている思想、インドから中国を経て、日本に続いている、私たちが受け継いできた思想。この数百年、西洋思想に押されたにしても、不動だにしてここに在り続ける。
魂の力で、生かされている私、あなた
10代で「アムリタ」を読んだ時は、こんな魂の話が、全く身に入ってこなくて、「なんか気持ち悪い」と思った。
でもそれから、19歳で父が癌で亡くなり、22歳で高校の親友が白血病で亡くなった。父は書道の人で、親友は教育への志を高く持つ人だった。そんな二人の魂が私をここまで動かしてきている。
亡くなった人だけではない。人生には不思議な出会いというものがいろいろとあって、それは人間関係としての深さだけで語れるものでもなく、今は全然会えなくなってしまった関係でも心に残り続ける縁もあるし、いつか一度だけ見たことのある絵画や聴いたことのある音楽が、その人を突き動かし続けるということも、よくあるのだと思う。
魂と魂とのやりとり、響き合いで、人は生きていく。
今、私のnoteを読んでくれている誰かも、私の魂を少しでも受け取ってくれたら。
根本大塔の風鐸は響く
高野山の街歩きをした2日目は、風の強い日だった。大伽藍にやってきて、きぃきぃ、からから、と聴こえてくる音が、根本大塔のテッペンにある風鐸の鳴る音だと気づくまでに少し時間がかかった。風が吹くたびに風鐸は鳴り、杉林がざーッとどよめく。私たちは自然に生かされている、そう感じるしかなかった。
空海の思惑にまんまとやられた。
空海。お坊さんで、教育者で、空間デザイナーで、アーティストで、天才と呼ぶにふさわしく、それでいて、人を赦すことのできる、器の大きい大きい人。
高野山という受け継がれた圧倒的な美の世界を前に、私は自分の小ささを感じるだけだけれど、私は、私に与えられた小さな使命を、ただ日々、全うするしかない。
これまで私の人生を動かしてきてくれた、幾多の魂に感謝。そして、これからも。
_____________________________
2022.12.21追加