使える交渉術! 第10話
(この物語は、武井青という若手技術者の経験を通じて、「交渉」を学んでいきます)
前回まで
武井青は、自動車部品メーカーで働くエンジニア。大手クライアントである本山自動車からの仕様変更要望に応えるため、社内の協力を得ながら提案資料を作成し、順調にプロジェクトを進めていた。一方で、恋人の美優に仕事のことで相談され、必死に助言を行った。
仕事をひと段落し、土曜日には美優とランチの約束をした青。秋の穏やかな空気の中、二人は美優が行きたいと言っていたレストランで再会する。美優の担当する商談がうまくいったことや、とりとめもない話をしながら和やかな時間を過ごす。しかし食事が終わる頃、美優から「今の仕事を続けるか迷っている」と打ち明けられた。青は場所を変えてゆっくり話を聞こうと店を出た。
第10話
秋の日差しが柔らかく降り注ぐ中、二人は駅から少し離れた静かなカフェに向かって歩いていた。街路樹のイチョウが風に揺れ、足元にカサカサと音を立てて黄色い葉が散る。その穏やかな景色の中で、武井青の心は少しざわついていた。美優の気持ちが何なのかを知りたいと思っていた。
カフェに到着すると、店内にはジャズが流れ、木の香りが漂っていた。いつものように窓際の席に座り、それぞれコーヒーを注文する。テーブル越しに向かい合うと、美優は少し済まなそうな笑みを浮かべていた。
「さっき言ってたことだけどさ、もう少し詳しく聞いてもいい?」
青は静かに切り出した。
「うん……」美優は一瞬視線を落とし、コーヒーカップに目をやった後、少しずつ話し始めた。
「今の職場、環境は悪くないし、仕事もそこそこ楽しいんだけど……最近、自分が本当にやりたいことって何だろうって、考えることが多くなって」
「何かきっかけになるようなことがあったの?」
青が尋ねると、美優は少し考え込んだ後に答えた。
「うーん、大きな出来事ってわけじゃないんだけど、最近中途で入ってきた子が、同じ歳の女性なんだけど、すごく優秀でね。その子がどんどん成果を出してて、私、ちょっと影が薄くなってる気がしてさ……。」
青は頷きながら、美優の言葉を注意深く聞いていたが、その一方で彼女がまだ全てを言い切っていないようにも感じていた。
「それって、その子が原因で美優が影が薄いって感じること自体が嫌なのかな? それとも、仕事そのものへの興味が持てないとか?」青は少し柔らかい声で問いかけた。
美優は驚いたように目を見開き、一瞬黙り込んだ。しばらくして、小さな声で答えた。「……たぶん、両方かな。でも一番は、自分が何をしてるのかが分からなくなってきてることかも。」
「何をしてるのかが分からない、か..」青は美優から言葉を引き出すようにつぶやいた。
「その……私がこの仕事を始めた時は、お客さんに喜んでもらえるのが嬉しかったんだ。でも最近は、数字や成果だけが評価されるような現実も見えてきて、やりがいを見つけられなくなってきてるのかも。」美優の声には、少しずつ確信が混じり始めていた。
青は少し間を置いてから答えた。
「それ、結構大事なことだよね。やりがいを感じられないと、モチベーションも保ちにくいし。美優が昔感じてたその『喜び』って、今の仕事の中でもまだ探せると思う?」
美優は考え込むように視線を窓の外に向けた。しばらくして、「探せるかもしれない。でも、もうちょっと違うやり方で、お客さんと関われる仕事をしたい気もする。」と答えた。
「例えば?」青は自然な口調で続けた。
「そうだなぁ……企画とか。もっと自分の考えが出せて、お客さんに喜んでもらえるような仕事かな。」美優の表情が少し、明るくなった。
「なるほどね。それなら、今の仕事と全然違うってわけでもないし、経験を活かせる部分もあるかもな。」青は少し笑いながら言った。
「美優なら、きっとうまくやれると思うけど、焦らずに自分が本当に納得できる道を探せばいいんじゃないかな。」
美優はその言葉に救われたように笑顔を浮かべた。「ありがとう、青くん。話してたら、少し気持ちが軽くなったよ。」
青は彼女の笑顔を見て、心の中でほっとすると同時に、彼女が進むべき道を見つけられるよう、これからもサポートしたいと思った。コーヒーの温かな香りが、二人の会話を穏やかに包み込んでいた。
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さて、青が美優に対してとった態度には、交渉術の手法が使われています。青にその意図があったかどうかは別にして、普段の会話でも、良いコミュニケーションにはこういった手法は関わってきますね。
1. オープンクエスチョンの活用
青は「何かあったの?」「それってどういうこと?」といったオープンクエスチョンを使って、美優の心の内を引き出しています。
目的:相手に自由に話してもらうことで、本音や本当の問題を明確にする。この方法は、情報収集や相手の考えを深掘りする際に有効です。
2. 積極的傾聴
青は美優の言葉を注意深く聞き、頷いたり共感を示しながら、相手が安心して話せる雰囲気を作っています。
目的:相手が感情や考えを言語化しやすくすることで、信頼関係を築き、相手の真のニーズを引き出す。
3. リフレーミング
「影が薄くなってる気がする」という美優の言葉に対して、青は「それって、美優が影が薄いって感じること自体が嫌なのかな? それとも、仕事そのものへの興味が持てないとか?」と問い直しています。
目的:相手の考え方や状況を新しい視点から捉え直させることで、問題の本質や別の可能性に気付かせる。
4. 未来志向の提案
青は「今の仕事でも探せることはあると思う?」「例えばどんな仕事がやりたい?」と未来に視点を移す質問をしています。
目的:相手が前向きに考え、自分の将来についてより具体的なイメージを描けるようにする。ネガティブな感情にとらわれるのを防ぐ。
5. 共感の言葉とサポートの姿勢
「美優なら、うまくやれると思う」「焦らずに探せばいい」といった共感や励ましの言葉を添えています。
目的:相手に安心感を与え、自分の判断に自信を持てるようにする。これは、心理的な安定感を与える効果にもつながります。
青が行ったアプローチは、交渉術でいうと 「ラポール(信頼関係)の構築」 や 「ニーズの探求」 に基づいたソフトスキルを駆使したものです。特に「本当の理由」を探るための深掘り質問や相手の感情に寄り添う態度は、交渉やカウンセリングで非常に効果的なテクニックと言えます。
何より、基本的な態度として、相手に寄り添うことが大切ですね。
まあ、青くんの場合は、「思い」があって自然に出た言葉と思いますが。