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第14回 もう一つの「発達のなかの煌めき」(『みんなのねがい』連載解説)

2023年7月
白石正久・白石恵理子

今年も穂高に会いに来た。その悠久の自然を前にすると背すじが伸びる。全障研の全国大会の記念講演では、私たちの道しるべとなった人びとのことを、ていねいにお伝えしたいと思う。

第14回(第Ⅱ部第2回)

乳幼児期の保育・療育についての覚書


はじめに


 まず、6月11日に開催された「教育と保育のための発達診断〈オンライン〉セミナー」にご参加いただきありがとうございました。600名を超える方にご参加いただき、1300回近い見逃し配信視聴回数を数えたとのことです。繰り返し視聴していただいたことに、みなさんの学びへの強い思いを感じました。感想文、アンケートも、たくさんいただきました。大変好評であり、あらためて講師の皆さんに感謝申し上げます。
 次回11月12日(日)では、「ライフサイクルと発達の障害」をテーマとして、発達理解を深めていきたいと思います。来夏には、「4歳以降の発達について」のセミナーを計画しています。ご予定ください。
 以下に、テキスト編者としての私たちからの、セミナー冒頭でのご挨拶を掲載します。


 発達診断セミナーにご参加の皆さま、こんにちは。テキスト編者の白石正久と白石恵理子です。オンラインでお顔を拝見できないのは残念ですが、全国各地の皆さんとつながって学びあえることの幸せをつくづくと感じております。

 さて、テキスト(『新版・教育と保育のための発達診断・下巻』)の192頁に、全障研の結成大会時の基調報告(1967)の一節が紹介されています。

 「これまでわたくしたちは、はやく、たくさん、たくみに答えを出すことをめざす体制の中で育てられてきたので、発達とは、できないことができるようになる、上へ伸びていくことだという理解のしかたをしてきました。」

 こうした発達の見方、発達観は50年たった今も根強くあると考えています。お金を払って、その対価としてのサービスを買うというしくみが強まっているなかで、「一人ひとりの子どものもっている力をのばします」、「一人ひとりに寄り添った個別の発達支援を行います」といった宣伝文句が、私たちがいつも乗車するバスのなかでも聞かれるようになりました。子どもの育ちに何らかの不安を抱えているおかあさん、おとうさんに、こうしたキャッチコピーは深く入り込んでいくでしょう。

 そうではなく、本当に一人ひとりに向きあっていきたい、子どものねがいに応えたいと思って実践を重ねているところでも、厳しい保育条件、教育条件のもとで、支援者の側の余裕がなくなればなくなっていくほど、こうした発達観はいつのまにかスルリと入り込んでくるのではないでしょうか。それは、おとなが設定した枠内、条件内でしかモノを見たり考えたりせず、その中でしか自己の力を発揮することができない受け身の発達観とも言えるでしょう。そうではなく、どんなに幼くても、どんなに障害が重くても、その子が発達の主体であり、自分で感じ、自分で確かめ、自分で考えようとしているのだ、その姿に心をよせ、それを共感しあう仲間との関係、保育者や教師の存在が重要であると考えます。

 さて、今月2日、厚労省から発表された前年の合計特殊出生率は「1.26」で、7年連続の減少、過去最低となりました。出生数も初の80万人割れでした。政府は焦燥に駆られています。先日公開された子育て支援の基本方針である「こども未来戦略方針」では、「少子化は、我が国が直面する最大の危機」「日本のラストチャンス」という言葉が躍っています。「はじめに」では、「急速な少子化・人口減少に歯止めをかけなければ、我が国の経済・社会システムを維持することは難しく、世界第3位の経済大国という、我が国の立ち位置にも大きな影響を及ぼす。(中略)今後、インド、インドネシア、ブラジルといった国の経済発展が続き、これらの国に追い抜かれ続ければ、我が国は国際社会における存在感を失うおそれがある」と危機感を説明しています。つまり岸田首相のいう「次元の異なる少子化対策」なるものが、なにより経済戦略のためのものであることを露骨に表明しています。

 「産めよ殖やせよ」という国策を掲げた1941年1月の近衛文麿内閣の「兵力・労働力確保」のための閣議決定を想起します。「1家庭に子ども5人以上」を実現するために多産世帯にはご褒美を、独身者には課税(「独身税」)をというものでした。しかし、生まれてきた子どもや家族の基本的人権はないがしろにされ、その年の12月に開戦した太平洋戦争のなかで、多くのいのちが奪われていきました。

 それから80年余、今また、国家とその経済のために「子どもを増やす」ことを至上命題とした政策が大手を振って登場してきました。そういった政策のベクトルのもとで、保育、教育、児童発達支援、放課後支援において、子どもの人数や取り組みの時間量は問題にされるけれど、生命、生存、発達という一人ひとりの子どもの権利が軽視されている現実を、私たちは目にするようになりました。先にふれたように、「子育て支援」「発達支援」の名によって、利潤追求する企業活動が参入し、「できること」の増大をキャッチコピーとする療育や放課後支援が拡大しました。デジタル技術による実態把握や教材開発で、情報産業の儲けを支えようとする政策も強化されています。子どもが営利追求の手段になるとき、その権利や発達は本当に守られるでしょうか。おとなも、こういった政策によって駆り立てられ急かされて、互いのことを理解しあうことがむずかしい現実のなかにあります。

 こんなときだからこそ、このセミナーで発達を学んだ皆さんが、同僚や保護者とともに発達の大切さを語りあって、一人ひとりが大切にされ、互いを尊重しあえる職場や地域を創るための役割を買って出ていただけないでしょうか。全障研は、そういった研究運動を積み重ねてきました。

 子どもたちの発達を守るために、ともに手をつなぎあって進んでいきましょう。


 「発達のなかの煌めき」第Ⅱ部2回~4回(『みんなのねがい』5月号~7月号、以下では「連載」)は、乳幼児期の発達保障をテーマとしましたが、教師、作業所の指導員の皆さんなどからも、たくさんの感想をいただきました。きっと大きくなった子ども、なかまのなかに、彼らと家族の乳幼児期からの歴史が刻まれていることを想ってくださったのでしょう。その他者の歴史への想像力こそが、子ども、なかまと向きあう私たち自身の発達として求められるのではないかと、この連載ではおりにふれてお話ししてきました。

 「連載」第2回では乳幼児健診後の親子教室、第3回では保育所等における障害児保育、そして第4回では通園施設、通園事業、児童発達支援の歩みを振り返りつつ、発達保障の実践に求められる視野と視点をお話ししました。この「もう一つの『発達のなかの煌めき』」(以下では「もう一つ」)第14回では、保育・療育の黎明期を中心に、その時代から学ぶべきことを覚書風に書きたいと思います。第15回(8月中旬を予定)では、応用行動分析、ペアレント・トレーニングなどについて検討する予定です。


障害のある子どもの保育、療育の歴史

 これらの乳幼児期の発達保障の制度や実践のスタートは、1970年代を待たねばなりませんでした。法の下に平等であるべき障害のある子ども、人びとの権利保障は、高度経済成長期の経済優先政策のなかで、広範に侵害されていたのです。何より、養護学校設置義務の先送り、学校教育法の「就学猶予・免除」の乱用によって、義務教育すら保障されていませんでした。そのもとで、知的障害(当時は精神薄弱)児通園施設は、中等度の知的障害があり、就学猶予・免除を受けた6歳以上の学齢児のための施設でした。

 連載第4回で紹介した広島県福山市の「草笛学園」は1973年の設立ですが、その年に1979年からの養護学校義務制の予告政令が出され、その翌年、知的障害児通園施設の年齢制限も撤廃されました。ですから、「草笛学園」の開設の年には不就学の学齢児も入所していたのです。先生方は、先例のない幼児期の実践への挑戦とともに、学齢児の就学保障にも取り組みました。

 この1970年代前半は、東京の美濃部都政、京都の蜷川府政、大阪の黒田府政をはじめとして、社会党、共産党を中心とした革新勢力の統一によって住民の要求実現を大切にする自治体が全国に広がったときでした。住民が主権者として「憲法を暮らしに生かそう」を掲げて、苦しい生活やさまざまな権利侵害をなくそうと立ち上がったのです。障害のある子どもの教育権保障では、京都府の与謝の海養護学校の本格開校(1970年)、東京都の希望者全員就学の実現(1974年)などが、養護学校義務制へ道を拓く画期となりました。呼応するように、大阪府下(大阪市を除く)の多くの自治体で障害乳幼児のための通園施設の開設、滋賀県大津市での「早期発見・早期対応」「希望者全員の保育所等の入所」を掲げた「大津方式」など、乳幼児期の先駆的な施策も取り組まれていきました。さらに、障害のある子どもの保育所入所運動が拡がり、1974年の厚生省(当時)の「障害児保育事業実施要綱」の発出につながりました。これらはすべて国が先導した政策ではなく、住民と働く人びとなどの粘り強い要求によって実現していったことでした。

 大阪府寝屋川市の「あかつき園・ひばり園」は1973年に開設されましたが、親の会が自主運営していた障害乳幼児の保育が要求の核となり、無認可の「療育センター」(1971年)を経て、「『一人の願いをみんなの願いに』ということで進めた運動で獲得した私たちの園」(寝屋川市障害児を守る会会長・田中守さん)として実を結んでいったのです。
 

一人のねがいをみんなのねがいに

 この経過で大切なことは、障害のある子どもへの施策が単独で実現していったのではないということです。国民各層と手を携えるようにして取り組まれた運動でした。1960年代後半から1970年代には、「婦人よ家庭に帰れ!」という保守的な家族観によるキャンペーンに抗して、女性の働く権利の確立と子どもの生活・発達の保障をねがって、「ポストの数ほど保育所を!」の運動が各地で取り組まれました。そのなかで、子どもに障害はあっても「働きつづけたい」、保育所に入所させてやりたいという要求は等しく尊重されなければならないと自覚した人びとが、地域の保育運動、女性団体、労働組合、いろいろなねがいをもった市民とともに、障害児の入所運動に立ち上がりました。

 連載第3回で紹介した大津市の「つくし保育園」にタカシくんが入園したのは、1967年のことでした。このときはお母さんの孤軍奮闘によって、認可運動に取り組んでいた共同保育所のつくし保育園にたどり着いたのです。就学するまでの1年半の保育によって、タカシくんはたしかな変化を見せたのですが、保育者は既存の保育に「障害児をつけくわえる」ような受けとめになっていたのではないかと反省し、障害児を含めた集団保育づくり、園全体で受けとめるための職員集団づくり、そして園の担う保育運動の大切な柱として公的な「障害児保育」の実現を要求することを課題として残したのです。そして1971年、歩行や言語の獲得を課題とする障害の重い5歳のユミちゃんを受け入れることになりました。当時、『ちいさいなかま』などの保育雑誌に紹介されたユミちゃんへの実践は、今でも学ぶべき大切な視点を残してくれるものでした。大要を紹介します。

 
 ユミちゃんは、お母さんとなら両手を支えてもらって歩いているのに、保育者が手を出すと嫌がって歩こうとはしませんでした。ところがある日、友だちのノブちゃんの誘いに応えて歩みだしたのです。保育者にとってはうれしい瞬間でした。

 しかしその後の会議で、こんなことが出されました。「ノブちゃんと歩いたり、はじめて便器でおしっこをしたり、園ではじめてできたと思うことがたくさんあるけれど、お母さんに聞いたら、みんな家でできていることでしょ。いったいユミちゃんは発達しているのやろか」。

 カンカンガクガクの議論になりました。「だけどノブちゃんと歩いていたときのユミちゃんの顔には、これまでになかった新しい経験をしたときの感激した輝きがあったよ。家の中だけでしていたことが保育園でもできる。お母さんとだけしかできなかったことが友だちとできる-それはおしっこをする力や歩く力がずいぶんのびて、なかま・社会との結びつきをこれまでよりも強めてきたことになるのではないだろうか。それもたいせつな発達ではないか」。

 そして、「マンマと言えた」「五歩歩いた」などとそれだけ切り離して発達としてみてしまっていたけれど、それだけではなく、「どのような条件のもとで、いかなる教育的働きかけによって、だれと、何のために、何に向かって、いかに豊かになしとげたのかを、これまでもっている力の変化にも目を向けつつみていかなければいけない」「なかま・社会との結びつきを強めて、自分の人格を輝やかせながら発達していく姿をたいせつにしていかなければならない」と共有しあうことができるようになっていったのです。つまり、発達は「なかま・社会との結びつき」のなかで、一人でできることがみんなとともに、みんなのなかでできるようになっていくことを通じて、人格の広がり、豊かさをともなって達成していくことを、実践者は学び取っていったのでした。私たちおとなも、一人でできるだけではなく、仲間のなかで、仲間と力をあわせてできるようになることは大切なことですね。

 一方、ユミちゃんの手をひいたノブちゃんは、とても怒りっぽかったのですが、「あんなにもユミちゃんの気持ちがわかり、心を結びあわせる力をもっているのだなというように、これまで保母によみとることができなかった子どもたちの力も、みなおすことができるようになった」と言われました。

 そして、「ユミちゃんをうけいれるまで討議を重ねるなかで、うけいれるとあんなことも起こるだろう、こんなことも起こるのではないかとたくさんのことを予想していました。そしてこのことは実際おこったけれども、予想しえなかったこともたくさんありました。そのなかで最大のことは、職員集団の子どもたちを見る見方が変化し、前進してきたことです」と結ばれています。


 
 こういった実践によって、障害のある子どもだけではなくすべての子どもが、生活、遊び、集団を基礎とした人格的な育ちあいを遂げていく場として、保育所が発達保障の歴史に立ち現れました。私たちの指導教官であった田中昌人さんは、自身がつくし保育園の園児の保護者であり、園の実践検討に積極的に参加していました。『講座発達保障への道・第1巻』(1974年、全障研出版部)は、当時の『みんなのねがい』連載の単行本化ですが、その本でこの実践を紹介しています(『講座発達保障への道・全3巻』の復刻版は、学習資料として全障研出版部の「オンラインショップ」で提供されています。また、その内容を川地亜弥子さんが、『新版・教育と保育のための発達診断・上巻』「Ⅲ-4章 7歳の発達の質的転換期と発達保障」で解説しています)。ぜひ、お読みください。


通園施設、児童発達支援の開設 ― 保護者、市民とともに

 1974年から国の制度としてはじまった「障害児保育事業実施要綱」は、当初、対象が4歳以上で軽度の障害、定員90名以上の保育所で、障害児の人数がその1割程度に及ぶことという厳しいものでした。したがって「希望者全員入所」を原則とした大津市のような自治体は少なく、なかでも障害の重い子どもの保育所等への入所は容易ではありませんでした。一方、通園施設(当時は、知的障害、肢体不自由、難聴の3種別があった)は、1974年の時点では全国で200か所に満たず、1980年でも知的障害児通園施設のない府県が7県、1施設しかない県が9県でした。こういった地域の偏在は、今日までつづいています。

 この状況にあっても、通園施設の設置や増設を求める運動が各地で粘り強く取り組まれました。国も障害の重い子どもへの専門的、総合的な対応を行なう施設の必要性は認めざるをえず、1979年から「心身障害児総合通園センター」が設置できることになりました。これは、①相談・検査部門(診療や心理判定・相談)、②療育訓練部門(肢体不自由、知的障害、難聴の通園施設のうち、2つ以上を設置)という2つの機能を備え、都道府県、政令市、中核市のほか、概ね人口20万以上の市を設置主体とするものでした(当初は、3種の通園をすべて設置し、人口30万人以上の市によるとされましたが、後に緩和された)。しかし、国の補助金はあっても自治体負担は相当額に上り、この制度による通園施設の拡大は限られたものでした。

 そのなかで広島市では、1974年に市の中心部(東区)に外来診療と3種の通園施設をもつ「児童療育指導センター」(現、広島市こども療育センター)を開設しており、「心身障害児総合通園センター」の全国のモデルとなりました。しかし、政令市の大きな出生数と広い行政域を抱え、通園に長い時間を要するなど、園児、保護者の負担は並大抵ではありませんでした。「広島のどこに生まれても同じサービスを」「地域に根ざした療育センターに」という2つの柱を掲げ増設をめざして、保護者会、職員の労働組合、子どもの権利を守る市民団体などが「実行委員会」を組織し、粘り強い運動が始められました。広く市民に向けて訴えることを大切にして、保護者とともに繁華街での街頭宣伝、署名活動などを繰り返し行ない、その署名は6万筆を超えたのです。

 運動が実って、第2の「センター」として1993年に「北部こども療育センター」(安佐北区)が開設されました。ところが、この機に、これらの療育センターの運営を「社会福祉事業団」へ委託するという市の方針が出されました。この方針に反対するために、障害種別を越えて5つの園の保護者会が一つにまとまり、「広島の障害児療育を充実させる会」が結成されました。子どもが療育を通じて豊かに発達することを実感した親は、そのために何が必要なのかを考え、国や自治体に堂々と要求する力をもつようになっていったのです。後に「療育を充実させる会」は必然的に「療育・教育を充実させる会」へと発展していきました。このときの運動は、全国から27万余筆の署名を集め、たびたびマスコミにも取り上げられるなど、大きなうねりになりました。委託そのものはなされましたが、市長が社会福祉事業団の理事長となるなど、広島市の公的責任を明確にした組織関係が構築されました。さらに、第3の「センター」として「西部こども療育センター」(佐伯区、2004年開設)の開設が約束されたのです。これらの詳しい経過については、本年度の『みんなのねがい』の連載、広島乳幼児サークルのみなさんの「仲間がいっぱい ひろしまの療育」を、ぜひお読みください。

 広島市の療育を創る運動は、「療育」という言葉を正面に掲げ、「療育とはなにか」を市民に向けて説明し、その大切さを訴えつづけるものでした。障害はあっても療育によって子どもは豊かに発達するのであり、その生命と発達は同じに尊いということを、広く市民のものにしようとするものでした。運動は人を育てます。この運動によって、障害のある子ども、親・家族、そして職員が、主権者として胸を張って生きていくことのできる地域へと歩み出したのだと思います。毎夏の全障研の全国大会に、広島市の療育センターの職員のみなさんは、たくさんの保護者、子どもといっしょに参加されています。その保護者が分科会などで、自らの思いとねがいをはっきりと語られる言葉に、主権者としての姿をみるのでした。

 
通園事業、児童発達支援事業 ― 地域に根ざした療育  

 1970年代後半から、全国、どこに生まれても療育を受けることができるように、「心身障害児通園事業」(後に児童デイサービス事業、さらに児童発達支援事業)による療育の場づくりが徐々に拡がっていきました。とくに、1978年からの「18か月児健診」の本格実施が、障害の発見後の療育の場の大切さを認識する契機になりました。

 「心身障害児通園事業」とは、1972年の「心身障害児通園事業実施要綱」(厚生省)によるものであり、通園施設などの法定施設を配置するには至らない小規模の市町村に、概ね利用定員は20名とする施設としてスタートしたものです。

 簡易な施設とはいえ、この事業の委託を受けるには多くの苦労がありました。今日「全国発達支援通園事業連絡協議会(略称・全通連)」(近藤直子会長)に参加する各地の事業所には、その地域の人びとのねがいを集めて開設にこぎつけた、それぞれの歴史があります。

 たとえば鹿児島県では、1984年、教員であった大迫より子さんが、鹿児島市内の自宅を開放し「あすなろ療育相談室」を開設し、小さな通園事業の第一歩が印されていきました。そして無認可の「鹿児島子ども療育センター」に発展させ、1993年に鹿児島市から心身障害児通園事業の委託を受けました。そこにいたる10年、大迫さんはじめ職員・関係者、親、市民による大きな運動が取り組まれました。発達の事実は人に確信を与え、そしてそれをはぐくむための人の輪を広げます。何より保護者に力を与え、「親の会」の組織につながり、その確信を県下にもひろめていきました。この運動は行政を変え、自治体職員を変えて、離島を含む県下各地に、療育の場を創っていく中心の役割を果たすことになりました。旧大口市(現伊佐市)の市長は、義務教育と同じに「療育は(無償で)義務でなければならない」と謳いました。「鹿児島子ども療育センター」は、2017年に「むぎのめ子ども発達支援センターりんく」(児童発達支援センター)へと発展しています。

 人口が90万人(現在は80万人を割る)に満たない小県の山梨県には、1980年代になっても限られた療育の場しかありませんでした。とくに、3歳未満児や重症児の通える場がなく、行き場のない親子をなくそうと民家を借りての週1回の療育が開始されました。その2年後に園舎を立てましたが、甲府市から「心身障害児通園事業」の委託を受けるまでにはさらに5年を要しました。しかし、療育の場は根本的に不足しており、県下3番目の知的障害児通園施設の開設をめざして、職員、親が一丸となった運動がつづきました。そして2002年に、知的障害児通園施設「ひまわり」(山梨市)の認可にいたります。なんと息の長い運動だったのでしょう。その間、県下各地で療育を求める「集い」、各地への出前療育などを取り組み、保育所、幼稚園、学校、自治体職員などにも「後援会員」を広げて、県下全域に運動を支えるネットワークがつくられていきました。分け隔てなく人びとと手をつなごうとする運動は、長く施設を支える礎を作ります。

 かつて、「『教育は環境ではない、中身だ』という人もいるけれど、障害児のいる場所は、どこにいっても貧しい。でも、一つひとつの遊具や備品には、その施設を支えてきた人びとの歴史がかくされている」と和歌山県の「こじか園」を訪問したときの感想を書きました(『発達の扉・下巻』、89ページ)。それぞれの園の開設を支えたのは、その園を核とした地域のネットワークにつながる人びとです。それは園の応援団であるだけでなく、子どもや家族の地域での生活を支える応援団にもなっていきます。

写真19 障害児のための教室
「教育は環境ではない、中身だ」という人もいるけれど、障害児のいる場所は、どこにいっても貧しい。でも、一つひとつの遊具や備品には、その施設を支えてきた人々の歴史がかくされている
(和歌山県こじか園にて 1995年1月19日)

その園がある地域の特徴は、療育実践の中身にも反映します。そこにしかない海、山、川、田畑の営み、飼育、祭り、歌舞、地域の人びととの交流などが、子どもたちの活動や遊び、行事、年間保育計画に位置づいているのでした。それは、「土着の療育」と呼んでもよいものでしょう。障害児の施設はインクルージョンの理念に反するとの言説がありますが、地域の人びとと文化に根ざして、子どもらしい日課、遊び、生活、集団のもとで発達がはぐくまれることは、むしろ障害の有無を越えた発達保障実践の大切なあり方だと思います。

 
厳しい時代にあって

 住民要求に依拠した民主的な自治体の存在をうとましく思った政治の動きは、社会党、共産党を中心とする「革新統一」にくさびを打ち込むことに腐心しました。京都の民主府政が、社会党の独自候補の擁立によって終わったのは1978年でした。1980年、共産党の排除を前提とした社会党と公明党の政権構想合意(社公合意)によって、その動きは加速しました。

 その政治状況を背景として、世界的な新自由主義の流れにのった社会福祉制度は、1990年代から2000年代にかけて措置制度を契約制度に転換し、国民に自助・自立を求め、「民間活力」によって公的支出を抑制すべく、「社会福祉基礎構造改革」へと進んでいきました。

 新自由主義とは、経済に対する国家の介入を小さくし(「小さな政府」)、市場の競争による価格の自由な動きに任せ、経営の活性化や効率化を図ろうとする経済理論です。これを、社会福祉の分野にも導入しようとしたのが「社会福祉基礎構造改革」でした。

 そして「官から民へ」を唱えつづける首長が増え、保育所、幼稚園、障害のある子どもの施設など、それまで公営であったものを民営に転換しようとする動きが広がりました。すでに述べた広島市の「こども療育センター」の運営が、「社会福祉事業団」に転換されたことも、こういった動きの一つでした。公立であることを維持しつつも、経営と運営に民間事業者をあてようとする「指定管理者制度」も導入されるようになりました。その選定には、競争入札的な「公募」が行われることもあります。

 保育所、幼稚園、認定こども園、子どもや障害のある人たちの施設は、経営を成り立たせることを目的としたものではなく、それを必要としている子ども、人びとのための権利保障のための施設です。したがって、民営化や指定管理者制度による職員、実践の質、受け入れ態勢、管理者の変化に不安を覚えるのは、なにより子ども、なかまであり、その保護者です。さらには、その園や施設の実践の積み重ねの大切さを知っている卒園者とその家族でしょう。広島市の「こども療育センター」事業団化への反対運動は、この保護者の思いを徹底的に信頼しようとしたからこそ、前だけを向いて歩むことができたのだと思います。


利用契約制度のもたらすもの

 こういった新自由主義的な制度改革は、2003年度からの支援費制度で具体化し、さらに法制化したのが、2006年からの障害者自立支援法でした。連載第2回の冒頭で述べたように、①契約による福祉サービスの利用、②給付費の代理受領と利用者の応益負担、③日額の出来高払い報酬制という「三つ組」が、障害のある子どもの通所支援にも導入されました。障害者自立支援法は、「生存のためには応分の負担を」と障害のある人びとに求めるものであり、その思想の悪辣さゆえに、違憲訴訟を含む大きな運動によって廃止されました。そして、障害のある子どもの通所支援も児童福祉法に戻りました。②の利用者の応益負担は軽減され、後の保育・幼児教育の「無償化」によって3歳児以上の負担はなくなりました。しかし、「三つ組」は廃止されてはいないのです。

 連載第2回で紹介した「障害乳幼児の療育に応益負担を持ち込ませない会」が、結成以来18年間その名称を改めず「三つ組」の廃止を求めつづけているのは、ここに権利保障とは相いれない国の「下心」が、しぶとく貼りついているからです。

 契約制度以前の措置制度にあっては、子どもなどの利用者は措置され、職員は利用者の権利保障のために、行政から措置を委託される立場でした。つまり、どちらも行政による措置を通じて、権利保障のために力をあわせる共同の関係にありました。しかし契約制度は、権利として保障されてきた活動を、「サービス」と名のつく「商品」にしていきました。利用者、保護者は、契約という行為を通じて「商品」を選択し、利用料の多寡はともかくも、買い取る立場になったのです。美味しい料理をつくるために、種まきや水やりから始めて、収穫や調理に至るまで、力をあわせていた関係が、できあがった食べ物をスーパーで選択し、レジでお金を払って買い取るような関係になったということです。品物が商品であるためには、「何」を「どれだけ」という「量」が計られなければなりません。そのために、国は施設への報酬の日額制を取りやめるわけにはいかないのでしょう。

 大きな問題は、療育や地域生活支援を子どもにとってより良いものにしていくために、ともに力をあわせるという「過程」が大切にされず、サービスがニーズにあっているかという「結果」だけが評価されることです。さらに、報酬日額制という困難な条件のもとで経営を成り立たせなければならず、施設管理者は「そろばん」に縛られ、働く人びとは「利用者」のニーズに相応しいサービスを提供することに苦心することになります。

 つまり契約制度によって、それに関わる人びとは「経済的人間」に変化せざるをえず、自ら進んで、この制度にあった自分に変化していくことになるのです。政治と経済のシステムは、じわりじわりと人びとの意識や人格に浸透し、それを変化させていきます。

 児童発達支援、放課後等デイサービスに多くの民間事業者が参入し、そのなかで各種のキャッチコピーを掲げて営利主義の経営をおこなう事業所が増えました。この状況のもとで、療育は契約によって提供されるサービス(商品)であり、その選択は保護者の自由意思によるという認識が一気に広まりました。

 それに抗して私たちは、発達のつまずきや障害はあっても、子どもはていねいな保育や療育のもとで発達していくこと、そのためには保護者も職員も、互いのねがいと思いを語りあい、知恵を出しあい、時間をかけて粘り強く療育を創っていく「過程」を大切にしなければならないことを、研究運動の取り組みを通じて弛まず伝えていかなければなりません。

 「措置から契約へ」をはじめとして、新自由主義的制度改革の問題点をわかりやすく解説してくれるのが、本年度の『みんなのねがい』連載、深谷弘和さんの「福祉現場の今を読み解く」です。職場や地域のサークルで、集団的に学習したいと思います。
 
 こども家庭庁、「はじめに」でお話しした「こども未来戦略方針」についての検討は、8月末に発行される「障害乳幼児の療育に応益負担を持ち込ませない会」の会報に寄稿する予定です。「みんなのねがいWEB」でご案内いたします。
 
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学習参考文献
近藤直子・白石正久編『障害乳幼児の地域療育』全障研出版部、2003年.
『障害者問題研究』第49巻第1号「乳幼児期の発達保障と児童発達支援の課題」全障研出版部、2021年.
『障害者問題研究』第50巻第2号「乳幼児期の療育と発達保障」全障研出版部、2022年.

もう一つの「発達のなかの煌めき」第14回 PDF版
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