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愚かさを知っても信じるに値する―今村翔吾『じんかん』
1.稀代の大悪人か?異端の武将か?
熱い。とにかく熱い。そして言葉の重たいボールが自分にどんどん飛んでくる。
主人公は戦国時代を生きた悪名高き武将・松永久秀だ。彼は3つの悪行をなしたと言われていた。仕えていた三好家の人々を殺し、操り、家を乗っ取った「主家殺し」。当時の将軍・足利義輝を襲撃して暗殺した「将軍殺し」。東大寺大仏殿を焼き払った「大仏殺し」。
しかし最新の学説で否定されている部分もあるし、なぜそのような悪評が後世に伝わったのかもある程度推測されている。この本の今村さんも自身の解釈で松永久秀の真実を物語にしている。
家柄が重要視されている当時の社会では、通常出自が低い者は姓を変えたり、主君からもらうことで体面だけでも保った上で出世していくのが一般的だった。農民から成りあがった豊臣秀吉が、木下から羽柴に姓を変えたのもその一環だ。しかし久秀は違う。ずっと松永のまま、何の体面を整えることなく朝廷など当時の政治の中枢で地位を確立していく。これは異端であった。
秀吉よりも先に己の才覚だけで階段を駆け上がった松永久秀。彼は何者であり、何を目指し、なぜ悪名を背負ったのか。三好家に仕え、その後織田信長に仕えては2度も裏切り壮絶な死を遂げた男の一生がこの作品に詰まっている。
2.「にんげん」と「じんかん」
彼の生き様は「人間(にんげん)を信じ、人間(じんかん)を堪能する」に尽きる。にんげんは「人」のこと、じんかんは「この世」のことだ。にんげんが集まっている世界がじんかんともいえる。
幼少期よりあらゆる生き地獄を味わい世界を呪い続けた久秀は「人はなぜ生き、なぜ死ぬのか」を探し続けていた。その地獄のような社会の元凶である武士を滅ぼし、民の世界を作ろうとする三好元長と出会い、己の人生をその夢にたくす。志なかばで元長が非業の死をとげた後も、久秀は元長にたくされた夢を追い続ける。
自らも武士である元長が、自分を含む武士を滅ぼそうとする理由を語る言葉がいい。心の残る言い回しを残すのが今村さんは上手である。
「子には迷いを捨てて争う修羅の国より、迷いながらも進む人間の国を生きて欲しいと思った」
しかし夢を追う久秀に時折「魔」が襲う。妬み、恨み、裏切り、病など様々な苦難が彼から多くのものを奪っていく。この「魔」が彼と3つの悪行を結び付けていくのだ。
若き日の夢はどんどん遠ざかっていく。それでも彼にはすべてを失ってでも守りたいものがあった。壮大な夢に人生をたくした男が最後に見つけた「本当に大切なもの」とは何だったのか。
信長を裏切った久秀は、信長の密命を帯びた若き使者・又九郎に刀を与えこう語る。
「私には大層な夢などありませぬ。過分でございます」
又九郎は首を横に振った。
「夢に大きいも小さいもない。お主だけの夢を追えばよいのだ」
3.茶の湯とは時の栞
物語の本筋とは少しずれるが、僕がとても印象に残ったのが茶の湯の話である。
元長に会うため堺を訪れた久秀は、元長とゆかりのある武野新五郎の元で暮らすことになる。新五郎が久秀にすすめたのが茶の湯だ。
茶の湯を極めて形にした珠光の教えを新五郎は、次のように解釈している。
茶の湯においてまず忌諱すべきものは、己を驕り誇り、物事に執着する心。功者を嫉み、道に入ったばかりの者を見下す心である。これはもっての外で、本来ならば先達には近づいて一言の教えでも乞い、また初心の者は目をかけ育ててやるべきである。
反対にこの道でもっとも大事なことは、唐物と和物の境を取り払うこと。これを肝に銘じて、用心しなければならない。唐物は外からの考え、和物は己の考えの比喩とも取れる。詰まりは他者の考えを吸収し、そこに己の考えを混ぜ合わせて新たなものを生み出す――新五郎はそう解釈しているという。
「詰まるところ、茶の湯は己に向き合う法とも言える」
茶の湯だけじゃない。読んだ瞬間そう感じた。読書だろうがサッカーだろうが僕らを好むあらゆる数寄において通用する。それに気がついたとき、茶の湯がちょっと興味深くなってきた。
新五郎が堺を離れて京へ出ることになり、久秀と別れの茶会をするシーンでも茶の湯にまつわる名言が出てくる。
「最近、思うのだ。茶の湯は時の葉だとな」
「時の栞」
呟くと、新五郎は深く頷いた。
「無常たる時は頭上を通り過ぎてゆき、人は一生の殆どを忘れる生き物……それを忘れぬよう心に留める栞になるとな」
「そういえば、まだ私が習い始めの頃、茶碗を割ってしまい、武野様が絶叫なさった」
「それよ、それ。会話までは明確に思い出せずとも、笑い、泣き、怒り、楽しかったことは残る。たとえ一期一会だとしてもな」
別にそうでなくとも、誰しも人には忘れ得ない瞬間というものがある。茶の湯はそれを人の手で演出する。九兵衛はそう理解した。
「時の栞」、なんて素敵な表現なのだろう。忘れ得ない瞬間を作るために茶の湯がある。そう考えると僕らにも「茶の湯」たる瞬間があるのではないだろうか。そうも思えてくる。
物語の中に出てくるものに興味を持たせてくれるのも小説の醍醐味だ。間違いなく今の僕は茶の湯に興味津々である。
ちなみに珠光は今の茶道につながる「わび茶」を作った村田珠光、武野新五郎はあらゆる茶人に影響をあたえた武野紹鴎である。彼の弟子には久秀はもちろん、茶の湯にとって最大級に重要な人物がいた。そう、千利休である。
4.人は快楽しか見えていない
今村さんは読者に刺さる言葉をいろんなシーンに残していく。刺さるでは軽いかもしれない。鈍器でなぐられるような感覚だ。本書で彼の言葉が特に力を発揮したのは「人とは何か」という問いである。
物語中盤で元長の敵である細川高国を捕らえて対面する。武士を憎み、人を、民を信じる久秀に対して高国は言う。民が恐ろしいと。そして民のおかけで武士が必要になったのだと。
彼は続ける。なぜ世の9割が民なのに彼らは立ち上がらないのか。立ち上がれば武士は木っ端微塵になるはずなのに。民は支配されることを望んでいるのではないか。
民、すなわち人の本質を彼はさらに突いていく。
「日々の暮らしが楽になるのを望んではいる。しかし、そのために自らが動くのを極めて厭う。それが民というものだ。(中略)」
「(中略)民は自らが生きる五十年のことしか考えていない。その後も脈々と人の営みが続くことなどどうでも良いというのが本音よ」
「このような調子では、やがて人は滅びてもおかしくあるまい。武士というものが現れたのは必然であろう」
久秀にとっては人のために根絶したい武士を、高国は人の本質にあらがい、人を守る役割をすると考えている。敵ながら彼もひとかどの人物なのだ。
ではなぜ支配されることを望む人々が支配者に一揆を起こすのか。これにも高国は一つの答えを出す。
「先ほどの話の逆。つまりそれが百年後の民にいくら有益であろうと、今の暮らしが奪われれば民は怒り狂う…結局のところ、民は皆、快か不快かだけで生きている」
「己を善と思い、悪を叩くことは最大の快楽。たとえ己が直に不利益を被っておらずともな」
いったいいつの時代の話をしているのだろう。いきなり現代に場面転換したのかと思ってしまう言葉だ。人の本質は今も昔も何も変わらない。だからこそ過去を学ぶことに意義がある。そう考えることもできるシーンだ。
この言葉に久秀は追いすがるように反論するも、高国にあっさり切り返される。
「だが悪をたたくならば――」
「世に善悪があると本気で思うか」
キレキレの高国。捕らわれてこの後死が待ち受けている者とは思えない。
久秀と高国の対話は数ページで終わる。高国が姿を見せるのもこのシーンのみだ。たった一回の出番で圧倒的存在感を見せて物語から去っていく。今村さんは現代社会や人の普遍的な愚かさを念頭に置いてこの場面を書いたのではないか。そう思わせるくらい今を生きる人々の心をえぐり突き刺す言葉の数々だ。
人間(にんげん)とは信じるに値する生き物なのか。人間(じんかん)とは生きるに値する世界なのか。それでも久秀は生き続けた。そして僕らも今を生き続けなくてはならない。
「儂や元長のような異質が生まれ、何か一つを残して死んでいく。それは人という生き物の意思なのかもしれない」
「人の意思・・・・・・」
「お主にも何時かその番が回ってくるかもしれぬな。その時にお主は………」
高国はちらりと此方を見て微笑んだ。
「人間(じんかん)に何を残す?」
※「(じんかん)」は分かりやすくするため、つじーが付けたし。
僕らも高国の問いに答えられる日がくるだろうか。
【本と出会ったきっかけ】
「信長の野望・蒼天録」で松永久秀を使っておりずっと好きな武将だった。本屋でたまたま文芸誌に『じんかん』が連載されており一気読み。文芸誌、単行本、文庫のすべてを買ったことになる。
5.参考資料
◎天野忠幸『松永久秀と下剋上』
三好氏や松永氏研究の第一人者によって書かれた。学術的な観点から久秀の実像があぶり出されている。
◎上田秀人『本意に非ず』
久秀が主人公の短編『追慕』が収録されている。
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