見出し画像

この戦争、8月15日でいまだ終わらず―麻田雅文『日ソ戦争』

 8月15日を終戦記念日だと思っている人は多いだろう。でもまだ戦争は終わっていなかった。終わらない夏に起きた、終わらない地獄。戦争は「人間」をむき出しにする。それをこれでもかと突きつける本だ。


1.北海道民が忘れぬ「終わらない夏」

 1945年8月15日。日本では終戦の日とされている。しかし、この日を過ぎても日本にはまだ終わっていない戦争があった。それは比喩でもなんでもなく文字通り戦争が続けられていたのだ。
 8月9日から9月上旬まで行われていた日ソ戦争である。日本に宣戦布告したソ連が満洲、朝鮮、樺太、千島列島に攻め込んだ。

 この戦争は北海道に住む者としては忘れえぬ戦争である。根室のすぐ近くにある北方領土はソ連が千島列島を攻めた際に占領した地域だ。

 僕の幼いころ、近所には樺太関係資料展示室として北海道庁が資料館を施設内に設けていた。北海道出身の友人の祖父は、この戦争のさなか樺太から引き揚げてきた人だったそうだ。

 北海道にとって日ソ戦争とは、他の地域に住む人よりも少し身近な戦争なのである。しかし一般に日本の戦争は8月15日で終わったとされている。そんな「終わらない夏」を日露関係史の専門家である麻田さんが冷静な目線で描写した。

2.プロデューサー・アメリカ、主演・ソ連

 戦いの詳細や民間人の被害、戦後処理など戦争の実態を余すところなく書いている。そこで目を引くのは日本とソ連ではない第三国の動きだ。アメリカである。

 日ソ戦争を少し知っている人は、この戦争はソ連が好き勝手やったイメージが強いだろう。アメリカはその暴走を危惧する側だったとも。ところがソ連の参戦を誰よりも望んでいたのはアメリカだったのだ。

 著者は次のような例えで日ソ戦争におけるアメリカとソ連の関係を説明している。

日ソ戦争を芝居にたとえると、舞台を演出したのはアメリカだ。ソ連は出演を渋る大物役者である。最終的に、莫大な報酬を目当てにソ連は出演を了承する。そして、ひとたび舞台の幕が上がると、演出家そっちのけで暴れ回った。

麻田雅文『日ソ戦争』p251

アメリカはとにかく日本との戦争を終わらせたかった。勝利は間違いない。それにしては犠牲が多すぎる。諦めることを辞書から削除した日本を諦めさせるためには自分たちが戦闘で勝ち続けるだけでは足りない。そのための原爆であり、ソ連参戦だった。

 我々は日本と戦争したソ連がどんなことをしたのかを知っている。樺太や千島列島の占領はもちろん、現地の日本人への暴力や略奪、シベリア抑留などだ。

 それを分かった上で考えると不思議に思えるが、ソ連国民はこの戦争にまったく乗り気ではなかった。やっと憎きドイツとの戦争が終わったのに、何が楽しくて数年中立を保ってきた日本と戦わないといけないのか。このような「無気力」な雰囲気が国民をおおっていた。

 ソ連、もといスターリンがそんな無気力戦争を正当化するために「歴史」を活用した。この手段は決して現代でも色あせていない警戒すべきものだ。

 この戦争のみを切り取れば、日本は一方的に蹂躙された犠牲者である。しかし本書はその目線から書かれがちだった戦争を多面的かつ立体的に描いている。

3.戦争は社会構造をむき出しにする

 戦争の残酷さは戦闘そのものだけではない。人間の嫌な部分、最低な部分が暴き出され行動と結びつくことだ。

 この本の興味深いところは、なぜソ連兵による日本人への暴力(殺害や性暴力も含む)が起きたかを学術的な理論をもとに踏み込んでいることだ。

 戦争犯罪が起きる要因は、普遍的要因・状況的要因・構造的要因に分けられる。

 軍隊の略奪や暴力はあらゆる戦争で生じるし、それを上層部や国家が黙認している。これが普遍的要因だ。日ソ戦争の場合は、ソ連兵の暴走を止める者が誰もおらず日本人が抵抗できないという状況的要因があった。

 最後の構造的要因には、最新の研究に基づいた見解が引用されている。

 最新の研究では、戦時性暴力は過剰な性欲にかられた一部の軍人の行き過ぎた行為とは見なされない。問題は、加害者の属する社会構造にあるとされる。この「性暴力連続体」とい分析概念によると、平時に社会で女性が劣位に置かれているジェンダー秩序が、戦時の女性に対する性暴力につながっている(「戦争と暴力」)。

麻田雅文『日ソ戦争』p141

ソ連(元はロシア)に表向きは隠れていた男尊女卑の社会構造が、戦場における性暴力の頻発という形で噴出したとも考えられる。

 つまり戦争犯罪とは異常者のものではない。ある種の社会構造に浸かっている人間であれば、その構造が噴出する形で戦争犯罪に結びつく可能性があるのだ。

 社会構造が噴出して戦場での行動に現れたのは日本人も同様だ。自分たちを保護してもらうために「接待」と称して女性をソ連兵に差し出す集団もいた。

 特に水商売ともいわれる接客業の女性が接待要員として献上された。男性たちは自分の妻や娘などの女性を守るために別の女性を犠牲にしたともいえるだろう。

 小説家の五木寛之さんは、朝鮮北部から命がけで脱出した。彼らが乗ったトラックがソ連の検問に引っかかったとき、着の身着のままの彼らが真っ先に差し出したのが接客業の女性だった。

 五木さんは彼女らを無理やり引きずり出してトラックから突き落としたり、非国民や水商売などとののしったりこづいたりした姿を間近で見ている。

 ここで書いた日本人の所業の元凶はソ連兵にある。この点ははっきりさせておきたい。その上でこれらの行いは、日本の社会に根付く性差別や職業差別の構造がむき出しになったものといえるだろう。

 僕は日本の近現代史が好きなので戦争に関する本もよく読む。よくスポーツなどで「日本の強みは団結力」だの「チームの絆」だの語られることがあるが、僕は正直恥ずかしくてたまらない。

 日本が誇る「団結力」なんていうのはちょっと平時じゃなくなると脆くも崩れる。また、団結から無意識に振り落としてる人々がいた上での張りぼての団結力だ。

 シベリア抑留の事例を見れば、密告が横行した日本人よりドイツ人の方がよっぽど団結していたといえるのではないか。

 団結することは素晴らしいことだが、世界に向かって己の強みだと誇るようなものではない。戦争と歴史は日本人にその不都合な真実を突きつけてくれる。

【本と出会ったきっかけ】
麻田さんは大好きな学者なので。いわば「推し学者」だろうか。

いいなと思ったら応援しよう!

辻井凌|つじー
本の購入費に使わせていただきます。読書で得た知識や気づきをまたnoteに還元していきます!サポートよろしくお願いいたします。