めんどくさがり屋のひとりごと⑭「わたしたちの失敗」
※かなり長文なので、時折眼を休めながらお読みください。
また、私見が散見しておりますので、気分を害する可能性がございます。
ご注意の上、ご覧ください。
2022年11月23日、ある映画が公開となった。
映画「母性」である。
原作はある母と娘の目線から「母性とは何か」を描いた、湊かなえ11作目の作品であり、その文庫本は2015年の「女性に一番売れた新潮文庫」となったベストセラーである。
映画の感想を語る前に、少しだけ私と湊かなえ作品との出逢いについて書いておきたい。
身の毛のよだつ快楽
私が彼女の小説に出逢ったのは、通っていた高校の図書館だった。
当時、図書委員長としてボケーっと図書館に通うことを常にしていた私は、図書委員長でありながら、図書館の本をあまり借りていなかった。
独占欲のある私にとって、返却期限があって汚すことも出来ない図書館の本は借りるのを躊躇うものだった。
当時から小説は読んでいたものの、自分の手で文庫本を買い、自分の手で管理していた。それは今でも変わらず、「本は自分のお金で買うもの」の基本原理に基づいて行動している。
そんな私が図書館である1冊の本を借りた。
その本の名は、『告白』。
本屋大賞にも輝いた、言わずと知れた湊かなえのデビュー作である。
時は2010年、『告白』が松たか子主演で映画化されることになり、その公開の数ヶ月前のことである。
本屋大賞にも輝いた作品の映画化ということで、何となくあらすじだけは知っていた私は、「試しに読んでみよう」と図書館にあった原作本を借りた。
内容は端折るが、読了した後の私は大きい戦慄きを覚えた。
こんなにゾワッと、そして後味の悪い小説があるのか、と。
それが、私がミステリー小説の沼に足を踏み外して堕ちてゆく、その第一歩となった。
そこから湊かなえ作品にハマった私は、図書委員長の選書特権を行使してその時点での既刊だった『往復書簡』までを購入してもらい、借りて読み漁った。
大学に入ってもその熱は衰えず、それまでの既刊と『花の鎖』以降の作品は全て単行本で買い揃え、そして今に至る。
すべては母の仰せのままに
そんな経緯があり、今回の『母性』の映画化はとても心待ちにしていた。
もちろん、単行本の発売時に購入して読んではいたが、最後に読んでからそれなりに時が経っていたので、詳細は忘れていた。
なので、映画公開に先立って復習として原作を読み返すことにした。
読み返すにつれ、初めて読んだ時に抱いた「消化しづらい違和感」が蘇り、この作品の空気を主演の戸田恵梨香と永野芽郁がどう表現してくれるのかと、予告編から心が躍るのを止められなかった。
そして当日、劇場で鑑賞した直後の私の中に浮かんだのは、血まみれになった女優たちの殴り合いの図だった。
特に、主要4人(戸田恵梨香・永野芽郁・高畑淳子・大地真央)の演技での殴り合いは私の予想を遥かに超えた瞬間を見せてくれた。
物語は、一人の女子高生が自宅の庭先の木で首吊り自殺をしたシーンから始まる。
記者の取材に答えた母親は、「愛能う限り、大切に育ててきた娘が自殺するなんて考えられない」と最愛の娘の死に、言葉を詰まらせた。
その母親の言葉に、ある高校の職員室にいた教師たちは違和感を覚える。
場面は変わり、ある教会の告解室。一人の母親が神父に向かって告解しようとしていた。
「愛能う限り、娘を大切に育ててきました」と自分と娘、そして実母と義母の「二人の母」との関係を語りながら。
戸田恵梨香によって魂を吹き込まれた母・ルミ子から滲み出るのは、抑えきれない「幼稚さ」「嫉妬心」「純粋さ」、そして「気持ち悪さ」。
私は初めて、戸田恵梨香のことを「怖い」「気持ち悪い」と思った。
それほどに、このルミ子の演技が恐ろしかったのだった。
その根源には、ルミ子とその実母との「友達親子」とはまた違った関係性があった。
何をするにしても、ルミ子が第一に考えるのは「お母さんがどう思っているのか」「お母さんが私に何を語ったか」。物事を行う前提条件は、すべて母ありきである。
だから、通っていた絵画教室で「暗くて好きじゃない」と思っていた絵を母が褒めると、「お母さんが褒めているのだから、この絵は良い絵なのだ」と思い、それを描いた田所哲史にも段々好意を抱くようになる。
それに対してルミ子は語る。「母と違う思いを抱くことなど、あってはならない」から、と。
ルミ子と大地真央演じるその実母は、髪型から服装、果ては話し方までが似ている。
「友達親子」ならば、仲が良いけれどもその間にはちゃんと境界線があって、「ここは一緒だけど、ここは自分の色を出す」というオリジナリティがあり、自分と相手の考えを攪拌して自分なりの意思に落とし込むことをする。
けれど、この二人の関係性は「鏡」「操り人形」に近い。
「毒母」という言葉が近年広まっているが、それとも違う。
この実母は、別にルミ子を操ろうだなんてことは思っていない。
「愛する娘のために、出来得る限りの愛を注いであげよう」――ありふれた母としての愛情である。
ただ、その愛情を一身に享受した娘のルミ子は、母の一挙手一投足を「人生の掟」としてしまったように思う。
母がこう言うのだから、こうすることが正しい。
母が嫌がるのなら、これは悪しき事。
すべての物差しは「お母さんが私に何を語ったか」であり、ルミ子はその母の教えを自分がそれまで持っていた考えと攪拌して消化させることをせず、そのまま反映、蓄積させてそっくりそのまま母から言われたことを実行していった。
それは、砒素のように長い期間じっくりと自分の中に蓄積されて自分の身体をじわりじわりと蝕んでゆく。
そして、その毒が噴出する時が来る。自らに子供が生まれたのだ。
「母が認めた男性」である哲史と結婚して、郊外の森の中に建てられた家で夫婦で暮らしながらも、「妻として、未来の母になる者として」母の薫陶を受けることで結婚前よりも母との関係を深めてゆくルミ子の身に起こった、「妊娠」という出来事。
母はもちろん祝福してくれた。母が祝福しているのだから、これは喜ばしいことなのだ。
そうして生まれた娘・清佳は、自分や母の愛情によってとても自慢の娘になった……はずなのに、どうしてそんなことを言うの?
ルミ子は戸惑った。
手芸が得意な母が縫い付けてくれた小鳥が付いた手提げや巾着こそ至高なのに、どうして「キティちゃんのバッグが欲しい」なんてことを言うの?
どうして、私のお母さんを冒瀆するようなことを言うの?
私の……私のお母さんを傷付けないで!
明確に言葉にはしていないが、ルミ子の心境はそれに近いものだっただろう。
それにショックを受けたのを意味するかのように、ルミ子は手に持っていた清佳の弁当を落とす。
私のお母さんの愛情は娘に伝わっていなかった、私の教育は失敗した、と。
その時の戸田恵梨香の失望と憤怒に満ちた表情からは、母親、ひいては大人になり切れていない「幼稚さ」、「どうしてお母さんの愛情が伝わっていないの?」という「純粋さ」が見えた。
それと同時に、母の関心が娘である自分では無くて孫である清佳に向いていることへの「嫉妬心」がそこにはあった。
「私のお母さんなのに、どうしてそんなに仲良くするの?」と。
だから、商店街で親子三代で歩いている時も、手を繋いで歩いている母と娘の間にわざわざ割って入って母と手を繋いだのだった。
だって、この人は「私のお母さん」なのだから。
ルミ子はいつまでも娘のままでいたかった。でも、母親になった。母親になってしまった。そして、自分一番の存在であった母親を独り占め出来なくなってゆき、段々と娘の存在が「愛おしく」と同時に「厭わしく」思えてゆく。それは一つの不幸であった。そして、それが絶妙な気持ち悪さを私に感じさせたのだった。
ベクトル違いの愛情
一方の娘・清佳はそんな母・ルミ子に対して「何をしたら、母は愛してくれるのだろう」と思いながら、成長していった。
先般の「キティちゃんのバッグ」だって、手芸の得意な祖母にキティちゃんの刺繍を縫い付けてほしかっただけなのに、それを「既製品が欲しい」と勘違いした母に自分の弁当を叩きつけられ、挙句の果てに母には憎悪の眼差しを向けられる始末。幼いが故に言葉が足らなかったとは言え、どうしてそんなことをされるのか。ルミ子の心中など分かるわけの無い清佳には意味が分からなかっただろう。なお、清佳の視点から見たその時の母・戸田恵梨香は、軽蔑に近い眼差しを娘に向けていた。
ちなみに、「キティちゃんバッグ事件」はルミ子にとっては清佳の弁当を床に落としてしまったほどに「自分の母の存在を否定された」ショックな出来事であり、清佳にとっては母親に自分の弁当を叩きつけられるほどに「母親の逆鱗に触れた」恐怖の出来事だった。
一つの出来事に対しても、視点が違えば見方、記憶が違う。
この物語では、そんなことがこの後もいくつも続く。
清佳にとっての「人生の掟」は、「母親に愛されること」だった。
何をやっても母からは「愛されている」という気持ちを感じられない。
どうしてだろう。私は母に愛してほしいのに。
そんな清佳の脳裏には、ある台風の日の悲劇が浮かぶ。
両親と暮らしていたあの森の中の家に台風が牙を剝く。
停電が起こるも、父は仕事からまだ帰って来られず、家の中は自分と母、そして祖母の三人。蠟燭で灯りを確保し、清佳は祖母と一緒の布団で床に就いた。
そんな中、落雷で外に生えていた木が折れて清佳たちの寝室の窓を突き破る。そこに箪笥が倒れてくる。死の覚悟をしたものの、横で寝ていた祖母が身を挺して自分を庇ってくれ、代わりに祖母は自分の上で箪笥の下敷きとなる。母が部屋にやって来て、その光景に悲鳴を上げる。そこに加えて、木が家を直撃した影響でマントルピースの上の蝋燭が落下し、リビングは火の海になる。
燃え盛る火の中で次第に清佳の意識は薄れてゆくも、「娘」「母」という言葉だけは聞き取れた。
結果、大好きな祖母はそこで火事の犠牲となり、清佳と両親は父・哲史の実家に移り住むことになった。
そこから10年経ち、清佳は高校生になった。
慣れぬ農作業と姑である祖母に母のルミ子は苦労をしながら、「田所家の嫁」として認めてもらおうと奮闘していた。
清佳はと言うと、学校では諍いを止めるために諍いに割って入って正論を吐くなど、「遊びの無い人間」と言われていた。
それもそうである。「母に愛されるためには、母が喜ぶことをしなければならない。母が『正しい』と思うことをしなければならない」と常日頃から清佳は思っていたのだから。だから、「母の言うことは絶対」であり、「あなたの手は生ぬるくて気持ち悪い」と言われれば、水道で念入りに石鹼で手を洗い、「キティちゃんよりも小鳥で揃えた方が周りの子に小鳥好きと思われるわよ?」と言われれば、祖母にキティちゃんじゃなくて小鳥の刺繡を縫い付けてもらうようにお願いするのだ。
そこに存在しているのは、「どうしたら母に愛してもらえるのか」という正しい答えの無いものに対する「恐怖」だったのかもしれない。
しかし、いつまでも母は自分に愛情を示してくれない。どうしてだろう。
答えはただ一つ。「母の愛が自分に向いていないから」である。
自分のせいで祖母が死んだ。そのことを母は赦していないのだ。
あの時に母にとって正しい行動を取れなかった。だから、あの時私は失敗したのだ。
清佳を演じる永野芽郁の顔からは、沖で顔だけ出してもがいて溺れかけながら、来るかどうかも分からない助けを求める遭難者のような絶望と諦めのような表情が浮かんでいた。
先日公開された映画「マイ・ブロークン・マリコ」でのやさぐれた演技も話題だった永野芽郁だが、この作品でさらに役者としての深みをさらに強くしたように思える。
呼吸は浅く、今にも沈みそうな清佳が、冒頭で教師として登場するまでにどのような道を経てそこにたどり着いたのか、それが結末まで残された謎であった。
俯瞰でモノを視ることが出来る私たちは、ルミ子の愛情のベクトルがいつまでも実母の方に向いていたことを知っている。そして、清佳の愛情のベクトルがルミ子の方へ向いていることも知っている。そして、そのベクトルが双方向になっていなかったことを知っている。いつまでも一方通行。
だからこそ、それぞれの頑張りが虚しさを生む。
互いに「愛する人のために頑張っている」だけなのに。
ルミ子が自らに蓄積していた「毒」は、巡り巡って自分の娘を苦しめていったのだった。
もうひとつの「母娘」の物語
火事によって自宅を追われ、父・哲史の実家に身を寄せることになった田所一家。
そこには姑/祖母である哲史の母と義妹/叔母である哲史の妹である律子が住んでいた。
哲史の実家はかつては豪農だったのだろう、いわゆる旧家。
今までの洋風で洒脱な家とは打って変わって、梁のしっかりした立派な日本家屋である。
ルミ子は姑である哲史の母に散々嫌味を言われながらも、「私の気持ちはお義母さんにもいつか届くはず」と慣れない農作業をこなしながら、そこでの日々を過ごす。
そこに登場する、高畑淳子演じる姑は典型的な「嫁いびり」をする。
味が薄い、食事の品数が少ない、たとえ熱があっても畑仕事を休むな……いわゆる、「家族の一員になったのだから、嫁は家のために尽くせ。私はそうしてこの家の一員になった」という行為である。
今は昔ほどひどくはないとは思うが、家長制度が根深い日本では、「嫁」という存在はとても家の中での地位が低かった。
それは、嫁だけは血の繋がらない「部外者」だった部分があるからのように思う。
その「部外者」が家族の一員になるためには、その家のしきたりを身体に染み込ませる必要がある。
嫁いびりは、その「家族になるための通過儀礼」に近い。
そして、それを行うのが「かつて嫁だった」姑なのである。
個人的な話になるが、私の両親は父が婿養子なので嫁姑問題とは縁遠い生活をしていた。母は三姉妹の末っ子で上の二人が早々と嫁いでしまったので、誰か婿を取って家督を継ぐ必要があった。
私の実家も田んぼと畑をしているので、男手は貴重な存在であったに違いない。その為、特に「部外者」の父と祖父母の間で軋轢を家の中で感じたことは無かった。(物心つく前にはあったかも)
だから、嫁姑問題は私にとっては「テレビの中の出来事」の感覚に近い。
いや、伯母たちに訊けば何かしらあるかもしれないが、聞いたとしても特にここで詳らかにはしない。
話を戻そう。
夫も義妹もそんな嫁いびりをされている「部外者」ルミ子のフォローに走ろうとはしない。ルミ子にとっての味方は母一人だけ。
でも、そんな母はもうこの世にはいない。あの時、私が娘を助けたばかりに。どうして娘なんて助けてしまったのか。
そんな気持ちが、ルミ子の心に駆け巡る。
それでも、「いつか私の想いは届くはず」とひたすらに嫁として働くルミ子。そんな彼女の奮闘をぶち壊しにする存在がいた。
自分がお腹を痛めて産んだ娘・清佳である。
「自分は母に愛されたい。だから、正しいことをしなければ。自分が母の味方にならなければ」――その一心だったのだろう、高校生になった清佳はいつものように嫁いびりに勤しむ祖母に喰って掛かる。
お寺の寄付金なんてバカバカしい。子供のいる前でそんな話しなければいいのに。ママは家のために朝から晩までただ働きなのに、りっちゃんはお小遣いまで貰ってる。ママにも対価としてお給料を払うべきだ。
理にかなった意見である。
それに対して義母は「子供のくせに生意気だ」「文句があるなら出ていけ」と激昂する。
その瞬間、今までのルミ子の苦労は水泡に帰した。
母娘の努力は、また失敗したのだった。
ルミ子は、自室に戻って横になった清佳の身体を、布団の上から拳で殴る。「なんで……なんでなの」と呟きながら。
それは「なんでせっかくの今までの努力をぶち壊したの……」と「なんであなたが助かって、お母さんが死ななきゃならなかったの……」の両方の気持ちが混ざっていたのだろうと思う。
こうして、またルミ子は母の影を追い求め、娘への敵意を見せるのだった。
明確には言及されていないが、ルミ子の生家と婚家は対比関係にあるように思われる。
ホワイトカラーとブルーカラー、ブルジョワジーとプロレタリアート……どちらがどちらかと言うのは、義母がルミ子を「お嬢さま」と揶揄するところから分かる。
ルミ子からは「あの田所の血が混ざっている」と言われ、祖母からは「あのお嬢さまの娘」と言われた清佳は、その対比関係に巻き込まれた被害者にも思える。
田所家が家柄の比較的良い旧家とは言え、明らかに自分たちとは違う匂いを発するルミ子のことは、本能的に嫌いだったのだろう。
そして、その「お嬢さま」の血が流れる孫の清佳のことも、いけ好かない存在だと思っていたに違いない。
それに比べて、自分と血の繋がった娘の律子に対してはとても甘い。
お小遣いはあげるし、律子が仕事を辞めても「私も辞めた方がいいと思っていた」と咎めることもしない。
やはり、「我が子は目に入れても痛くない」ものなのか。
短大出のルミ子をいびる時も、四年制大学を卒業させた律子のことを引き合いに出して「学が無い」と語る。
個人的な感想としては四年制大学を出ても学が無い人は無いのだが、「大学を卒業させるまで私がちゃんと育てた」という旧家の女主人と一人の母親としての誇り、矜持がそこに滲み出る。
一方の律子はというと、義姉のルミ子が自分の母に色々しごかれているのを尻目に、彼女に金の無心をしたり、恋人の黒岩との駆け落ちを画策する。
ここにも、「親の心子知らず」な娘が一人いた。
そんな娘に対して、母は孫(姪)の清佳を監視役にして家から抜け出さないようにした。
しかし、律子は「あなたとあなたのお母さんをここから追い出さないようにするから」と言葉巧みに清佳を唆し、駆け落ちを成功させる。
そうすると、母は悲嘆に暮れる。
そして、約束を守れなかった孫を罵り、その母である嫁を罵る。
ここにも一人、娘に愛が届かなかった母親がいた。
その母親も、また一つ失敗を犯した。
ルミ子の義母を演じる高畑淳子は、現在放送中の朝ドラ「舞いあがれ!」でも長崎・五島列島で女手一つで娘・めぐみ(永作博美)を育て、瀬渡しの船長や自家製ジャムの販売などを通じて孫・舞(福原遥)を温かく見守る祖母(ばんば)・才津祥子を演じている、日本を代表する名優である。
そんな高畑淳子は、この作品でも存在感を遺憾無く発揮させている。
旧家をずっと守ってきた女傑としてのプライドと、愛情を注いだ娘に裏切られた母親としての脆さ、そして終盤での要介護者となって水を口からこぼすほどに年老いた姿は、名優となってもなお作品に爪痕を残してやろうという高畑淳子の隠れた野心に溢れていた。
それを観るだけでも、この作品を観る価値があると思う。
「聖母」はかく生まれつ
そして忘れてならないのが、大地真央演じるルミ子の実母。
愛娘のルミ子を愛能う限り、大切に育ててきたその人である。
母は、ひたすらにルミ子の事を否定しない。
何があっても、ルミ子に対して温かい眼差しを以て、かつルミ子に優しく人としての在り方を語る。
母として、娘には素敵な道を歩いて行ってほしい――とても愛情に満ちた人物として描かれている。
そしてそれは、孫に対しても同じであった。
先般の「キティちゃんバッグ事件」においても、「やっぱりおばあさまの刺繍した小鳥さんのバッグがいい」と最初の要望を翻した孫の清佳の思いに応えようと、自らが刺繍した小鳥が縫い付けられたバッグの中にキティちゃんの筆箱を忍ばせて孫の期待に応えたと共に、「気を遣わせて申し訳ない」と謝る娘に対しては「たった一人の宝物だもの」と、自分の厚意から事を行ったのだとその謝罪に応える。
私も、この母からは「理想の母親」とはこういうものであるのかもしれないという印象を感じ取った。
そんな「理想の母親」は突如としてこの世を去る。
あの台風の夜の犠牲となったのだ。
ルミ子の目線から語った、母の臨終の様子はこうである。
夫はまだ帰宅せず、台風の影響で停電して灯りは蝋燭のみ。
そんな中、母と娘が就寝する寝室から大きな物音が。
何かと思って部屋の扉を開けると、少ししか開かない。
それでも中の様子を窺うと、母と娘が倒れた箪笥の下敷きになっているではないか。
これは助けなければ。母を助けなければ。
そう思って思いっきり手を伸ばそうとする。
しかし、そこで母はルミ子を窘める。
「あなたが助けなきゃならないのは、私じゃないでしょ!」
ルミ子には、母の言っていることが分からなかった。
私の一番大切な人はお母さんなのに。どうしてそんなことを言うのか。
娘の救助を渋って自分を助けようとするルミ子に、母はさらに追い打ちをかける。
「あなたはもう子供じゃない、母親なのよ!お母さんの言うことが分からないの!」
紛れもない事実であり、母の下では娘が助けを待っている。
でも、だけど……。
ルミ子にとっては母が一番であり、子供なんてまた産めばいい。
そんな存在だった。
それでも反抗するルミ子に、母は言葉を遺す。
「お母さんはあなたを産んで幸せだった。今度はあなたが愛能う限り、あの子を育ててあげてね」と。
そうして、母は近くにあった裁ちばさみを己の頸動脈に刺し、自殺した。
その悲嘆に暮れる間もなく、ルミ子は清佳を救い出し、命からがら家から脱出した。
清佳自身は祖母の死の真相をこの後両親の知り合いの口から知らされるまで、圧死または焼死だと思っていた。
けれど、その真相は祖母は自分の命を救うために、自分の命を自らの手で捨てた。
これを「殉死」と言わず、何と呼ぼうか。
きっと、彼女は娘(ルミ子)に親としてのあるべき姿を見せたかったのだと思う。親ならば、自分の身を賭してでも子供と向き合うべき、と。
祖母は最後まで愛に満ちたまま、その生涯に幕を下ろした。
そして、母(ルミ子)はその存在にずっと救いを求めてすがる羽目となり、自分はそれが心の奥底で無意識な負い目となっていくことになる。
こうして彼女は、「聖母」と成り果てたのだった。
そんな彼女が失敗したこと、それは「愛を注ぎ過ぎたこと」だろう。
どんな花も、水をあげ過ぎれば根腐れするし、あまりあげないと枯れてゆく。何事も適度が大切なのだ。
ルミ子は母からの愛情を存分に受け、とても親思いの娘に成長した。
ただ、愛情を真っ当に受けすぎて過度な母親への依存を招いた。
すべてにおいて、母無しではいられなくなってしまった。
これも、一つの不幸だったと思う。
大地真央演じるルミ子の実母が出てくるシーンはそう多くない。
ただ、「ルミ子はどうしてこのような母親となったのか」を語る上では外すことが出来ないほど、その登場シーンでインパクトを遺しては去ってゆく。
「颯爽」という言葉が似合うほどに、その登場は華麗でかつ引き際は潔い。
「そこに愛はあるんか?」と問われたら、私は必ず「あるに決まってるやろ」と答えると思う。
彷徨う父性
この作品は「母性」について描かれている。だから、色んな母親たちの目線から「母性とは何か」を切り取っていて、その形は同じではない。
では、この作品での父親はどうなっているのか。
次はそこを切り取ってゆきたい。
三人の母親が出てくる中で、父親は主に一人。
ルミ子の夫、清佳の父である田所哲史その人である。
ルミ子の父は冒頭から既に他界しており、ルミ子と哲史の馴れ初めの頃にはいた哲史の父は、田所親子が哲史の実家に移った時点で故人となっている。
この作品における、父親の存在感は薄い。
そこにいるのは判るけど、とりわけ何か必要な存在というわけでもない。
それがこの作品における父親の立ち位置である。
哲史は鉄工所に勤めている。勤める時はもちろん作業服である。
出勤する時から既に作業服なので、火事になる前に家族で住んでいた「夢の家」から作業服の人間が出てくるというちぐはぐさは、観る者に異質さを覚えさせる。
まるで、そこにいるべきでは無いような雰囲気を感じさせたのだ。
だからこそ、火事の後に戻った実家の日本家屋と作業着姿の哲史がしっくり来ていた。
元々の家はルミ子の意見を大きく取り入れて建てられたものと思われるので、「作業着」といういかにもブルーカラーの符号のようなものを着た人間が、ホワイトカラーの人間が住んでいそうな建物から出てくるというちぐはくさが生まれたのだろう。
そんな哲史であるが、ある秘密を持っていた。
幼馴染みでルミ子との共通の友人である仁美と半同棲を送っていたのだ。
それも、仁美に貸していたルミ子の実家で。
こっそりと後をつけてその事実を知った清佳は、二人に対して激昂する。
清佳にその事実を知られた二人は、至って冷静に清佳に対する。
離婚はしない、内の世界と外の世界は違う、あなたは厳しい社会を知らない――そんな言葉を清佳に放った。
この事実を知る前、清佳は駆け落ちをした後の律子の部屋で父の日記を見つける。それを開いてみると、父が祖父に暴力を振るわれていて、家では祖父に刃向かわないようにしていたこと、大学では学生運動に身を投じて大きなものと戦っていたことなどが書かれていた。
そこに加え、原作ではルミ子と出会ったことで自分の世界に色が差した、美しい家をルミ子と作りたいとのルミ子に対する恩義にも似たことが書かれていた。
なのに、蓋を開けてみればこの様である。
清佳にとって、父の行ったことは「恩を仇で返す行為」だったのだろう。
ちょうどこの頃、祖母は律子の駆け落ちによってすっかり気落ちしてしまい、母の助け無しでは生活がままならない状況を送っていた。
実の息子である父はそれには一瞥もくれず、別の人間と妻の実家で二重生活を送っている――あまりにも唖然とする事実がそこにはあった。
清佳は父に日記を観たことを伝え、その上で「家では父親に立ち向かえないからその矛先を外に向けただけ。仁美さんといると学生運動をしていたその時の気持ちに戻れるから、自分の家から逃げて美しい家を一緒に作れない仁美さんと一緒にいるのではないか、弱虫」などの言葉を浴びせた。
その時の清佳にとって、父は過去にすがって現実から目をそらす最低な人間のように見えていたのだ。
そこに仁美が反論するように清佳に言い放つ。
あなたとお母さんを観てるのが哲史は辛いのよ、と。
そこにさらに言葉を重ねる。
あなたのおばあさんは、あなたを助けるために自殺したのよ、と。
祖母は自分を庇って亡くなった。それだけだと思ったのに、自ら命を絶った。その事実を知らなかった清佳は激しく動揺する。
私のせいで、大好きなおばあちゃんが、母が自分よりも大切に思っていたおばあちゃんが死んだ。言及はされていないが、「私がおばあちゃんを殺した」感覚に襲われていたのではないだろうか。
そして、そのままかつての祖母の家から去って自分の家に戻り、母と対峙することになる。
父、とりわけ哲史が失敗したのは、「事実と相対する強さを持てなかったこと」だろう。
父親からの暴力、それから逃げるように自分には直接被害が及ばない学生運動に身を投じ、結婚しても嫁姑問題は傍観して何もせず、挙句の果てに幼馴染みとの二重生活を続ける。
どこにも「立ち向かう」という言葉が見えない。ただ、流されるままに自分の現実から逃れたい、そんな日々を彼は送っていた。
もし、仁美と一緒になっていたとしたら、哲史は幸せになっていたのだろうか。
幼い頃から自分のことを知っていて、同じように学生運動に参加して、同じ時代の空気を吸っていて――たとえ「同志」になれたとしても、夫婦にはなれなかったのではないだろうか。
仁美が色を持っているとは限らないし、現実から目を背けるのが常の哲史が同じように別の誰かと二重生活を始めている可能性もある。
つまりは、どちらにしろ哲史は幸せになれなかった、私はそう思う。
母親と違って、父親は痛みを伴って子供の誕生に遭遇するわけじゃない。
また、子供とは苦しみを分かち合った者同士でも無いので、自分の子供のことにおいても、どこか他人事のように思ってしまう部分はあると思う。
母親のように自分のお腹の中に別の生命体が存在していた感覚や痛み、苦しみの記憶が無い分、父親はいつまでも「父親と思われる存在」という推定の存在であり続ける。
だから、父性が母性を上回ることはそう簡単ではない。
いつまでも曖昧な存在である父親は、母親よりも「自分は父親である」と自覚することに時間が掛かるのだと思う。
哲史と仁美の登場時間は短い。
けれど、名バイプレイヤー三浦誠己と中村ゆりによって、何とも無責任な二人の姿を眼にすることが出来る。
二種類の女
祖母の死に関する事実を第三者から語られ、一目散に家に戻る清佳。
その庭先で母・ルミ子と対峙する。
清佳は自分のせいで祖母が自ら死んでしまったことに対する悔恨の気持ちを母に伝える。
ルミ子の脳裏には、「愛能う限り、あの子を育ててあげて」と母から言われたあの日の光景がよぎる。その母の気持ちと母(祖母)を自殺させてしまったことへの娘の懺悔の気持ちに応えようと、ルミ子はそっと清佳に近づき、「愛してる」と言いながらその身体を抱きしめる。
この子を愛してあげなければ、と。
一方の清佳の記憶はこうだ。涙を流しながら母に思いの丈を語って詫び、近付いてきたルミ子に抱きしめられる……かと思っていた。
しかし、母の両手は自分の首に吸い寄せられる。
そして、徐々に力が入っていく。
自分は母に殺される。殺されてもいいくらいのことをしたのだ、しかしここで死ぬわけにはいかない。
力を振り絞って母を突き飛ばす清佳。それでも、何とか詫びなければならない――その夜のことである。
「何やってるんだ!」姑が庭先で声を上げた。
ルミ子が向かうと、庭の枝垂れ桜の下で清佳が横たわっている。
姑によれば、清佳が枝垂れ桜の下で首を吊っていたとのこと。
呆然と立ち尽くすルミ子。そこに発破を掛けるように姑が叫ぶ。
「ボーっと突っ立てるんじゃないよ!肝心な時に怖気づいて、それでも母親か!」
その言葉に、ようやくルミ子は正気を取り戻す。
そして、娘に駆け寄り、叫ぶ。
「清佳!」
子供の名前というのは、親が頭を悩ませて考える、子供への「一番最初の贈り物」と言われることもある。
ただ原作でもそうなのだが、ここになってようやく娘の名前が分かるのである。
それまではずっと、「あの子」とルミ子は言っていて、ずっと娘と向き合うことを避けていたきらいがある。
そこで娘が償いとして母親同様に自殺を図る出来事が起こる。
ここでようやく、ルミ子の母親としての自覚が生まれたのではないだろうか。
結果として、清佳は一命を取り留める。
この出来事を通して、ルミ子は告解室でこう呟いた。
「私が間違えていたのです」と。
ただ、戸田恵梨香の演技を通してそう語るルミ子は、心の奥から「自分が間違えていた」とは思っていないように見えた。
戸田恵梨香が「母性」のパンフレットでそのシーンについてこう語っている。
つまりは、未だに母親に対する呪縛は完全には解けていなかった、ということになる。
だからこそ、体裁だけを整えたような告解に見えたのだった。
「いつまでも、私はお母さんの娘」――変えようのない事実は、ルミ子の中でずっと根を生やしていたのだ。
そして物語の終わり、冒頭であったように高校教師となっていた清佳は、今は地元に戻った律子の営むたこ焼き屋で律子に告げる。
自分も妊娠している、と。
清佳もまた、母になる日が近付いているのだった。
そのたこ焼き屋で、清佳は同僚の教師に語っていたことがある。
「女は二種類に分かれる。母か娘かである」と。
女性がみんな母親になれるわけじゃないし、たとえ母親になれたとしても、みんな最初から母性を持っているわけじゃなくて、子供を育ててゆく中で次第に母性が芽生えてゆく人もいる。
でも、たとえ母親になったとしても、ずっと庇護される立場の誰かの娘でいたくて、無意識に母性を排除してしまう人もいる。
それが清佳の語る「二種類の女性」である。
そして、母がその「娘」の方であったことを、その時点で悟っていたのである。
これが男だと、ずっと母や妻に依存してゆく「永遠の息子」にしかならない。つくづく、男は単純で情けなさの漂う生き物である。
「私は、どっちかな?」
清佳は、律子の店からの帰りの母への電話の後に思う。
それは誰にも判らない。たとえ、産む人間でさえも。
わたしたちの失敗
この作品を通して、「母性とは何か」を考えてみた。
自分の子供を愛する心か、自分の子供を窘める心か、自分の子供と一緒に育ってゆくものか。
その答えは一つじゃない。だから、その形は一つじゃない。
つまりは、誰の答えにも正解も間違いも無いのだと思う。
あるのは、いくつもの一例だけである。
だから、ルミ子と清佳の証言が食い違うのも、「母性」をどう捉えていたかによるためなので、どちらが正しくどちらが誤りかだなんてのは野暮な考えなのだ。
ただ、一つ思ったのは母性とは「先人の失敗の軌跡と継承」だと思った。
どんな母親も、かつて娘だった時代がある。
そして、その母の背中を観て、学んだものがある。
母の教えもあれば、母を反面教師にしたこともある。
そして、その両面を自分の子供の成長に生かして、その子供には自分の失敗をとことん見せてゆく。
「あなたは私のようにはならないようにね」と心のどこかでは思いながら。
この作品に出て来た母親たちは、いくつものしくじりを犯してきた。
そして、そのしくじりは巡り巡って自分の首を絞めることもあったが、結果として娘に何らかの影響を与えることとなった。
それもがすべて、形の違う「母性」だったのだ。
母が時たま実家の猫の写真を送ってくれたり、実家に帰った時に私の好きな料理を作ってくれたり、誤字脱字の多いLINEをしてくるのも、また一つの「母性」の形である。
ただ、その母性を私が自分の形にして、まだ見ぬ自分の娘に受け継いでゆけるか、それはまた別の話である。
それは、今の私には無理なことであるから。
主演の戸田恵梨香、永野芽郁も、脇を固める高畑淳子、大地真央、山下リオ、中村ゆりらのキャストも、最後の主題歌を歌うJUJUも「誰かの娘」。
この作品は「誰かの娘たちによるどこかの母娘に向けての警鐘」でもあるのだ。
最後に映画を観た人に言いたいのは、これを機に原作も読んでほしいという点である。
映画では削られたエピソードもあるし、「これが書けたら、作家を辞めてもいいと思った」と語るほど、湊かなえの筆が走っており、原作の方も映画に劣らないくらい胸のざわめきが激しい。
「あのシーンを、湊かなえはどんな筆致で描いたのか?」それを確かめるのも、また一興である。
この作品の撮影後、戸田恵梨香と永野芽郁はドラマ「ハコヅメ」にて再び合見え、息の合ったやり取りを交わす。あのドラマがヒットした要因の中に、その前からの修羅場を共にした「大いなる助走」があったことが、この作品を観てようやく分かるのである。
そして先日、戸田恵梨香の第一子妊娠が発表された。
戸田恵梨香は果たして、母か娘か。
それは誰にも判らない。たとえ、この作品に携わった本人でさえも。
鑑賞時からここまでの間、私もいくつも失敗を犯した。
・あまりに魅入りすぎて、鑑賞時に買ったポップコーンを一口も食べずに見終わった
・書き始めたら14000字を超えてしまった
・書き終わるまでに1週間以上を費やしてしまった
大きいだけでもこれだけある。
特にこの感想文に関しては、感想文では無くて、もはや論評である。
あまりに愛を注ぎ過ぎると、こんなにしくじることもある。
これからは、愛は適度に注いでゆきたい。
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