
ワーパパ、マイノリティ、人生のパーパス
最近キャリアに関する本を色々読み進めている中で、考えを巡らせた点がいくつかあり、書き出してみる。
ワーママという言葉への葛藤
子育てをしながら働いている女性を指す「ワーママ(ワーキングマザー)」という言葉を使うと、どことなく自分の心の中にざらっとした感覚がある。
それをもう少し嚙み砕いてみると、ワーママという同志を見つけられるポジティブな仲間意識と、自分がワーママという言葉を使うこと自体が女性が働くことへの特別感を醸成しているのではないかというネガティブな違和感が同居しているからだと気付いた。
キャリアウーマン、ワーキングマザー。
働く女性を示す言葉はたくさんできるけど、キャリアマン、ワーパパは聞いたことがない。
それは女性が社会進出していく中で生まれてきた言葉で、その言葉に憧れて女性の社会進出が進むこともあるだろうから一概に否定はできないけど、自分が積極的に使うことにはどこか違和感がぬぐえない。
マイノリティを大切にすることで一気に悪者になる、これまでのマジョリティ
多様性が謳われる時代の中で、マイノリティの人たちが苦しまないようにする制度や考え方が増えてきている。女性もそうだろうし、LGBTQなども。
一方で多様な価値観の変化についていかれない人(女性がトップに立つことは受け入れられない、同性愛を理解できない、など)も一定数いて、そういった人たちはいまや批判される対象になっている。
そういう状況を目にすると私がいつも思うのは、「なぜ”多様性を受け入れられない人”の多様性は受け入れられないのだろう?」ということ。
女性は家庭を守れ!というおじさんにだって、その人が育った時代背景があり、その人が知っている幸せがある。それはそのひと個人で作り上げたものではなく、社会や環境が大きく影響していて、人生の大半を支えてきたその価値観を変えるのは簡単なことではない。不快感や恐怖も伴うだろう。
差別的なことを口に出すことが問題だという観点もあるかもしれないけど、どうしてもまるっとそのおじさん自身を否定するのは、どこか違う気がするのだ。
(その考えに基づくと、じゃあそのおじさんを受け入れられない人の多様性は?じゃあその・・・と堂々巡りになってしまうのだけど)
多様性って言葉は便利であっという間にみんなが使う言葉になったけど、すごく難しい。
たぶん、本当の意味での理解は、誰もできないんじゃないかな。なんて思う。
結局のところ、主体的なキャリアを描く理由って
どのキャリアの本を読んでみても、必ず書いてあるのは「人生の目的、パーパスをもって、なんでも挑戦しなさい」ということ(ちょっと乱暴にまとめすぎかもしれませんが)。
その理由としては、
・時代が多様になる中でこれまでのような敷かれたレールの上を歩く時代が終わるから
・自分の軸や強みがないと市場で生き残れないから
・人生の指針があると様々な場面で選択がしやすくなるから
など、時代の変化やそれが必要な理由を丁寧に説明してくれる。
そういった内容を見ていると、私は「環境の変化についていかれないと絶滅するのが生物としての定めなんだなぁ」なんてしみじみ思ったりする。
「市場価値」って、自分の価値は市場が決めるのか?
やだねぇ。
資本主義社会で生きている限りそれはその通りなのだけど、結局、自分がパーパスをもって生きる意味って何なんだろう?、と自分なりに考えてみると、その方が自分の人生が面白くなりそうだから、だと思った。
自分がやったことで社会の形を少し変えれたり、後世に残るものが作れたら?同じ気持ちをもった仲間と一緒に全力でやれたら?
それって結構面白いな。
愉快なメンバーと全力で本気で遊ぶ旅、わくわくしてきた。
それが、私が自分の人生を主体的にデザインする理由になると思った。
◇
今の時代しか生きたことがないから他の時代がどうなのかは実感としてはわからないけど、今が非常に変化に富むときであることはきっと間違いないんだろう。
こういった自分の考えを発信することで誰かの意識に引っかかって、またその人が違うことを考えて発信して。そういった循環の中で、文化や価値観が生まれていったりするのかな。
変化に富み、自分の意見を自由に発信できる場がある時代に居合わせた幸運に感謝して、ペンを置く。(正しくはパソコンを閉じる。パタン。)