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【東海道】岡崎二十七曲りを歩く① 岡崎IC付近~岡崎宿・南冠木門(寄り道:法光寺)


はじめに

天正十八(1590)年 、家康公の関東移封後、田中吉政公が岡崎城主となり、岡崎城下の整備を進めた

吉政公は特に農地拡大/改革に力を入れたという。
屋敷(おそらく、家康公らと供に関東に赴いた家臣の館か)の塀は壊し、その跡地を開墾し、広く田畑を確保するようにしたと。
その際も家臣にのみ管理監督を任せず、吉政公自身が農地に出て直接指揮や城下を見て廻ったという。弁当を城から取り寄せ、畦道で昼食を……という旨の記載が『新編 岡崎市史 近世3』に見て取れた。

農地改革とともに進めたのが東海道の整備だ。
これは次の岡崎城当主の本多家に引き継がれ、慶長一四(1609)年に『岡崎二十七曲り』と呼ばれる街道になる。
岡崎城・城下町の防衛を強化するために入り組んだ道にしたというわけだ。
(現代も公共交通機関が使い難いのはこのためかーー。というのはほんの冗談だが。しかし、他地方から来た方からは「公共交通機関の利便性が悪い」と聞く。実際にJRと私鉄の駅は離れており不便。これはどこかでその理由を書ければ良いのだが。世界発信は避けたい一面があり)

これからしばらく、その『東海道二十七曲り』と東海道に面する神社仏閣を巡る記事を書いていきたいと思う。

『岡崎二十七曲り』に関する詳細は、以下を参照いただけると幸いだ。

岡崎二十七曲りの概要

大雑把ではあるが、『岡崎二十七曲り』の外郭は以上のとおり
@自作

『二十七曲り』の始点から終点まで、およそ4km強の距離という。


注意事項

岡崎は昭和20(1945)年7月に『岡崎空襲』と呼ばれる大規模な空襲があったため、市街地ほど現存する歴史的建造物が少なくなる。
上記のような歴史的な背景もあるため、再建・改築物が多くなる。
その点はご理解を戴ければ幸いだ。

私も祖母から当時の話を聞いたことがある。
拙宅が建っている場所は古くは農地だったという。戦時中は芋を作り(里芋かサツマイモかは不明)、岡崎空襲以前のことだと思うが頭上を戦闘機(B-29)が飛び、時折、爆弾を落とし何とか生き延びたーー幼い頃にそう聞いた記憶がある。

私事だが、所謂、私はきょうだい児(兄弟が何らかの病気・障害を持つ健常な兄弟、私の場合は上のきょうだいが小児喘息でなにかと親のケアが必要だった、と。手が離せない際は父方or母方の祖母宅に預けられていた)。そのため、当時は「また戦争のはなし……」と思っていたが、今となっては教えてくれた祖母に感謝しかない。

話を戻す。一族にも先祖が遺した古文書などは一切と言っていいだろう、現存しない。

国道1号線・岡崎インター西から旅を始める

『二十七曲り』より700m程度東に松並木がある。
新しく整備された場所だが、東海道の風情が微かに残るところだ。そこから今回の旅を開始する。

位置関係は上記のとおり
赤色の線は東海道出典元:Googleマップ
『岡崎インター西』より東側
(名古屋方面に向かっての構図)

随分と昔。35年近く前か。
交番があり、松の木に野良?のニワトリが複数とまっていた記憶がある。

目の前は1号線
ここだけ時間が止まったかのよう
舗装されていない道のため、昔の東海道にかなり近いと思う
草鞋でこのような道を進むーー
重労働だ
東京方面に向かう1号線(但し、これは歩道)から見える風景
ヤシの木のような木は御愛嬌……
※企業の所有地と面しているのでご注意を

『岡崎インター西』の信号を名古屋方面に渡る。

広い中央分離帯より
青信号でも一度立ち停まってパシャリ
(名古屋方面に向かっての構図)

国道1号線と愛知県道26号岡崎環状線の交差点。
この一画に東海道の名残が垣間見れる。

こちらは舗装された道になっている
(名古屋方面に向かっての構図)

ここをほんの少し進んだ先に以下のような碑がある。

もっと宣伝すれば良いのですがね、岡崎市

現代風も。

こういったエキs(以下自粛
整備したらもっと素敵になると思いますがね
先ほどの場所を少し離れたところから
(東京方面に向かっての構図)

ここを後にします。

しばらく松並木が続く

ここで注釈を入れるが、企業・団体の看板や建物は削除しない。
(問題がある際、権利者の方からご連絡を戴ければ削除いたします)
ただ、個人所有の車・家。
これはプライバシー保護の観点からできる限りボカシか白抜きをする。
その点はご容赦願いたい。

歩道から離れた芝生の上からの景色
(東京方面に向かっての構図)

松並木の隣には小さな川が流れている。
高隆寺町(岡崎市中央総合公園)よりさらに山間から洞町・大平町・欠町・栄町を経て乙川(おとがわ)に合流する乙川の支流だ。

乙川に至る
平常時は浅くもなく、深くもなく

南冠木門に向けて歩みを進める。

北条氏と所縁のある 法光寺

真宗大谷派の法光寺
旧東海道沿いに在る

真宗大谷派 一澤山 法光寺
本山は京都の東本願寺である。石で作られた正門の裏に、享禄5(1532)年当山創立と刻んである。
住職の姓は北條といい、関東北條家の一族が移ってきたとの説が有力で、家紋も北條家と同じ”三つうろこ”。現在は第18代住職。

法光寺の歴史より

私たちの一族、欠村・鈴木家の始祖になる重辰が欠村に来たのが天文八(1539)年。
それ以前は、本多忠真公(洞・欠村の中間に住していたのではないか)、近藤氏、松平新右衛門は以前より欠村に住んでいたことは凡そ正しいであろう。
戦国の世、近隣の部将・住人の心の拠り所だったのではないだろうか。

明治の初めに火災で全焼、それ以前の歴史や記録ははっきりしていない。
東海道沿いにあるため戦前まで無料宿泊所をしていたらしい。
1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で倒壊した鐘楼門は、1992年(平成4年)に復元された

法光寺の歴史より

明治初期の火災は先祖の家も消失している。

どの家からの出火なのか、不審火なのか。そういったものは記録にないが、欠村でかなり多くの家が焼失したと思われる。

本堂
現在、改修工事中のため新しい姿を見られるのは数年先になる
鉢?に”三つうろこ”
北條氏の家紋だ
屋根にも北條氏の家紋あり
再建された鐘撞堂

ここにも北條氏の家紋がある。

法光寺の部分は12/2に加筆した。

ネットへの掲載許可をくださったご住職・坊守様。
改めてご高配を賜り感謝しております。

ちなみに法光寺はインスタグラムをなさっているとのこと。アカウントをお持ちの方はご覧いただければ幸いだ。(埋め込みできなかったため、URL記載)

https://www.instagram.com/houkouji1532/?utm_source=qr

古では東海道を歩く人々の無料宿泊所をなさっていたとのこと(※大東亜戦争前の話だ。ご注意願いたい)。

東海道を歩く、歴史散策をする際は街道沿いだ。寄ってみてはいかがだろうか。

法光寺を後にし、西へと歩みを進める。
すると名古屋方面に向かって右手に常夜灯が在る

旅人を照らす常夜灯
『岡崎二十七曲り』始点のおよそ200mほど東

創建年度が見えるため、私有地に気を付けズームをし以下のとおり。

文化文政か
すぐ横は個人宅(私有地)のためご注意を

常夜灯を過ぎ、歩みを進めると見えてくる。
『岡崎二十七曲り』の始点が。

『岡崎二十七曲り』の始点
説明文があるが、白抜きされておらず非常に読みにくい
非常に興味深い内容なだけに残念だ

まとめ

最近は分からないが、以前は「名鉄本線・男川駅」から歩き『東海道・岡崎二十七曲り』を歩くツアー客をよく見かけた。

国道1号線「岡崎インター西」交差点から岡崎城のある岡崎公園までおよそ2㎞と表示されている。一直線ということもある。
しかし、『二十七曲り』は4㎞強。場所によっては往復せねばならぬ所もある。
まだ巡っていない場所があるが私は3回に分けて歩いている(予定)。

なるべく多くの写真を撮り、関連する史跡や神社仏閣も載せたいと思っている。その際は、注釈や関連性を書く記事を挟むと思う。
しばらくお付き合いを戴ければ幸いだ。



最終改定:R5年12月2日(2回目)法光寺 加筆
※後に読み返した際に変更があれば、改定日を修正いたします

【注意事項】
著作権の観点から、無断引用・転載はお控えください。
引用・転載の際は必ずお声がけください。

参考
『新編 岡崎市史 近世3』

岡崎市役所 HP
https://www.city.okazaki.lg.jp/faq/004/154/p032802.html

更紗川 [8505070032] 矢作川水系 地図 | 国土数値情報河川データセット
Geoshapeリポジトリ - 地理形状データ共有サイト | ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター (CODH)
https://geoshape.ex.nii.ac.jp/river/resource/850507/8505070032/



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