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【読書感想】心の炎症……!?

昨年、興味深い本を読みましたのでご紹介したいと思います。エドワード・ブルモア氏著の『「うつ」は炎症で起きる』という本です(藤井良江訳、草思社文庫、2020年)。

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この本では、うつ病は「身体の炎症」と密接な関係があるとの最新の研究結果が紹介されています。うつ病は従来は心の問題から生じるものだと捉えられてきましたが、身体の炎症がうつ病を引き起こしている可能性があることを本書は指摘しています。

ご自身も医師である(ケンブリッジ大学精神医学科長)著者のブルモア氏がこのことに思い至ったきっかけは、歯医者に行った際の経験でした。
数年前、奥歯の古い詰め物が腐ってそこから感染し、1時間ほどの歯根菅手術を受けることになったときのこと。歯医者の診察椅子に座って口を開けたときまではすこぶる元気であったのに、治療がすべて終わったとたん、誰とも口をききたくないという抑うつ症状が生じた。

《そして、家で1人きりになると眠りにつくまで、気づけば死について暗い思いを巡らせていた》(同書、20頁)

けれども翌朝、目が覚めて仕事に出かけたときには死への思いは消えていたそうです。この不可思議な経験から、ブルモア氏は炎症がうつ病と密接に関係していることを実感として納得するようになったとのことです。


私たちの身体が細菌やウイルスに感染した場合、免疫系に号令がかかり、炎症反応が引き起こされます。ブルモア氏の場合、歯から細菌が入ってすでに炎症反応が起こっていましたが、手術が行われたことにより、免疫系が外部からさらなる攻撃にさらされていると認識(錯覚)し、炎症反応がさらに増大したのだと考えられます。そしてその炎症反応が、ブルモア氏に悲観的な思考や希死念慮などの思わぬ抑うつ症状をもたらしたのです。

ブルモア氏はこれを「心が炎症を起こした状態」と形容しています。《心の炎症》は比喩ではなく、実際に私たちの心と体とで起こっているメカニズムを表す言葉であるとのことです(同書、27頁)。《心の炎症》とは、印象深い表現ですね。
ちなみに、炎症反応は外傷や感染症だけではなく、炎症性疾患や肥満や社会的なストレスによっても引き起こされます(別の本の情報によると、低線量被ばくでも慢性的な炎症反応が引き起こされる可能性があるとのことです。参照:伊藤浩志『復興ストレス 失われゆく被災の言葉』、彩流社、2017年)。

これらの説明は、うつ病は本人の心の問題だとするこれまでの常識を覆すものです。この新しい説は、うつ病を発症したことの罪悪感から私たちを解放し得るものではないでしょうか。必ずしも私たちの心に何か問題があってうつ病が発症するわけではないことになるからです。


ではなぜそもそも、炎症は私たちの心に抑うつ症状をもたらすのでしょうか。著者のブルモア氏は、それがかつて私たち人類にとっては生き延びるのに好都合であったからであり、その祖先の遺伝子を私たちも代々先祖から引き継いでいるからだと説明をしています。

ブルモア氏が具体的に想定しているのは、大昔のサバンナです。およそ15万年前、アフリカの平原で必死に生き残ろうとしていた私たちの祖先にとって、最大の脅威は感染症でした。感染症から身を守るため、細菌やウイルスの攻撃に対して強めに反応する炎症遺伝子が受け継がれることになったのかもしれない、とブルモア氏は述べています。

炎症反応がもたらす食欲不振や抑うつ症状などの生命活動の減退は、見方を変えれば、できる限り体を休めて感染症と集中的に戦っている状態であると受け止めることもできます。また同時に、そのようにして本人が――いわば自主的に――社会的な引きこもり行動をすることが他の構成員と距離を取ること(いわゆる『ソーシャルディスタンス』ですね)につながり、コミュニティーを感染症から守る上でも有効だったのではないか、とのことです(同書、202‐211頁)。
現代の私たちからすると、うつ病を引き起こす遺伝子は一見、生存に不利なもののように思えますが、その遺伝子が発現した当初は、共同体の存続にとって有利なものであったのですね。

本来は私たちの命を感染症から守るために有利なそれら遺伝子が、この度の新型コロナウイルスに関しては「強すぎる」免疫反応を引き起こし、結果、無関係の細胞を攻撃し続けて肺やその他の臓器に深刻な炎症をもたらしている可能性もあるのかもしれません。

以上、『「うつ」は炎症で起きる』の内容をご紹介しました。本書で述べられていることは、新型コロナウイルスによって引き起こされる症状(および後遺症)とも関連しているのではないかと思い、ご紹介いたしました。まだまだ寒い日が続いています。どうぞ皆さまもくれぐれもお身体にはお気を付けください。


※このエッセイは詩誌『十字路 27号』(2020年11月30日発行)に発表した「編集後記」をもとにしています。


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