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だいじょうぶ今を生きているから
熱めに沸かしたお風呂や、ずずずっと音を立ててしまうほどの紅茶がすっかり似合う季節になった。あたたかいお風呂はどうしてこんなにくつろげるのだろう。決して広くはないバスタブの中で、目をつむって湯気の匂いをかぐ。
十一月が終わる。今年もあと少しだね、あっという間だね、が枕詞みたいになる季節がやってくる。
十一月は、半ばから発熱が続いたり、万全な体調でないまま会社の昇進試験があったり、弱っていたから刺激を受けやすかったり、でもひさしぶりに衣装をまとい、歌のプチ本番も二回こなした。眠りたいとさんざん大きなひとりごとを放って、それでもこうして、どうにか生きている。小さな声でありながらもわたしの出したヘルプに対応してくれた方々、ありがとうございます。本当に感謝しています。
☆
実家の建物がどうやら大変らしい。という連絡が母からあった。
母からの連絡は決して多くはないものの、いったんブームのように彼女に「ユウに聞いてもらいたいターン」みたいなものが訪れると、彼女の満足がいくまで連絡が来続ける。着信が積み重なるスマホ画面を開いて、わたしは観念して話をした。
実家の建物が古くなり、不具合が出ている。ここに住めなくなるかもしれない。壊れちゃったらどうしたらいい? ユウはどうしたい? どこに住めばいいの? お金はいくらかかる?
母の口から不安の声が洪水のようにあふれてくるのを、スマホを耳にあてたままただわたしは聞いた。こういうときは聞くしかない。そうなんだね、大変だったね。わたしは押し寄せる洪水の波にのまれないように気をつけながら、誰もがたやすく言えそうな相槌を打った。口から出たそれらの言葉は決して嘘ではない。そうなんだね、と思ったし、大変だったね、とも思った。
どうしたい? と言われても、わたしには返す言葉が出てこないのだった。わたしは実家に帰る予定はないし、あの家に住む予定もない。建物に罪はないけれど、わたしにとってあの家は忌々しい場所だ。楽しかった思い出も、あるにはあるけれど。それを圧倒するかのように、暗くて重くてしんどいガスのようなものが充満している場所なのだった。
母は一方的にしゃべり続けている。そのときわたしは自宅にいて、朝ごはんを食べた後で、そろそろ出勤の準備をしようというタイミングだった。朝の七時過ぎに電話が鳴り始め、無視をし続けていた後だった。少なくとも十回以上の不在着信が残っていて、これは出るまでかかってくるやつだな、と思っていたから、自分のタイミングでこちらからかけた。「自分でかける」ということが重要なのだった。何かを握っている気持ちになれて。
しばらく泣き言が続いた後、話はよくわからない方向へ行き、わたしは母からお金を要求されていた。なぜ? と思いながらわたしはただその理不尽とも思える要求を聞いていた。軽々しく「うん」とか「いいよ」と言ってしまわないようにだけ気をつけて。引き出しからハンカチを出したり今日持ち歩くリップをポーチに詰めたりしながら、あ、母はいまきっと恋人とうまくいっていないんだな、となんとなく思った。不安に思うことやただ聞いてほしいことを話す相手が、気軽なところにいないのだ、きっと。でも、そのことに触れるのはやめておこう。わたしの問題ではないから。
母にもいろいろあるんだろう、と思いながら、でも「うん」とか「いいよ」には気をつけて話を聞く。電話をスピーカーにして、着替えたり化粧をしたりしながら話を聞き続けていたが、話題は、お金の問題をどうにかしろとうっとうしくなってくる。わたしもにこにこと聞いていられなくなり、ついに「B (兄)に言えば?」と言い放った。言った後、あ、と思ったが、それ以上母からのお金の要求を聞き続け、流し続けることも苦痛だった。
わたしがBの名を出すと、母は怒り始め、電話の向こうでわたしの聞きたくない言葉をどんどん放出していた。放出。学校の花壇や畑なんかに水やりをするとき、長いホースで勢いよく水を撒いている情景が思い起こされた。ホースの先をぐいと押しつぶし、水を分散して撒こうとする。水圧は強く、ぐっと指先に力を込めると、水は思ってもいない方向へ飛んでゆく。
母の、Bを擁護するような言葉を聞いているうち、わたしはどんどんかなしくなり、とにかく早く電話を切りたくなり、でもいきなりぷつんと切るという方法を避け、どうにか「じゃあね」と言って電話を切った。やり切れない。どうしてこうなるんだろう。どうしてこういう関係が続くのだろう。離れていても、わたしは見えない母の鎖に足をつながれ、時折こうして、昔の囚人のごとく引きずるような歩みになってしまう。
母にもいろいろあるのだろう。いま発した言葉は本心ではないかもしれない。そうやってわたしはわたしをなだめる。
わたしは泣かなかった。それだけでも偉いと思おう、と思った。
☆
家の話を聞いて、わたしは昔のことを思い出してしまった。
母はわたしを出産した後、わたしを親戚の家に預けた。幼稚園に入る直前くらいまでだったと思う。Bは育てにくい子どもだったのか、大きくなって母から聞いた話では、わたしを預けたのは当時ふたりの子育てをする余裕がなかったからだと言っていた。Bはわたしのふたつ上だ。二歳の子どもと新生児を抱える余裕がなかったのだろう。
いまでもよく覚えている。わたしが三歳くらいだったある日、わたしや祖母や叔母の住んでいる家にある男性がやってきた。その男性はわたしの父だった。父はわたしを車に乗せ、長い時間をかけて見たこともない町へ連れて行った。見たこともない町にある家は、母や父やBの住む、わたしの家と呼ばれるところだった。
わたしは当時父とほぼ面識がなく、車中でとても緊張していたのを覚えている。おやつに梅干をもらい、わたしは車の後部座席でそれを少しずつなめた。
母やBのいる家に着いたわたしは、記憶が曖昧だけれど、家の中に入ることに何か恐怖を感じざるを得なかった。そして、この動物的勘みたいなものは、実によく当たっていたのだった。
わたしはベランダで長い時間を過ごした。ベランダを好んだというよりも、部屋の中にいることが怖かったのだ。父は、仕事の都合だったのだろう、あまり家にはいなかったけれど、いればわかりやすく暴力をふるい、家族を怯えさせていた。わたしも常に怯えていた。母やBが助けてくれたことは、少なくとも記憶になく、それは事実なかったからなのか、わたしがその記憶を抹殺してしまったからなのかはわからない。
父はしばしば包丁をふりかざし、わたしたちを威嚇した。そうか、威嚇か、といま書きながら思う。威嚇。実際の攻撃ではなく、それに似た姿や様子を見せることで対象を脅かすこと。「不慮の事故」のような怪我を負ったことはあれど、包丁で刺されたことはないし、故意に刺そうとしたことはなかったのだろうと思う。おそらく。
ベランダのある住まいから幾度か引っ越し、Bとわたしにそれぞれの部屋が与えられるようになったころ、母はわたしたちにあるものを与えた。「これで自分をまもりなさい」と包丁を渡したのだった。茶色の柄の付いた新品の刃物。わたしはベッドの敷布団の下にその刃物を挟み、眠るようになった。最初、布団の下に、その気味の悪いおまもりのようなものがあることが落ち着かなかった。
同じようにそれを受け取ったBが、日ごろどこに保管していたのかは知らない。ただ、彼はそれを武器として使いこなすようになってしまったのだった。わたしの恐怖が増えただけだった。でも、どうしようもなかった。
このエピソードを思い出しながら、ああ、母はあのとき、こうやってわたしたちをまもるほかなかったのだなあ、と感じる。それを思うとどうしたって複雑な思いになる。当時のわたしは、包丁を渡されたことに対して少なからずの衝撃を受けたものの、言葉にならない感情をひとりで抱いておくしかなかったのだった。その感情は誰とも共有できず、静かにこころの底にうずめた。洗面器を逆さにしてお風呂の底に押し落としていくみたいに、出るな、わたしの感情よ出るな、と力を込めてこころの底にうずめた。
本当はどうしたかった?
敷布団の下の包丁は一度も使わないまま、わたしは大人になった。家を出るときどうしたんだっけ、と思う。そもそもいつまであんなところに挟んでいたのだっけ。いま、どこにあるのだろう。そんなこと、もうすっかり意識に登らないし、忘れていたことだ。
父に対しては、もう会うことはないからか、いまでは穏やかな気持ちになっている。思い出を美化できるほどの余裕は持ち合わせていないけれど、もうすっかり何もかも遠くになってしまった。ときどきこうやって不意に思い出して、誰かの言葉を欲しくなることもあるけれど。それは何かの点検の合図のようにも思える。あのとき本当はどう思っていた? と、わたしに代わって誰かが確かめてくれているような。
母とは、距離が難しい。カウンセリングも含めて、目下整理中といったところだ。Bに対してはよくわからない。まだ「わからない」という言葉で済まそうとしている自分がいるのかもしれない。本当はわかっているのかもしれない。見たくない。まだ埋めていたい。
☆
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みんなの十二月が愉しい気持ちであふれますように。