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仕事からの帰り道、住宅街の一角、とりわけ目を引くイルミネーションを施している家がある。
温もりのあるオレンジなど暖色のみでまとめられていて、イルミネーションという横文字より電飾という言葉が似合うような、何というのだろう、暖炉みたいな揺らめきの見える光なのだ。立ち止まってもう少し見ていたい。いつもそう思いながら、場所の関係上、車窓越しにほんの数秒、それは景色のひとつとして過ぎていく。流れていくその数秒の中に、暖かな炎のつよさや、儚さや、静かなうちにあるエネルギーみたいなものを感じとる。不思議。ただの電飾なのに。どうしてわたしは、あの家の電飾にこうも惹かれるのだろう。あの光たちに魅せられているのだろう。
今年のお正月は子どもたちがみんな帰ってくるから忙しくなりそうなのよね、とか、久しぶりにきょうだいみんな揃うんだよ、姪っ子と初めて会うんだ、とか、時節柄そのような話題を嫌でも耳にするようになった。
わたしにも帰る実家がないわけではないし、家族が誰一人いないわけでもないし、ごはんを食べる友達がいないわけでもないし、寂しくなる要因なんてないじゃないかと、半ば言い聞かせるようにして寂しさに似た気持ちを埋めながら過ごす。いや、違う。ひとりのときに感じる寂しさより、誰かが隣にいるのに感じる寂しさのほうが圧倒的につよくて大きくて手強い。誰かと一緒にいることで、寂しさが埋められるわけではない。次元の違う話なのだ。ひとりだから寂しいわけではない。ひとりだと感じてしまうから寂しいのだ。
思えば昔からそうだったと思う。クリスマスや盆正月はそもそも居心地が悪く、楽しい時間の後に来る虚しさを先取りするかのように非日常にそわそわしていた。本当に楽しめる時間があればまだ良いのだけれど、それすら感じられずに、でも世間の浮かれた空気に合わせるように取り繕う自分がずっといた。
そんなときはもうひとりのわたしと対話するほかなかった。ユウ、あなたにはわたしがいるよ。わたしはユウの気持ちがよくわかる。わたしだけはユウの気持ちをわかってあげられるんだ。だってわたしはあなただもん。だから、大丈夫よ。聞こえるか聞こえないかのその声に耳をすませて、そのまま夜の街を眺める。街中に立っている大きなクリスマスツリーが滲んで見える。落ちてくるんじゃないかというくらいの無数の星の光が降ってくる。
押入れの布団を干して、温かい料理を用意して、日ごろ離れて暮らしている家族を迎えるためのあれこれをしている人たちがいる。そうやって愛を携えてしている小さな努力があって、誰かと誰かの幸せが成り立っているのかもしれないと思う。スポットライトの当たらないような努力かもしれないけれど、もしかするとわたしにはそれが足りないのかもしれない。
今週は少し大きな出来事を予定している。わたしの気持ちはどのくらい揺れるのだろうと思う。
どうか無事でいて、ともうひとりのわたしが声を掛けてくれている。その声が砂糖水みたいにじわじわと染みるのを待っている。意図せずぼろぼろ涙が落ちる。きれいね、まるでカスケードみたい、ともうひとりのわたしが言うのだった。