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「もみじを四枚、それ以外にも紅葉した葉っぱをできるだけたくさん」

すっかりアボカドもうまく切れるようになった。22時15分過ぎ、いつもの時間の帰宅。手洗いとうがいをすませ、コートを脱いでマフラーと腕時計とアクセサリーを外したら、わたしはお風呂のお湯を溜めながら夕食の準備をする。夕食といってもこの時間なので、できるだけ軽いもの。食欲に負けてしまうこともあるけれど。きょうはアボカドがあった。あとは、小松菜とわかめと納豆のお味噌汁。食後にチョコレート食べちゃうかもしれない。冷蔵庫にラミーがある。

種のまわりを回転させるように、くるりとアボカドを切る。ぽっこり現れた種に包丁の角をさし、種を抜く。きょうのアボカドは切ってみるとちょうどよい食べごろで、やさしい形の種はアボカドの油分に助けられてきれいに取れた。

小皿にのせたアボカドをテーブルに置き、お味噌汁の準備をしていたらお風呂の用意ができた。週末をどうにか切り抜けた月曜日。師走×クリスマス前の土日×百貨店=ひと、ひと、ひと。しゃべり声、クリスマス音楽、ありとあらゆるひかり、まるで上気しているひとの気配、買い物の紙袋、靴音、知らないところで混ざり合ったにおい。刺激のかたまり。薄明りの湯舟で目を閉じて、ただ湯気を鼻先に感じるだけのしずかな場所に還る。一日のスイッチを切る。お風呂の時計表示はいつだかの停電から狂っている。

お風呂から上がりテーブルに目をやると、置いていたアボカドの上に花びらが一枚、貼りついていた。カラスコップに差した小さな薔薇の落とし物だった。今月の初めに知人からもらったその薔薇は、そのような品種なのかとげがなく、つるりとした茎は硬く鮮やかな黄緑で、田舎の森に棲む生き物みたいだった。切り花は水だけでこんなに生きるのか。二週間以上、背筋を伸ばしたような佇まいでわたしの部屋を照らしてくれていた。

その薔薇が、ついに散り始めたのだった。いのちの終わりの始まりは、アボカドの上に乗っていた。その光景を目にして、ふいにわたしは秋刀魚に貼りついた紅葉を思い出した。秋刀魚の皮にぎとりと貼りついた紅葉の葉を、箸で器用に取り除く動作も。

落ち葉はテーブルのまんなかにどっさり敷きつめられていた。その上にのった大皿には、オーヴンで焼いたばかりのなすやじゃがいもやズッキーニが盛ってある。それを銘銘、塩やバターで食べるのだ。もみじはさんまの塩焼きに添えてある。
(中略)
ほんとうのことをいうと、私は野趣溢れる食卓があまり好きじゃない。落ち着かないのだ。たぶん父もそうだと思う。あぶらがしみてぎたりとさんまにはりついた、暗紅色のもみじを箸でつまんでよける手つきでそれとわかる。

「流しのしたの骨」(江國香織)

アボカドの上の花びらを見て、わたしはこの小説の、この光景を、なぜだか思い出したのだった。
この本を初めて読んだのはもう十七、八年前になるだろうか。初めて読んでから数年間、おそろしいくらいに何度も読んだ。飽和量に達したのか、この数年は開くこともなかった。引っ越しを重ねても、こうして本は手元に残っているけれど。

この一節を思い出したわたしが、なんだかふしぎだった。変なの、こんなことが鮮やかな記憶みたいになっているなんて。憶えていることも、思い出すことも、自分のなかで起こっていることなのにまるで未知で、こんなことが点で結ばれることがまるで他人の人生みたいだ。まったく、ちっぽけなことなのだけど、まるで見てきたみたいに、わたしが箸で紅葉をよけたみたいに、その貼りついた感触まで「よみがえって」きたかのようだった。ふしぎ。変なの。わたしには、わたしのわからないことばかり。

アボカドに貼りついた花びらを箸でよけ、皿の隅に飾るようにしながらアボカドを食べた。しょうゆとわさびを垂らして、スプーンでアボカドをこそぐ。まったくどんぴしゃの食べごろ。緑色のいのちがわたしのいのちになっていく十二月。足が冷えないうちに眠ろう。

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