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映画「どうすればよかったか?」感想

ナゴヤキネマ・ノイにて。Xで見かけて、これは見たいと直感的に思った。

面倒見がよく、絵がうまくて優秀な8歳ちがいの姉。両親の影響から医師を志し、医学部に進学した彼女がある日突然、事実とは思えないことを叫び出した。統合失調症が疑われたが、医師で研究者でもある父と母はそれを認めず、精神科の受診から姉を遠ざけた。

公式Webサイトから引用

統合失調症のことは、本や映像の中でしか知らないけれど、何だか他人ごとではない気がしている。
というのは、統合失調症を扱った古典的名著として知られるR.D.レイン『引き裂かれた自己 ー 狂気の現象学』を初めて読んだ時、ここに書かれている「統合失調症気質の者」とは、ほとんど私のことではないか、と思ったからだ。すべての病が、誰にとってもそうであるように。

だから正直、見に行くのが怖かった。
実際、膨大な時間のかたまりが投げつけられたスクリーンは、まるごと大きな傷口のようだった。映画館でなければ、苦しくて最後まで観れなかったと思う。人の温度、かすかなざわめき、そして何より時間を共有しているという感覚が、孤独としか言えない暗所へと降りていく命綱になってくれた。

上映が終わって駅まで歩く途中、一人だったけれど、気持ちの整理がつかなくて、いかにもわざとらしい顔になっていた気がする。
すごく疲れているのに、身体中が帯電しているみたいに神経が張りつめていて、足に力が入らなかった。宙にほっぽり出された感覚が気持ちよくもあり、まだ知らない感情があったのか、と嬉しくなったりもした。つまり、興奮と衝撃でちょっと変になっていた。

家庭というものは、あんなにも社会から断絶し、歪んでいけるのか、と思うと、日頃何気なく通り過ぎていた家々の全てが、街を埋め尽くすブラックボックスに見えてくる。

常軌を逸しているのは両親の側であることは誰の目にも明らかで(それぞれの立場や考え方、生きてきた時代背景を慮り、責任の所在は明言できないとしてもなお)、お姉さんは両親が本来向き合うべき傷口を鏡のように開いて見せている気がした。スケープゴート、という単語が脳裏をよぎった。中盤に差し掛かるうちだんたんと、その傷口は私のもののような気がしてきた。弟である監督だけが、自らのものとして傷を開いていた。
いや、傷という言葉では、感傷的な意味が付随しすぎるかもしれない。それは社会に開いた穴であり、裂け目であり、得体の知れない「わからなさ」と言った方が近いだろうか。

しかし、そして。
上記のような理屈を考え、言葉にすることで自分を安心させている私自身の意識のあり方こそ、あの両親の目を疑うような選択の始まりに、遠いところで繋がっていないとは決して言えない。それを忘れてはならないと思っている。物語る、という人に備わった性質は、それが根源的であるからこそ諸刃の剣なのだ。
納得できないままで、今日の鑑賞体験を記憶しておきたいと思う。それがこの映画と向き合う、ということだと思った。
それさえ、自分自身を物語るためのポーズに過ぎないのかもしれないけれど。

それにしても。お父さん、お母さんの心の中はどうなっていたんだろう、と思う。語らない人、語ることを無意識に閉している人の心はいつまでもわからない。




以下は、私の個人的な記録。こういうのも含めて思い出になるから、映画館へ行くっていいものだなあと思った。

名古屋シネマテークだった頃、一度だけ来たことがある。変わらず良い雰囲気。
一階の本屋さんで古本が3冊100円だったので、カフカの短編集2冊とニューヨークにまつわる古いエッセイを買った。
エンドロールを見終わった後、いつも脳内で「よかったら、ここにいる皆さんで感想を話しませんか?お名前を名乗る必要もないですし、連絡先交換もしませんので、お気軽に。行きたいって方は、入り口出たところで集合で。近くのカフェに行きましょう。ではでは、とりあえず外に出ましょうか〜」って妄想を一通りしながら退場するんですが、私だけでしょうか。
上映時刻まで、近くのコメダで過ごした。綺麗な写真じゃなくてごめんなさい(ほんとだよ)
ここは普通のチェーンコメダじゃなくて、個人店?フランチャイズ的な?レトロで個性的な方のコメダ。ホール係の初老の男性の接客が、さりげない気遣いに満ちていて、まさにベテランだった。完璧なタイミングでお水をついでくれて、ちょうどよく放ったらかしてくれて。
家の本棚。しれっと2冊ある『引き裂かれた自己』。
失くしたと思って注文したら、普通に見つかったパターン。

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