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『いつか王子様が』 (中)

↑(上)

 「武治さんで?」と雅のオーナー、皆川に訊かれた瞬間にかれは、「そうだよ」と。続けて、
 「皆川、よく俺のこと見抜けたな。おったまげたよ」
 「そりゃ、『あの』ジャズ黄金期に演奏した伝説の武治だからな!」と大笑いをする。「詳しい話は後でするから、バーでジャズピアノ弾いてくれよ」。皆川は中肉中背。実年齢は50代だが、それ以上にみえる。並大抵ではない苦労をし、修羅場をくぐってきたオーラを放つ。

 「ハッキリ言わせてもらうぞ、武治。今ホームレスなのか?風体から分かるぞ」
 「その通り。出所してから仕事がなくてね」
 「オイオイ!ならすぐこっちにくれば迎えたのに。
 「刑務所に入ったーーというか、『あの事件』で実刑なのは報じられたが、どこのムショか分からなかった。手紙を送ろうとしても送りようがないだろう?それなら出てきた時に顔でも出してくれればさ!」

 と言ったものの、武治はウソと見抜いていた。じつのところ雅に出向いた。しかし1年ほど閉まっていたーーおそらく経営難だろう、と察しがついた。

 皆川の家にも行けはした。しかし、一時的な閉業にまで追い込まれた男のもとに、行く気にはなれなかった。

 自分のいい面だけを見せたがるーー。虚勢を張るのが皆川「らしさ」でもある。嫌悪感を抱くことはなかった。

 人間には欠陥の一つや二つくらいはある。自分もしかり。完璧な人間はかえって恐ろしいのだ。

 「今はさ、昔みたくジャズバーだけじゃ客は来ないワケよ。てことで、女のキャストを集めたよ。そうしたら来るようになって。要するに女目当て。ジャズは二の次なんだよな」
 「時代と需要の変化なのかね」
 「とも言える。ハッキリしているのは本物を求めなくなったってことさ」
 「君のオヤジさんが店を経営していた『あの頃』は本物を追求していたよな。音を外そうものなら殴られたのを思い出すよ」と、武治は、はにかむ。 
 「俺のオヤジなんかはさ、チェット・ベイカーを知っているか客に訊いていただろう?知らなければブン殴ったり、出禁にしたりが当たり前だったよな。あの時代の燃え盛る勢いに比べたら、今なんてジャズは『付属品』。主役が女に替わってさ。悲しけれど、これが現実だ。時代に合わせて動くしかないんだ」
 「寂しい時代になったもんだよな。俺はどれだけ練習したか分からない。とにかくビル・エヴァンスを真似しようと思っていたよ。意識していたのは、オヤジさんにも言われたけれどさ。あんなに繊細なジャズピアニストは他にいないよな」と、武治は自分をビル・エヴァンスに投影させながら語った。ひと呼吸おいて
 「しみったれた話をこんな炎天下で話したら、熱中症でブっ倒れる。とにかく髪を切って、服を整えてから俺の店でゆっくり話そうじゃないか。電話番号だ」と、皆川は言い1万円を渡した。

炎天下。

 「歴史的」猛暑を記録したとされる日。銀座の表通りの横道を少し歩くと、表のまばゆい世界とは異なる、アンダーグラウンドな空気が漂う。

その裏路地にはかつていたーー。
 薬物中毒者、
 社会から疎外された人びと、
 社会を捨てた人びと、
 罪を背負った人びと。

 武治は、銀座の表も裏も見てきた。今いるところは「かつて」自分が嫌悪した場所だ。そこを徘徊する日がくるとは、全く想像もしていなかった。涙が流れた。悔しさとふがいなさからなのかは分からない。とにかく自分が情けなく思えた。

 悲劇のドラマの主人公だとも思えない。ただただ、路地裏をうろつく病人なのだと、不意に自覚した。

「無力だ」

 皆川は帰りの途中、複雑な思いを抱えていた。事実ーー1年ほど店を閉じていたこと、自身が薬物のらん用で捕まったことーーをすべて言えなかった。「見抜かれている」との思いから、冷や汗をかいた。

 季節外れの冷たい汗がつたった矢先のことだった。10代の3人組に、腹部を殴られた。不意打ちだ。

 超少子高齢化が進み今では日本人口の5人に1人が80代。このような時代背景から、若者の暴走が始まったーー「ジジイ狩り」。中年以上がターゲットにされる。殴られた挙句、金品は盗まれる。

 「このヤロウ・・・」と皆川は小声で言い返し、対峙しようとするものの、3人を相手に戦えるはずもなかった。かれが20代のころは血気盛んでケンカに明け暮れる日々だった。負けなしの皆川。この名前が定着しいていた。ところが今では負ける側だ。
 「顔面!」
 「いや、腹だろ?」
 「まあどっちもいけばいいか」
 と、3人の少年たちは笑い飛ばし、皆川に殴りかかろうとした。幸い警察官がそこに駆けつけた。殴られずに済んだことに安堵した。一方で、安堵している自分が惨めで仕方がなかった。

「無力だ」

 武治は髪型も服装も整え、何日、いや何年かぶりの入浴をした。長髪に放っていた悪臭、物乞い特有のオーラは、なくなっていた。自身でも「本来の姿だ」と、驚くほど。古い服は捨てた。きっと別のホームレスが着るだろう。その足で雅に向かっていた。

午前1時。

 営業時間の過ぎた店内で皆川は、1人バーボンを飲んでいた。殴られた腹部をなで「来るワケないよな」と思った。が、着信だ。武治からだ。裏のドアから入るように伝えた。閉店後のバーは暗い。だが、活気が、消え去ったはずの活気が、幽霊のように浮遊している。余熱。

 「悪いな、こんな時間に」と武治は言い中に入った。本題に入るのが先かどうするか皆川は考えていたーー。武治の娘が雅でキャストとして働いていることを。仲の良い2人の間に緊張感が走った。

 「一人酒さ。昔みたく飲むのに付き合ってくれよ。もちろんタダだからな」と言いながら皆川は本題から話すことにした。理由はない。その時の判断だ。
 「恩に着るよ」。バーボンを注いでから、「実はな」と切り出した。

 去っていった客の熱気が徐々に消えてゆく。活気の幽霊たちは姿を潜め始めてきた。


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