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『欲の涙』⑧
【傘がない】
オレは今から三上のところに行く--憎堂一家の組長、三上に。
出たタイミングで、横殴りの雨に当たった。たいして強くないが、風でこちらに当たってくる。
たとえ傘があったとしても意味がないんだろうな。どうせ雨にあたって、傘なんて要らねえってなって棄てるか、先に骨組みがブッ壊れるかのどちらかだろうな。
風が強く吹いている。
雨を運ぶ風が、頬を叩きつける感覚が目を覚まさせる。
突然のことだった。
もと妻、ミサキが、影のように、オレの前に現れた。--「マトモ」な仕事に就けないのかしら?と、怒りをあらわにしながら、オレに言葉のビンタを浴びせる。
幻想だろう?
「つねってみるかな」と、自分の正気を確かめようとした矢先に、ミサキの幻の姿は消え失せていた。その瞬間だけ、別の空間にワープした気がした。
雨が強くなっている。
徐々に、徐々に、「タッタッタ」という雨のテンポが「タタタ」と、破裂音なく、続けて降る。--さきより速く雨がアスファルトに弾かれてゆく。
どこか、心地の良さを覚えてしまうのは、なぜなのだろう?残暑に降る雨は、息が苦しくなるんだ。
それなのに、だ。
今日はなんだか違う。自分の周りについている「アカ」が、雨に流されているなんて、気恥ずかしい思いに囚われたのかもしれない。
きっと、意識の奥では、後ろめたいことに首を突っ込んだと、罪悪を感じているのだろう。
誰に向けてなのか、何に向けてなのか、分からない、罪悪を。
オレは今から三上のところに行く。
中野駅に着いた。これから憎堂一家の組長と雑談するわけではないだろう。三上は話を詰めてくるハズだ。--何か、条件を提示してくるのだろう。疑いの余地はない。
言っただろう?
利害関係ありきで、ヤクザモンとオレらみたいな半端な探偵稼業は、付き合う。
そこでの距離感のつめ方や、相手の求める「見返り」を掴めないヤツから飛んでゆく。「正義」なんて幻想さ。
タバコの煙のように、浮かんでは、消えるのが正義。大気に消えて、有害物質になるだけなんだよ。
正義を軸に据えたヤツほど、自分でブッ壊れちまう。その末路は、筆舌に尽くしがたかったり、知る由がなかったりしり。大体が後者。フタあけりゃ、きっと、想像以上に残酷なんだろうが。
正義に勝るのは器用さだ。
電車内では、大学受験に備えていると思える、高校三年くらいの学生が受験に向けて、英単語を覚えている。
この手の連中を見るたびにツッコみたくなる--。「受験が終わったらさ、今、吸収している英単語をいくつ覚えていると思う?」って。
意地が悪いかもしれない。ただ、自己弁護するなら、オレは学生たちが器用に「学び捨て」られているか、気になるんだ。
時には捨てることも大事だ。
なんでも取っておけばいいってワケじゃない。要領の良さがソイツの人生を左右する気がするんだ。
仕事帰りと思われそうな、サラリーマンが何人かみられる。夕方から夜にかけての時間帯は、電車が空いていたりする。トラブルが起きやすいのもこの時間帯。
一人でブツブツ、話している浮浪者がいる。戦争がなんだとか、前科がどうだとか言っている。浮いているんだけれども、浮いているヤツがいないと、都内が都内でないようにも思えるんだよな。
異常性がこの街から消えたら、それはそれで違和感があって、どこかしっくりこないって言ったらいいのかな。
電車は、目的地の新宿に近づいてゆく。
「誰かオレの代わりにトラブってくれ」
なんて、ダサいコトを考えていたけれど、どのみち自分がトラブルの台風の目の中にいることには変わりない。どうしようもないよな。
不可抗力かもしれないし、厄ネタなのかもしれない。
開けないと中身が分からない、今回のような、のちに複雑化するたぐいの、事件は引き受けてから、いかに損切りをするか--さきの推定・受験生ではないが、器用に「捨てる」ことも大事だ。
100%を得る、それ以上の報酬を皮算用すると、自滅するハメになる。
なんて思いに耽(ふけ)っていたら、目的地の新宿駅に着いた。
歌舞伎町へ進み、TOHOシネマズの方で待ち合わせるのが、三上の「ルール」だ。呼び出しを受けたらコレに従うのみ。
間違える相手には容赦なくヤキを入れる。
【アホくさ!】
「久しぶりじゃないの、カイちゃん。立ち話も喫茶店も目立つし、事務所でいい?風邪ひかないでよ」と三上。身長が低く、くるみ割り人形のように、体のパーツをこぢんまりと、縮小させたような風体だ。
「はい、久しぶりですね三上さん」とオレが言ったものの、意に介さず、
「これで何回目かしらね、カイちゃんが事務所に来んのは」
「5回です」
「正解!」と、高揚した声を上げた。
相も変わらず高い声が、鼓膜を引き裂く。なかなか苦痛なんだ、三上の声を長時間聞くのは。
一度、回数を間違えたことがある。その時は、事務所でボコボコにされたのを覚えている。理不尽な言いがかりだよな。
と、寒い思い出が頭によぎったところで、三上の事務所に着いた。オンボロマンションの3階。中には、装飾品はあるものの質素。窓が開いている。シマ一体が見渡せる高さだ。
そこから眺める、雨の歌舞伎町の一角には、閑散としている。昨日は騒然としていたというのに・・・
「まあ強張った顔しないでさ。昔と変わったね、カイちゃん。チンピラ風情だったのに、今じゃあ箔つけちゃって。それだけ顧客が増えている。だからこそ、演じる数が増えた。前みたく勢いだけじゃぁ、この世界は厳しいわよね」
事務所の薄暗い電気を点け、何かを探るような口調で話を切り出した。
「三上さんのおかげでもあります」
事実、三上には何度か救ってもらったことがある。利害関係で、たまたま相手の「利」になる動きをしただけで、敵対していたら、オレは三上に即座に消されていたに違いない。
「お世辞も上手くなったわね。歳を重ねるって、器用になることを言うのかしらね」
補足する。男だ。とはいえ、この口調。治らないし、治そうと押し付けたところで、返り討ちに遭ってお終いってとこだ。
「悪く言えば、相手を気にするようになったかもしれませんね」とオレが返すと即座に、
「エ?なに?」と大げさに反応し、続けて「良いも悪いもないのよ。事務所に来れば、良いも悪いも全てが黒なんだよね」
「長野の件ですか?」
「正解!」
話が早くなりそうな予感。ジャブを打たれる程度のかすり傷でこの場は去りたい。
三上はオレが話す余地を与えなかった。オレから話すと、詮索してくるハズだ。それなら、三上に会話の主導権を握らせるほうが手っ取り早い。
「長野はもともと、ね。私の顧客なのよ。娘を殺してほしいって依頼。ところが、なにをとち狂ったのか、カイちゃんのところへ捜索を依頼。そうなると、救ったカイちゃんが長野の娘を『生かす』可能性もあるんじゃないかって、疑っていたのよ」
「オイオイオイ!?」唖然とした。
ハナから長野は、憎堂一家に依頼していた。
なのに、だ。
あたかも、頼れるのは「オレだけ」、といった言い草で依頼してきた。三上にとって、ジャマな存在でしかない、オレを。
「カイちゃんがね、『謎解き』を始めた段階で、プッシャーの中島と組んでいた、伊藤は今すぐにでも破門したかったのよ。詳しくは言えないけれど。とある『疑い』があってね。それで、証拠を探したの。結果不十分といったところ。こっちも筋通さないといけないでしょう?言いがかりだけで破門もムリあってね。他の口実で破門しようと思ったのよ」
「中島がかすめ取っていた、北条さんの・・・」
「正解!」
「まさか・・・」
「北条ちゃんにとってもイーブンじゃない。余計なことしてくれて、こちらから破門するって口実ができないのよ。組の末端が、みかじめ料をせしめるなんて、個人で許可なしに行うのは、組として御法度だしね。ましてや、ただの売人と組んで、さ」と言い、ため息をついてから、
「下っ端のヤクザモンがやらかしたじゃない、言っちゃえば。んで、相対する組にそんなこと知られたら面目丸潰れ」.
「ってことは看板を・・・」
「ガタガタウルセェ!」
「アンタもホストモンから情報得られたでしょう?」と、怒りの感情を抑えながら、三上は、唇を振るわせ話した。
スイッチが入っている。今は何を言っても通用しない。全てが筒抜けだ。とにかく、動転した姿を見せず、やり過ごした。訊くことに徹しよう。
「アホくさ!」
【真相】
とどのつまり、オレはホストのオーナー、北条と議員の長野に都合よく使われただけ。それで、出来ごとを面倒にしちまったんだろう、三上からすれば。
「まあ、伊藤をどうにかしてほしいってのは、北条ちゃんから訊いてたのよ。トラブルシュートしてやるって口約束をしたのよね。『アホくさ!』。こちらもこちらで、手が回らないし、中島みたいなハンパなチンピラと、ウチの若いモンが、グルでなんかやっているか探りを入れるってのもダサい。
代紋を汚したくないのよね。んで、カイちゃんが見事片づけてくれたからノーダメージ。カイちゃんにズクが入ったのは、気にしないけれど、アンタがトラブル解決に関与したなんて口が裂けても言うんじゃないわよ」と目を細めた。視線から本気で「殺る」気なのだと、伝わってくる。
「分かりました」と、渋々。
体裁を意識しているワケだ。
長野のもともとの依頼先は、憎堂一家。組の名を汚すことはできない。金以上にメンツを気にするのがヤクザモンの特徴なのかもしれない。
「正直、金額なんてどうでもいいのよ。北条ちゃんからかすめてくるからどうにかしてほしいって依頼受けていたけれど、うちの組の名が廃れるわ。あんなザコ一人に調べたりするなんて」と言い、タバコに火をつけた。
煙を吐きながら、「中島も組から卸しているブツを、勝手に捌いているってウワサだったし。まあ一石二鳥よ。カイちゃんが信頼できる『事件屋』って、関係の組にも共有しとくわよ」とうさんくさいことを言って、話を切り上げようとしているのが丸見えだ。
本題に入るのももうすぐだろう。--長野の件だ。話すために、オレを越させたに違いないだろう?
「極道の世界で駆け出しのころね『待つのも仕事』って言われていたのよ」と、ため息混じりに話す。「ワタシは耐えられない、というか、ムリなの。あー、アホくさ!」と言い終えた段で、タバコを投げ捨てた。火事などお構いなしで、事務所が燃えたらなぜかオレが悪いことになる。
オイオイオイ、いつまでコイツの独壇場に付き合わなきゃいけねえんだよ、「アホくさ!」と言いたくなったが、「待つ」のがオレらの仕事でもある。
耐えるんだ。
「そそ、思い出したのよ」。「今の組をつくったのは自分のシマを持つまでの時間が待てないから。それなら、と自立したわけ」と、何度も訊いた話をし始めた。
外の雨はすっかりと大降りになっている。トー横の若モンたちは、そそくさと、ゲーセンにかけ込んでいる。居場所がポツンと、失われたようで、寂しいような表情をしていた。
「きゃー」とか「わー」とか。賑やかな声を上げている。事務所内は、一触即発。どう出るかで「ヘタを打てば」オレは殺される。
「でね。核心は、なんだったっけ?」
「もしかして・・・」
「あ、そうよ。長野!」とストレートの球を投げ、
「ここに呼んできて」と続けて言った。
封をされていた「秘密」を紐解く時がきたようだ。