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神話/神格化を批判する映画としての『マッドマックス フュリオサ』

思うように体が動かせず、本も読めなければ映画も観られない。おやおや布団から起き上がれもしないぞ、おいおい。抑うつの波に襲われ、当然noteも更新できずにいた数ヶ月。

が、「これだけはどうしても観に行かねば……」と、這うような気で映画館へと向かう。

俺は「怒りのデス・ロード」でマックスが背中に刻まれてしまう刺青を、自分にも彫る程度にマッドマックスシリーズが好きで、人生の支えにしてきたのです。

TOHOシネマズ新宿。きたこれ。

待ちかねたシリーズ新作というだけあって、気分は、宇都宮芳子の名首
映画見る前に感想書く媼「満足」と書き目を閉じて待つ
といったところ……だったが、初観賞後は、あまりのーー前作と真逆といってもいいーーシフトチェンジに、正直困惑した。公開から3週間が経った今も、その印象は拭いきれない。いったい俺は何を見たのか? 俺はこの映画を解釈できているのか? そんなわけで、以下は俺の混乱をほどいていくセルフセラピーめいたフュリオサの感想となる。人生にはセラピーが必要なときがある。

さて。ローマ神話の復讐の女神「Furiae(fury)」、ラテン語で怒れる女性の意味を持つ「Furiosa」が名の下敷きとなっている主人公フュリオサ。彼女の名をタイトルにとり、副題を「(A MAD MAX)SAGA」として銘打ったシリーズ最新作。

いわんや、物語の芯を貫くのは“怒り”と“復讐”となっている。

ただし、今作にはフュリオサの“怒り”を晴らす“復讐”からなる爽快感は露ほどもない。物語の展開に大きく関わってくる“40日”戦争を省略したプロットからも、ジョージ・ミラーの目論見は明らかなように、「フュリオサ」はカタルシス、ヒロイックな感傷が意図的に抑制されている。

なかでも、そうした姿勢が対照的に現れているのは、怒りと復讐の極点を描き得る(一度耳にしたら忘れられない名台詞「……飽きた」がすばらしい)ディメンタスとの決着シークエンス。

「Remember me?」の答えを待たずにイモータン・ジョーを屠った前作とはうってかわって、今作では復讐を果たす相手との素っ頓狂かつ長々とした対話/私的対話がーー現実に起きた/語り継がれたこととしてはーー描かれるのみとなっている。

いったいなぜ、スタイルを大きく変えたのか。

そもそもジョージ・ミラーが作劇のトリートメントを変容させ続けていることはさておき、俺は、神話/神格化の罠についての批判的な態度を汲み取った。

抑制的に進む「フュリオサ」の物語には、聖書や神話からの印象的なイメージが散りばめられている。

少女、赤く熟した果実、そして生涯罰を受ける禁断の行為はもちろん、ディメンタスの手下がガス・タウンを征服する作戦はそのままトロイの木馬だし、遺体を犬に食わせて冒涜するシーンもあからさまだ。「プレトリアン・ジャック」も「インペラトール・フュリオサ」も、ローマ神話から取られたもので、どちらも帝国における名誉と権力の称号である。

そして、それらが「"A" MAD MAX SAGA」(複数の可能世界ーーそもそもの神話という構造ーーが示唆される副題)として、ヒストリーマンのナレーションによって語り継がれる。

身体中に口伝を刻み込んだ老人の歴史の朗読からなる一つの絵巻物である「フュリオサ」は、「怒りのデスロード」にリニアにつながる形で終わりを迎える。しかし、この物語の本当の結末は、フュリオサがシタデルから逃げ出したことではなく、イモータン・ジョーの暗殺、そしてシタデルへの帰還である。

前作の公開から9年が経過し、現実世界では一滴の水とガゾリンを収奪しあうWaste Landよりも、愚かな戦争が起きている。そんな時代において、ジョージ・ミラーが「フュリオサ」において、人間のリーダーを神話化(神格化)させる作劇を避けたというのは考えすぎだろうか。

もちろん映画内で特定の宗教や英雄的人物を批判しているわけではないが、宗教的な物語やテクストがどのように創作され、伝播され、そして、それを求める権力者たちによって悪用されるかについての独自の神話が「フュリオサ」には感じられた。

さらにメタ的に見れば、それはマッドマックスという神話を享受する俺のような観客も包含されているような印象すら受ける。

さて。神話研究者として知られる(そして、きっと「フュリオサ」の感想で方々から引用されているだろう)ジョセフ・キャンベルが言ったように、“昨日の英雄が明日の暴君になる”ことはよくある。

いたたまれない半生を送ったフュリオサが、シタデルを統べるものとなった後、果たして彼女はどうなるのか。

次回作は「怒りのデスロード」につながるマックスの前日譚が構想されていると仄聞したが、俺はフュリオサの後日譚が観たい。蛇足かもしれないが、「フュリオサ」は、そう思わせる魅力、要はジョージ・ミラーが紡ぐ物語を体験し続けたいという気持ちにさせられる画だった。

苦戦する興行収入ゆえ、次回作の製作は確約されていないが、まだ、俺はこのフランチャイズの広がりを見届けていきたい。

少なくともジョージ・ミラーよりは長生きしていたい。

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