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『書く習慣』を読んでみました。
年明け早々、街に繰り出し、ご無沙汰していた図書館にふらりと入りました。
そこで見つけた「書く習慣」。
わたしのアイデンティティと親和性が高いと思って、手に取りました。
著者のいしかわゆきさんは、気づけばnoteをフォローしている人でした。
気になっていることが紐づく時って、
何だか嬉しい気分になります。
なんていうか、
「合ってた!」みたいな気がするんです。
さて、この「書く習慣」
全体から滲み出てくるのは、
著者が、書くことが大好きで、とても大切に思ってるんだなぁー
という感じ。
ご自身でも「話すことが苦手で、書くことに救われてきた、支えられている」と表現されていますが、
この感覚、わたしにも当てはまるなぁと思うのです。
わたしは割と
当たり障りのないコミュニケーションはできる方だと思いますが、
意見を求められたりすると、
瞬時に言葉が浮かんでこなくて、自分では、
口ごもってしまうことが多いように感じています。
でも、書こうとすると、言葉が出てくる。
これは、日頃から「想いを言葉にして書き出している」ことが、自然と練習になっているのだなと、本を読んでいて思いました。
そんなわたしも、
「なんか書けない」と感じることがあります。
パターンはふたつあって、ひとつ目は、
その日のトピックが見つからない感覚です。
本には「なにもなかった」と書くと「なにかした」ことに気づく、とありました。
確かに、書き出すと、特別なことはなくても、思考や感情は動いているし、そのことについては書けちゃうな、と思います。
いいヒントいただきました。
ふたつ目は、心ここに在らずになる時です。
本の中で、「余白がないと好きなものが見つかりにくい」という文章を読んだ時、
なんか書けない時の感覚は、心の余白かも、と感じました。
こうして、自分に当てはめながら読めるのは、
書くことが好きなもの同士だからかな?
なんて、親近感を感じちゃいました。
そういえば、
つい先日、知人との会話の中で、
わたしにとっては、大変ネガティブなことについて話す羽目になったのですが、
その時、相手が「そんなことがあったから、こういうことを考えられる人になれたんですね」と言ったのです。
この本を図書館に返すにあたって、2度目に読んでいた時に、
「発信をすると、別な解釈をつけてもらえることがあって、それは、呪いを解く魔法」
と書いてあって、
「そうそう!それだ!」ってなりました。
1度目に読んだ時には目に止まらなかった文章が、実体験と共に心に入ってきて、
読むタイミングって面白いなと思いました。
もちろん、
「書いてあるものを読む」ということと「対話」の親和性に気づいたし、書くことの奥深さも感じました。
文章を書くのに文才はいらない。
文章は誰にでも書ける。
文章の正解は自分が決める。
必要なのは「書いてみよう」と思う気持ちだけ。
わたしがいつも思っていることを、言語化してもらったようで、うんうんと頷きながら楽しく読了。2025年の1冊目でした♡