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文学とは創作ではなく言葉の編集行為である

 小説にしても詩にしても使われる言葉ってのは全て既知の言葉で歴史的に使われていた言葉だったりします。それは絵画でも音楽でも同じだと言えばまぁそうなんですが、でも文学と決定的に違うのは絵や音楽がオリジナルの赤なりドミソなりを出せるってことなんですよ。絵は絵の具の原料の組み合わせでオリジナルの色を作れるし、音楽だってプレイヤーによって同じ音でも全く違うものか出ます。だけど文学ってのは基本的に活字で読むもんだから、手書きなんかでどんなにカッコよく字を書こうが印刷された言葉は誰が読んでも同じ言葉なわけです。また文学ってのは絵や音楽と違ってどうしても既成の言語を使わなければ書けないものです。今までどんな天才と呼ばれる文学者でもその人オリジナルの言語を作って書いた人は誰一人いません。ドストエフスキーだってジョイスだって言葉は悪いですが借り物の言葉で書いているんですよ。それはドストエフスキーが英語で書いてもジョイスがロシア語で書いても同じです。だから文学ってのは一番オリジナル性に欠けた芸術なんです。それは多分文学というものが言葉に依存せざるをえない宿命なんでしょうね。

 芸術の歴史について詳しくは知りませんが、おそらく美術や音楽は文学より早く出来たものでしょう。絵画や音楽は視覚や聴覚に直接的に訴えるものだからです。我々絵画を見て美しいと思う。音楽を聴いて惹かれる。こういったものは原始的な感覚であるし言葉を介さなくてもわかるものです。しかし文学というのは言葉がある程度歴史を持ち体系化しないととても成立しないものです。つまりそこには国家の誕生が関わってきます。部族が文明化されそこで自分たちの共同体をより進歩的な国家へと発展させる過程で、支配者と民を結びつけるために言葉をまとめ上げ、そして体系化した。つまり言葉の芸時である文学というのはプリミティブなものでは決してなく初めから人工的なものだったと思うのです。私は戯れに美術や音楽を芸術の第一次産業、文学を第二次産業と呼びますが、芸時においても第一次産業こそプリミティブなものであり、第二次産業は既製品の組み合わせなのです。

 先ほど私は文学にオリジナルなしと書きましたが、それはあくまで大まかの話でして文学自体のオリジナルであるかなしかの判定はオリジナルの線引きをどこでするかで変わってくるでしょう。ただ私が言いたいのは文学がいくら真実めいた話を書こうがそれは既成の言葉をうまく並べたものに過ぎないという事です。人間が感動したり驚いたりするパターンってのはある程度決まっていてそのパターンにある程度忠実に従ったものが名作だと言われるわけです。それは音符の並べ替えにも等しい作業ですが、小説などノンフィクションのような作品でさえそのパターンに従っています。もうハッキリと言いますが、文学なんて言葉をどううまく並べるかの作業なんですよ。よく小説家が言葉にできないものを書くとか言いますが、言葉に出来ないものをどうやって言葉であらわすんですか。言葉で表せないんだったら絵や音楽でそのものを表現すればいいじゃないですか。文学っていうのはあくまで制度化された言語をうまく並べて嘘偽りの感情や物語を真実めいたものにするつまらない作業なんです。そして私はそんなつまらない作業をつまらなく思いながらもわりかし楽しくやっているのです。

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