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榊原部長はなぜ昼食をひとりで食べるのか

 今年部長になった榊原さんは何もかもが古い我が社においてきわめて異例の出世を遂げた人だ。彼はこの未だ年功序列と学閥で昇進が決められているこの会社でわずが四十歳で部長になった。だけどこう書いても口さがない人はこう言うだろう。どうせコネかなんかでしょ?お父さんはどっかのお偉方の親族かなんかでしょ?それか政治家か官僚のご子息?残念ながらそんな推測はすべて間違っている。榊原さんはいたって普通の家庭出身で、私たちと同じように普通の一般社員として会社に入ったのだ。だけど榊原さんは入社するなりその才覚を発揮してたちまちのうちに同期や先輩も含めた若手のトップになった。

 榊原さんがこの学閥と年功序列、それプラスの天下りで上席が占められているこの会社で異例の大抜擢を受けたのはやっぱりこの人のずば抜けた能力のおかげだろう。その驚異的な事務能力や交渉術は会社の発展に大貢献した。そうなるとあの旧習に凝り固まった幹部の人たちも榊原さんに然るべき地位を与えなきゃいけなくなる。というわけで榊原さんは年が変わるごとに出世、または栄転しとうとう部長にまでなった。さらには近いうち、いや近いというかすでに再来年か来年には取締役入りという噂もある。

 それほど凄い榊原さんだけど、さっきからいつの間にか部長じゃなくてさん付けで書いているように、とんでもなく親しみやすい人だ。すっごい忙しい身なのに私たちみたいな社員からパートや派遣の皆さんにまて毎日声をかけてくれる。しかも通り一遍の挨拶的なものじゃなくてホントに優しく声をかけてくれるのだ。時折榊原さんは私たちや他の皆さんに向かって何かあったら自分にすぐ相談するように。時間がない時はメールでもいいから会社やオフィスの些細な事でもいいから提案でも批判でも何でもいいから書いてくれと言ってくる。パートのおばさんはたまに本人に向かって「榊原ちゃんアンタが息子だったらよかったのに」なんてタメ口で冗談なんて言うけど榊原さんは怒らずむしろノリノリでじゃあ〇〇さんの息子さんに僕の両親の介護を引き受けてもらおうかなと冗談を言う。

 全く榊原さんは完璧だと思う。それは榊原さんの下についている定年近い牧村課長まで認めている事だ。この牧村課長は下手したら自分の息子ぐらいの歳のこの上司を深く尊敬していて、私たちに向かってこう語った事がある。「榊原さんってさ、なんか大学の尊敬していた先輩がそのまんま歳を取らずに生きているような感じがするんだよな。多分今の僕と同い年になってもあの人は今のあの人のままなんだろう」私たちはそれを聞いて深く頷いた。そしてみんなこう思ったに違いない。私たちは榊原さんの足手纏いにならないように頑張らなきゃって。

 だけどそんなエリートで性格もよく皆から尊敬される完璧超人の榊原さんにもひとつだけ謎の部分がある。それは絶対に私たちと食事を取ろうとしない事だ。

 榊原さんは結婚しているのに一度も奥さまの愛妻弁当を持ってこない。それをふしぎに思ったのかパートのおばさんが不謹慎にも本人に「榊原ちゃん、奥さん弁当作ってくんないの?」なんて質問をした時、榊原さんは笑ってうちは共稼ぎだからと答えた。パートのおばさんはびっくりしてアンタぐらいの年収あったら共稼ぎなんてする必要ないでしょ?」としつこくまた聞きしたけど、それでも榊原さんは笑顔でこう言った。「いや、〇〇さん、これはお金じゃなくて僕と妻のポリシーの問題なんです。互いの意思を尊重して、お互いに自立した夫婦関係を築き上げていこうって結婚を決めた時に誓ったんですよ」私はこの榊原さんのセリフを聞いて目がブックオフとかに置いてある昔のラブコメ漫画のように目がハートマークになってしまった。素敵すぎるやろ榊原さん。惚れてまうやないか!うちと今から不倫せえへん?ホテルなら会社のビルのそばにあるで?なんて下品な関西弁使ってまうやろ!

 おっと話が脱線してしまった。今私が書こうとしているのは榊原さんが私たちと食事に行かないことについてだった。と、いうわけでそれを書くまえに軽く私の自己紹介も軽くしておこう。

 とはいっても別に自分について書くことはない。私は二十四歳の入社二年目のOLで特にファッションやグルメの趣味もない毎日堕落してホゲーっとした毎日を送っている普通?いや普通じゃねえよなって感じのありふれた、いやありふれてねえよなって感じの入社二年目のすでにチヤホヤされなくなったババア入り間近のOLに過ぎない。男性とのお付き合いは大学の終わりに振られて以降全くなしだ。だけど当然そんな現状に満足してるわけはなく、知り合いからの合コンの誘いに……

 やバイ、これ以上自分語りしていたらまた脱線しそうだ。そうだよ。私は榊原さんが何で私たちと食事を取らないかについて書くんだったよ(自分語りはもう終わり!)

 さて本題に戻るか。というわけで私と仲のいい同僚は榊原さんが暇そうな時を見つけて何回か食事に誘った事がある。だけど榊原さんはにっこりしながらいつも断ってくる。それで私たちが榊原さんっていつもお昼何食べてるんですか?なんて聞いてもいつものにっこり顔でそれは秘密だなんて答えが返ってくる。

 たかが食事如きに隠さないで正直に言えばいいのに。やっぱり自分が高級フルコースランチ食べてるのに気が引けて言えないわけ?それとも意外に貧乏くさい汚い定食屋で食べているのを知られたくないわけ?どっちにしてもイメージダウンなんて事にはならないじゃない。榊原さんが高級フルコースランチを食べている姿なんて嫌味どころかイメージ通りだし、貧乏くさい定食屋でも人間臭さがあって却っていい。何でここまで隠す必要があるの。私と同僚と、それとさっき書いたパートのおばさんは三人で昼食を食べている時に、榊原さんが昼食で何を食べているかについてああでもないこうでもないと語り合っていた。

 それで今日も私たちバカOL三人組は休憩時間に廊下で榊原さんの昼食について語っていたのだ。いつもいつも榊原さんの昼食について喋っているのはどうかと思うけど、これは元々榊原さんが秘密にするからいけないのだ。だから私たちはこうしてあれこれ推理せざるを得ない。こんな私たちを多分人はおかしいと思うだろう。だけどそこまで私たちをおかしくさせたのは全部榊原さんなのだ。榊原さんが全て悪い。パートのおばさんはこうして喋っても埒が明かないから榊原さんに近しい人に聞き込まないかと言った時、いつの間にか目の前に立っていた牧村課長が私たちに声を抑えてと注意してきた。パートのおばさんは牧村課長の注意を聞くどころか課長のネクタイを掴んでこちらに引き釣りこんで、あなた榊原さんがお昼にどこに行ってるか知らないかと問い詰めた。哀れな牧村課長は知らないと首を振って答えたが、おばさんはさらにネクタイを締め出して自供させようとした。私と同僚は慌てておばさんから課長を解放したが、私はゲホゲホやっている牧村課長を見て大胆極まる事を思いついた。

「あの、みんなで今日のお昼に榊原さんがどこに行くか尾行しない?もうこれしか解決方法はないよ」

 私がこう言うと同僚とおばさんはその方法があったのかと声を上げた。そして哀れにもまだゲホゲホやっている牧村課長の背中を叩いてアンタもついてくるのよと脅しつけた。牧村課長は私たち三人の圧に恐れをなして同行する事に同意した。


 さてそのお昼がやってきた。榊原さんは手が空いている時は基本的に外に出る。ビルの中にいる事はほとんどないはずだ。これは度々ビルの外で彼に出くわすことから証明されている。私たちは牧村課長にお前もくるんだよボケ的な目配せをして彼を立たせて一緒にエレベーターで一階に降りると近くの壁に隠れてエレベーターで降りてくるであろう榊原さんを待った。

 すると早速エレベーターから榊原さんが出てきた。いつものようにスキのない出立ちだ。私たちは牧村課長を蔑みの目で見て同じ日本人なのにどうしてこんなに違うんだろうとため息をついた。榊原さんは左右を見回してビルの出口へと向かった。よかった。私たちに気づいてないみたいだ。

 榊原さんはビルの外に出るとそのまま通りになる地下鉄の階段へと向かった。私はエレベーターからでも地下鉄の駅に行けるのにと思ったが、よく考えてみたら地下はレストラン街でランチの時間はぎゅうぎゅうづめの地獄でとても駅には辿り着けない。だから榊原さんもわざわざビルの外の地下鉄の階段を使うのだろう。私たち女三人と牧村のジジイの榊原部長昼食調査特務班の四名は、榊原さんが階段を降り切るってタイミングを見計らって駆け足で階段へ向かった。

 階段を忍足で降りた私たちは再び忍足で改札へと向かった。この地下道はありがたいことに一方通行だった。だから榊原さんが電車に乗らない限り彼を見失う事はない。私はキャッツアイの三人姉妹のような足音を立てず改札へと走った。改札に着くと今まさに改札を通っている榊原さんを見つけた。私たちは慌てて改札の手前の壁に隠れて榊原さんも見守った。榊原さんは私たちに気づかずにそのままホームへの階段降りた。それを見た私たちは駅の電光掲示板を見て発車時刻を確認した。よし、まだ上下線共に電車は来ない。全然余裕あるわ!

 私たちは改札を通ると榊原さんに出くわさないよう走って奥にもう一つあった改札を通ってそこの階段を降りた。ホームの両側には何人か人が並んでいる。よし、まだ電車は来ていない。で、榊原さんはどこへ?と探してみたらなんと上りのホームの端っこに立っているではないか。それを見つけたのはパートのおばさんだけど、その時彼女は呆れ顔でこんな事を言った。「そんなに昼飯食べるとこ見られたくないの?まさか食べるとこ見られたくないからじゃないわよね。それか醤油とか生姜とかテーブルに乗ってるものならなんでもぶっかけるとか」

 これを聞いて私はハッとなった。そうか!あの榊原さんが実は食べ方が汚くてそれを私たちに見られたくなかったのか!いや、でもそれでもいいじゃない。榊原さんはやっぱり私たちの榊原さんなんだしってずっと上りのホームの端っこに立っていたらその手前からひょっこり牧村のジジイ現れた。

 ああ!そうだった!私たち榊原さんを追うのに夢中で牧村を連れてることすっかり忘れていた。私たちはボケ爺いみたいにきょろきょろあたりを見回している牧村のジジイに向かって手を大きく振ってこちらに来るように合図した。ああ!早く来いこのジジイ!早くしないと榊原さんに見つかっちゃうだろうが!

「はあはあ、君たちがあんまり駆け足だからついていけなかったよ。もう、なんだってそんなに急ぐんだい?」

 息を切らせてこっちに来た牧村の言葉に私たちはほんとに腹が立った。な〜にが急ぐんだい?だ!のんべんたらりと喋り腐ってからに!榊原さんの秘密を知りたいからに決まってるだろ!お前はボケ切ってそんなことさえわからないの?しかも榊原さんのそばの階段降りてきやがって!ばれたらどうするつもりだったのよ!

 だけどいつまでもこのジジイを責めてる暇はない。上り電車が止まったのだ。私たちは電車に乗り込むと榊原さん忍び足で榊原さんのいる先頭車両の隣まで来た。電車の混み具合は隠れるには丁度よかった。席は所々空いていたけど立っている人たちもいて柱みたいになってくれた。私たちは二両車まで来て先頭車両に座っている榊原さんを目を剥いてガン見した。榊原さんスカスカの席で足を組んで英字新聞らしきものを広げて何か書き込みをしていた。私が榊原さん翻訳でもしてるのかなと同僚に聞くと牧村のジジイがいきなり首を突っ込んできた。

「榊原さん学生時代はアメリカとイギリスに留学していたから英語は完璧なんだよ。時々ああやって英字新聞の文法やスペルの誤りを直してるんだ」

 へっ?じゃあ榊原さんアメリカ人よりもずっと英語力上なわけ?完璧やん!私たち揃って目がハートマークになった時、何故か牧村のジジイが腕を組んで「まぁ、僕もこの間のTOFICで795点取ったんだけどね」とかてめえの自慢話を始めた。私たちがこのうざい牧村を黙らせようと首を絞めようとしたちょうどその時、電車が駅に着いた。私たちは牧村の首の手を放して榊原さんが降りないか注目した。だけど榊原さんは席から立とうともしなかった。

 ええ?じゃあ次の駅ってこと。私たちは目を見合わせて頷き合うと再び榊原さんをガン見した。しかし榊原さんは次の駅になっても席を立たなかった。私はもしかしたら自分たちが壮大な勘違いをしているのかもと思って顔が青くなった。な、なんでもしかしてお昼じゃなくて取引先との用事かなんか?だとしたらこの私たちの計画はまるでアホの極みだ。ああ!と私たちがこっぱずかしさに頭を抱えていた時、再び電車は止まった。すると榊原さんはすぐに立ち上がったではないか。榊原さんは何故かきょろきょろと注意深く周りを見てから足早に降りた。その時一瞬私たちと目が合いそうになったのでビビったけど、どうやら気づかれなかったようだ。私たちは榊原さんに見つからない程度に距離が取れたので素早く降りた。その途中牧村のジジイが落し物がないか確認し始めたが、私たちは自分がないのよとそのネクタイを掴んで無理矢理引き釣りおろした。

 榊原さんは改札をまっすぐ歩いて目の前にある階段を上っていった。私たちはまたキャッツアイのように音を立てずに彼を追った。ああ!気をつけろよ私たち!ここで見つかったらとんでもなく気まずい事になっちまうぜ!だが榊原さんは急に駆け足で階段を登ってしまった。ああ!そんなことされたら見失ってまうやろ!アカンて!なんでそんなに急ぐん?

 私たちは榊原さんの後を追って慌てて階段を駆け上がった。だが外に出たらその榊原さんが完全に消えてしまっていたのだ。私たちは榊原さんがすでに店に入ったかもしれないと周りを見渡して榊原さんが入りそうな店を探したが、残念ながらそんな店はこの表通りにはない。あるのはウチのビルの地下にもあるはなまるうどんやファーストフード店だけ。榊原さんがどんなに庶民派でもこんなもの食わねえってものばかりだ。ああ!どこに消えたの?榊原さんと私たちキャッツアイが嘆いていた時またその存在を忘れていた牧村のジジイがやってきてどっか指差して私たちに言った。

「あの、榊原さん。あそこにいるんだけど……」

 えっどこに?と私たちは一斉に牧村の指し示す方へ向いた。だけどそこにあったのはさっきも見たはなまるうどんだった。私たちは牧村のジジイのこのボケっぷりに本当に頭に来た。おいジジイ!ボケるにはまだ早すぎんだろ!はなまるうどんなんかうちのビルの地下にもあんだろうが!しかもそこには丸亀製麺もあるんだぞ!私たちはお前のそういうしょうもないボケに付き合ってる暇はないんだよ!と私たちはそう牧村を𠮟りつけてやったがそれでもこのジジイは懲りずに尚もはなまるうどんを指さしているじゃないか。

「いや、ほんとにいるんだって並んでるんだからさ」

 牧村がボケから覚めたような真剣なまなざしで繰り返しこう主張したので私たちは半信半疑で外からはなまるうどんを覗いた。したらそこにしっかり榊原さんがいるではないか。今榊原さんが店員からメニューを受け取って奥へと歩いて行った。私たちはもうここまで来たら大丈夫と思って牧村を無視してはなまるうどんの店内に入った。

 私たちが店内に入った時榊原さんは丁度薬味コーナーからうどんを乗せたトレーを持って奥へのテーブルへと向かっていくところだった。私たちバカOL三人はその榊原さんを見て、我らが榊原さんは庶民派だったのだと顔を見合わせて頷いた。はなまるうどんが好きだからって榊原さんのカッコよさは変わらへんがな。むしろかわええで。

 その私たちに向かって店員が声をかけてきた。私たちはハッとして周りをみると行列に並んでいる人たちが冷たい目でこちらを見ていた。私たち三人はハッとしてとりあえずかけうどんを頼んだ。だけど牧村のジジイは何にしようかなとか呟いて腕組んで考え込んでいるではないか。私は頭にきて店員さんに「この人もかけうどんね」と注文してやった。牧村はええっとか言って店員さんに注文を取り消させるそぶりを見せたけど、私たち三人はキッと睨んでジジイを黙らせた。

 私たち三人プラスジジイ一人はかけうどんを受け取ると早速榊原さんの所へと向かった。榊原さんは店の奥の隅の壁際に、しかも周りに見られぬように完全に人のいない壁に相対して座っていた。全くどんだけ人に見られるのが嫌なんだよ。私たち榊原さんがはなまるうどんが好きでも失望なんかしませんから。もし食べ方が汚くても絶対に失望なんかしませんから。むしろ庶民派ポイントが上がって可愛さの十万ポイント還元セールじゃないですか。私たちが榊原さんの後ろに近づいて声をかけようとした時、突然榊原さんはあり得ないぐらい甘い声でこう呟いた。

「うんま〜い。本当にうんま〜い」

 私たちは榊原さんのこの泣きそうな程甘い声を聞いてハートがドラムソロ状態になってしまった。やべえ!榊原超可愛い!あなたこんなに可愛い人だったの?私たち三人はハト胸をときめかせてもうあなたはWANTEDだと無我夢中でうどんを食べている榊原さんを囲った。榊原さん、うどんを食べる事は全然恥ずかしい事じゃないよ。むしろ庶民派高ポイントじゃない。百万ポイント一斉還元セールよ!だから榊原さん……えっ⁉︎

「き、君たちなんでここにいるんだ!びっくりするじゃないか!」

 榊原さんはそう声を高ぶらせながら必死にうどんを隠そうとしていた。だけど隠そうとしてもうどんは隠せるものじゃない。いや、今更隠そうとしても私たちはもう見てしまったのだ。同僚も、パートのおばちゃんも、あと牧村のジジイもみんな青ざめていた。恐らく私もみんなと同じぐらい青ざめていたに違いない。

「もしかしてここまで僕をつけて来たのか?電車に乗っている間ずっと誰かにつけられている感じがしていたんだけど」

 微妙に震える榊原の声が事態の深刻さをあからさまに表していた。私はトレーから滑り落ちぬよう傾きかけたトレーを平行に戻した。

「一体なぜ。牧村さん、あなたまで!」

「いや、私は彼女たちに無理矢理連行されて……」

 この尋問に私たちはどう答えていいかわからなかった。大体一体何を答えればいいのか。榊原さんの目の前にある地球のあらゆる公害が凝縮されたような汚染うどんを見て。すると榊原さんは自嘲気味に笑って言った。

「多分君たちは僕がいつもランチの誘いを断るから、癪に触ってイタズラでもしようとして僕をつけてきたのだろう。だけど逆にびっくりさせちゃったみたいだね。誰だってそりゃ驚くさ。こんなゲテモノうどんを見せられちゃね」

 悲しそうな顔をしてこう語る榊原さんを見て私たちはとんでもなく申し訳ない気分になった。ああ!でも残念なことに榊原さんの言う通りなのよ!あの榊原さんがこんなゲテモノ以下のゲロうどんを食べているとは思わなかった!ああ!見なければよかった!今の私たちは清純派アイドルの排便シーンを見せつけられてるヲタのような気分だわ!ああ榊原さんなんでそんなゲロうどん食べているの?今からでも名誉挽回出来るわ!ほらそのゲロうどん牧村のジジイのかけうどんと交換して!そんなもの牧村のジジイが食べればいいのよ!私たちは牧村のジジイからうどんをもぎ取ろうとしたけど、その時榊原さんが切ない顔で再び話し始めたので手を止めた。

「フッ恥ずかしい所を見せてしまったな。僕は子供の頃からずっとうどんをこうやって食べていてね。でも君たちも見てわかるようにこんなゲテモノ人前で食べられないだろ?当然妻の前じゃ食べられない。彼女はいいところのお嬢さんだからね。それでこうやってコソコソ隠れて食べているのさ」

 そう話す榊原さんはすごく悲しい顔をしていた。それを見て私たち三人も悲しくなった。ああ!なんてことだろう!こんな完璧人間の榊原さんがゲロうどんを食べていたなんて!食事のマナーが汚いなんてどころじゃない!この完璧人間の榊原さんがいい年して鼻くそほじるような、屁をこくような人だったなんて!ああ!私たちはどうすればいいのと思っていたところに牧村のジジイが「いやあ、そんなに気にすることはないんじゃないですか?私だってごはんにソースかけて食べますから」なんて下手な慰めを言い出した。ああ!このバカ!アンタみたいな棺桶に片足突っ込んだジジイと榊原さんを一緒にするんじゃないわよ!榊原さんは私たち女子の憧れなのよ!その人がこんなゲロ塗しうどんなんて食べているのよ!ああ!耐えられない!

「でも」と榊原さんは顔を上げて決然とした顔で話し始めた。

「この天かす生姜醤油全部入りうどんはすっごいうまいんだ。僕の家庭は三食満足に食べられない貧乏人ってわけじゃないけど、でも小遣いも大してもらえなかったからすきっ腹を埋めるためにいつもはなまるうどんで天かすと生姜と醤油をたっぷり振りかけて食べていたのさ。最初はただ空腹を埋めるためだった。だけど食べているうちにこの天かす生姜醤油全部入りうどんがとんでもなく美味しいって事に気づいたんだ。それで僕は友人たちや、それに付き合い始めた頃の妻にも天かす生姜醤油全部入りうどんを勧めたんだ。だけどダメだった。みんな君たちと同じように食べもしないで激しく拒絶したんだ。妻なんか私の前で今度このゲテモノうどん食べたら即別れるからなんて言ったよ。だけどね。この天かす生姜醤油全部入りうどんはホントに美味しいんだよ。妻と一緒に気取って食べるキャビアやフォアグラなんかより全然美味しいんだよ」

 榊原さんは泣きそうだった。私たちはその榊原さんを見て思いっきり心を動かされてしまった。パートのおばちゃんは歓喜に咽んでこう言った。

「ねえ、あなたたち。榊原ちゃんのおススメの天かす生姜醤油全部入りうどん食べましょうよ!イケメンの榊原ちゃんがこんなに泣きそうな顔しておススメするんだから絶対に美味しいはずよ!」

 私と同僚は声をそろえて私たちも食べますを声を上げた。榊原さんはびっくりした顔で私たちを見た。

「き、君たち本当に天かす生姜醤油全部入りうどん食べるのかい?やめておいた方がいいよ。絶対に後悔するから」

「後悔なんてしません!」

 自然とこんな言葉が口から出た。私の言葉に同僚もパートのおばちゃんもうんうんと頷いてくれた。ああ!後悔なんてするものか!だってあの榊原さんが泣きそうな顔で美味しいって言った天かす生姜醤油全部入りうどんだぞ。まずいわけがないじゃないか!

「今から薬味コーナーに行って天かす生姜醤油全部入りうどん作ってきますから作り方教えてください」

 私はこう笑顔でこう聞いた。榊原さん、私たちはあなたのためだったらたとえこのうどんがゲロまずくても美味しいって言うわ!だから早く教えて!

「おいおいうどんごときにそんな真剣にならないでくれよ。天かす生姜醤油全部入りうどんの作り方は簡単だよ。まずうどんの上に天かすを山盛りにかけるんだ。まあ富士山か、エベレストってぐらいにね。それから生姜を大匙一杯ピンポンより一回り小さいぐらいの大きさで掬うんだ。最後は醤油さ。醤油は五回まわしで。なぜ五回まわしがいいかっていうと、まあなんとなくさ。それで出来上がりだよ」

 それを聞いて私たちはうどんを持って薬味コーナーに行こうとしたけど、なんと牧村のジジイが榊原さんの隣に座りだして自分のかけうどんを啜りだしたではないか。なにこのジジイ!私たちが榊原さんのおススメの天かす生姜醤油全部入りうどんを食べようとしているのに、お前ひとりなんでかけうどんそのまま食べてんだよ!ちょっと来い!

「いや、私は年寄りだからこんなゲロ塗しのうどんなんか……」

「ジジイ、それ以上言ったら……」

 この私たちの三人がかりの脅しに牧村のジジイは簡単に屈して涙ながらに私たちの後をついてきた。薬味コーナーでまず私たちは一息入れて目を見合わせた。誰が最初にやる?誰が最初に天かす生姜醤油全部入りうどん作るのよ。私は自分しかいないと思った。私は勇気を出して前に進み出た。そして容器から天かすを出して一気に入れた。それから生姜を大さじ一杯いれて、最後に醤油を五回まわしで振りかけた。ああ!なんて気持ち悪いものだろう。さっきまでかけうどんだったものが、ゲロまみれの代物になってしまった。でもこれは榊原さんの大好物。だから食べなきゃと私は思った。私に続いて同僚もパートのおばさんも私と同じようにうどんに天かすと生姜と醤油を振りかけた。ああ!彼女たちもやっぱり顔をこわばらせていた。私たちは榊原さんのためにもこのゲロ塗しうどんを完食しなきゃと頷き合った。だけど牧村のジジイは私たちが食べようと決意しているそばから「はい終わりましたね」とか言って天かす生姜醤油をかけもせずそのまま榊原さんのいるテーブルへと戻っていこうとするではないか。私たちはあったまにきて牧村からトレーを取り上げて思いっきり天かす生姜醤油をぶっかけてやった。ジジイは涙目で自分のうどんにゲロが塗されていく様を見ていたけど、そんな事私たちの知った事ではなかった。だってこれは榊原さんが美味しいと言っていたうどん。いくら不味くても食べなきゃいけないのよ。

 私たちは泣き顔の牧村のジジイをひっぱたいてそれぞれうどんを持って榊原さんのいるテーブルへと戻った。榊原さんはさっきと同じ場所に座っていたけどどんぶりはもう空だった。ああ!やっぱりあなたはこの天かすと生姜と醤油が塗されたゲロうどんが大好きなのね。私たちも今から食べるわ。私たちは榊原さんに出来立ての天かす生姜醤油全部入りうどんを見せて作ってきましたと全ての闇を隠すぐらいの眩しい笑顔で言った。牧村のジジイも私たちを恐れてかカールのおじさんみたいな笑顔でおんなじように言った。

「ははっ、作ってきたのか。だけど味は保証できないよ。だって今まで僕以外に食べてる人見た事ないからね」

「大丈夫です!」と私は女三人とおまけのジジイを代表して言った。でも全然大丈夫じゃなかった。美味いまずいどころか全部食べられるかどうかの問題だった。食べている最中に本物のゲロを吐いてしまったらどうしよう。牧村のジジイなんか不味さに卒倒してあの世に逝ってしまうかもしれない。ああ!なんか体が震えてきた。私たちは榊原のテーブルの空いている席に座り、牧村のジジイをアンタはそことその隣の誰もいないテーブルに座らせた。

 席に座ってから改めて自分が作った天かす生姜醤油全部入りうどんを眺めた。やっぱりゲロ塗しとしか思えない。天かすの油がアスファルトに撒き散らされたゲロのようにうどんと露に広がっている。ああ!やっぱりダメこんなゲロ塗しうどんなんて食べられないわと顔を見合わせた私たち三人に向かって榊原さんが話しかけてきた。

「別に食べたくないなら無理に食べなくてもいいんだよ。僕が代わりのメニュー奢ってあげるから」

 ああ!もしかして榊原さんは私たちの笑顔の嘘を見破ってしまったのか。でもいくら見破られたとしても嘘は最後まで突き通さなきゃ。私は手を合わせていただきますとフライング気味に言って箸入れから箸を取るとそのままうどんに突っ込んだ。そしてゲロみたいな天かすで覆われたうどんを口の中に入れた。私は口の中にうどんを入れた時正直言って完全にやけっぱちだった。うどんがいくら不味くても恥さえかかなきゃいいと思っていた。せめて笑顔で取り繕ってその場だけは凌げばいいと思っていた。ああ!榊原さんも同僚もパートのおばちゃんも、おまけの牧村のジジイもみんな私を見ている。ダメよ!最後まで笑顔で取り繕わないと!だけど私は込み上げるものに耐えられなくなって思わず叫んだ。

「うまいやん!何やのこれ!天かすはまるで綿菓子みたいにふわふわして口に溶け込むやん!生姜もなんなん?この刺激は赤穂の塩より深いやん!最後に醤油やこれはまるで血液やウチらに流れてる熱い血そのものやん!榊原はんはいつもこんなごっつ美味いもん食ってはるんか?」

 ああ!興奮のあまり関西弁が出てしもたやん!東京では絶対関西弁使わへんて誓ったのに、榊原はんアンタ罪な人やん!こんな美味い天かす生姜醤油全部入りうどん独り占めにしとったなんて!

 私の声に驚いて店内の客がみんなこっちをガン見していた。私は慌てて口を閉じて他の客たちに何度も頭を下げた。私も言葉を聞いて同僚もパートのおばちゃんも恐々とうどんを食べ始めた。すると彼女たちも目を輝かせて美味しいと声を上げた。

「あなたの言うとおりよ!この天かす生姜醤油全部入りうどん美味しいわ!信じられない!こんなゲロ……いや失礼。こんなかけうどんに天かすと生姜と醤油をかけただけのうどんがこんなにも美味しいなんて!」

「ああ!本当に美味しいじゃない!私榊原ちゃんがこんなゲロにしか見えないうどんが好きだって知って幻滅したけど、なんて事なの?やっぱり人もうどんも見かけでは判断できないわね。さすがだわ榊原ちゃん。あなたはやっぱり人を見かけでは判断せずその奥に隠された美点も見ているのね」

 榊原さんは私たちの絶賛に照れ笑いした。

「別に大したもんじゃないですよ。ただ子供の頃からうどんはずっとこうやって食べてきただけで。だけどあなたたちがこうして食べてくれてしかもこんなに褒めてくれるなんて驚いたよ。妻にさえ受け入れられなかったうどんだからね」

 私はその榊原の言葉を聞いて興奮して立ち上がって言った。

「この天かす生姜醤油全部入りうどんは絶対奥様に食べさせるべきですよ。だってこんなにも美味しいじゃないですか。私食べている間まるで天かすの領域展開でうどんの天国に行っているような気分になっていました。離婚をちらつかせてでもこの天かす生姜醤油全部入り食べさせるべきです。そうじゃないと……」

 とここで私は話を止めた。あかんあかんこんなとこで暴走したらあかんで!同僚やパートのおばちゃんは私の言葉を目を潤ませながら聞いていた。

「ありがとう。君の話を聞いて妻に食べてもらおうかなって気分になったよ。でも彼女いいところの人だからいろいろ大変だなあ」

「それでも食べてもらわないと。だって天かす生姜醤油全部入りうどん普通に美味しいじゃないですか」

 私の言葉に他の二人も頷いた。

「ハッハッハ、わかったわかった。妻にはあなたたちが絶対に食べろって脅していたからって言って無理矢理にでも食べてもらうさ。あっ、もう時間だな。もうそろそろ店出なきゃ。あなたたちももう食べたんでしょ?じゃあ今から店出ないと」

 私たちと榊原さんはすでに空になったどんぶりを乗せたトレーを持って立ち上がった。だけど隣のテーブルの牧村のジジイは座ったまんま腕なんか組んでいるではないか。私たちは牧村近づいて声をかけようとしたが、ふとテーブルをみると天かす生姜醤油全部入りうどんがまんま残っているではないか。牧村のジジイはそのうどんを前にして「このゲロうどんを食うべきか食わざるべきか。これはハムレットも悩む人生最大の問題だ。出来ればハムカツを食べたかったのに」とか訳のわからないことを呟いていた。

 私たち三人は一斉に牧村のジジイを指差して叫んだ。

「考えている暇があったらさっさと天かす生姜醤油全部入りうどん食べろ!」


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