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《妄想実録風小説》サッポロ一番感動物語 サッポロ一番を作った男の涙の一代記! 中編:絶望の中で出会った女
青年にはラーメン屋のオヤジの死を受け入れる事は出来なかった。自分の命を救ったあの札付の『さっぽろらーめん壱番』のオヤジが死ぬはずがない。きっと来月には冗談だったと麺とつゆの素を送ってくれるはずだと信じ込もうとした。だがその望みは叶うはずもなかった。翌月もそのまた翌月もオヤジからラーメンは送られてこなかった。だがそれでもオヤジの死を信じられない青年はオヤジの住所に何度も手紙を送りつけた。だが出した手紙は全て宛先不明で帰ってくるだけだった。青年はオヤジのラーメンへの飢えのせいで禁断症状まで出てきてしまった。彼にとってオヤジの死よりもオヤジの作った味噌ラーメンが二度と食べられない辛さの方が遥かに上だった。味噌ラーメンを食べられない悲しみは彼の心を大便のように真っ黒にした。
オヤジとオヤジが作っていた味噌ラーメンを失った喪失感を埋めるために青年はやけ食いならぬラーメンのやけ食べ歩きをしまくるようになった。だがいくらやけ食べ歩きをしまくっても、東京というこのコンクリートの大都会では彼の孤独と腹を満足させるラーメンなどあるはずがなかった。温かみのない工業油が混じったような醤油ラーメン、塩ラーメン。どれも食えたものではなかった。青年は胃を壊しまくるようなやけ食べ歩きの果てに悟った。この喪失感を埋めるにはやはりあそこに行くしかない。青年は思い立つとすぐに大学に休学届を出して旅立った。
青年は汽車の乗り継いで北へと向かった。彼は車中で昔同じように北へと向かった高校時代の冬を思い出した。あの時自分は本気で死ぬつもりだった。その自分を救ったのが、あの味噌ラーメンなのだ。札付の街に行けばきっとあれと同じぐらい美味しい味噌ラーメンが見つかる。それを食べればこの喪失感だって埋められるんだ。青年は今回も青林から小舟を漕いで北陸道に渡ったという。その辺りの事情はよく知らないが、生前の彼が何度も語っていた話なのだからそうなのだと納得するしかない。とにかく青年は再び札付の街に降り立ったのだった。夏の札付の街はコシのない麺のように味気ないものであった。当時は朝鮮特需をきっかけにして日本の復興が急激に進んでいた頃で全国の街の至る所で工事が行われていて、この札付の街も変貌していた。このコンクリートと電飾看板が並ぶ街にはもはや高校時代に見た素朴な北国の街の面影はなかった。
札付の街の代変わりようを見て青年は深く失望した。ド派手な看板が立ち並ぶ東京とまるで変わらないこの平凡な街を見て青年はたった数年前に見た街が遠い過去になったような気がした。この昔と似ても似つかない札付の街であのオヤジの味噌ラーメンの代わりになるものは見つかるのだろうか。青年は札付の味噌ラーメンを求めて歩き出したのだった。
しかしいくら札付の街を探してもあのオヤジの味噌ラーメンの代わりになるものはなかった。青年はラーメンを食べ歩いたせいでもう匂いだけで味が想像出来るようになっていた。この札付の街が平凡な都会になったようにラーメンもまた平凡な代物に変わってしまっていた。青年はこの事実に深く悲しんだ。
そうしてラーメン屋を一通り回った青年は絶望にくれベンチで塞ぎこんだ。その時彼の頭の中にオヤジの顔が思い浮かんだのであった。そういえばオヤジの店のあたりはまだ行っていなかった。多分現実を知るのが怖くて無意識に避けていたんだろう。やはり行かなくてはならない。青年は立ち上がって再び歩き出した。
オヤジの店のあった場所のあたりまでつくと突然あの懐かしい味噌の香りが漂ってきた。青年はその味噌の香りを嗅いでもしかしてと全力で店へと駆けた。オヤジまさか生きているのか。やっぱりあの手紙は立ちの悪い冗談だったのか!多分そうだ!病気かなんかで入院してラーメンを作れなくなったから、死んだなんて下手な嘘ついたんだ!そうに違いない!店に向かう途中青年は混乱し切った頭で意味不明の妄想をして期待に胸を膨らませた。だが、そこにあったにはオヤジの『さっぽろらーめん壱番』ではなく、『北陸道札付ノ中華壱番屋で』という店があったのだ。青年はここではないと立ち去ろうとした。しかし味噌の匂いが彼を引き留めた。もしかしたらこの店の主人はオヤジの弟子か縁のある人間でラーメンの味を引き継いでいるかもしれない。とにかく店に入って確かめなければ、と青年は思い直し勇気を出してのれんをくぐった。
店内は真新しく、オヤジのいた頃よりずっと広くなっていた。客もかなり入っていて、テーブル席には家族連れもいた。間もなくして店員が青年に声をかけて彼を隅のテーブル席へと案内した。この店は複数の人間で切り盛りしているらしい。奥の厨房にも店員が何人かいて皆忙しく動き回っていた。そこにはオヤジが一人でやっていた店の面影は全くなかった。そうやって店内を眺めていたら再び店員がやってきて注文を聞いてきた。青年はしばらく考えてやはり味噌ラーメンを注文した。
青年はこのオヤジの店とはまるで違う雰囲気に居心地の悪いものを感じ、やはりこんな店に入ったのは間違いだったと悔やんだ。だがこの店からオヤジの味噌スープと同じ香りがしたのだろう。その疑問が青年をこの店に押し留めた。ラーメンはいくらもしないうちにやって来た。店員のいかにもな愛想笑いと共に出された味噌ラーメンはやはりオヤジの味噌ラーメンとは別物であった。コーンともやしとネギの東京のコンクリートラーメンとまるで違わなかった。ただ味噌の香りだけが僅かにオヤジの面影を残しているぐらいだった。だが青年はこの味噌の香りに一部の望みを託した。
だがその望みは麺を啜った瞬間に砕け散った。あまりにも酷いラーメンだった。コシのない麺、萎れたもやし、新鮮さのまるでないコーン、それらが誰かが捨てた川のゴミのように味噌スープの上に漂っていた。こんなものを入れられては流石の味噌もドブ川と一緒だ。青年は怒りのあまりテーブルを叩いて叫んだ。
「こんな不味いラーメンが食えるか!このラーメンは味噌以外まともなものが入っていないじゃないか!こんなものゴミだらけの富士五湖だよ!せっかくの味噌スープがゴミで台無しじゃないか!」
しかし青年はすぐ我に返り恥ずかしさで居た堪れなくなって勘定も払わずそのまま逃げるように小走りで店の入り口へと向かった。だがその彼の前に金ラメのスーツの男が立ち塞がり胸を突き出して怒鳴ってきた。
「なんやコラ!ウチの名物の味噌ラーメンに文句でもあるんか!食い逃げしようとしてからに!」
青年はこの何故か関西弁で捲し立てる金ラメスーツの男のいかにも成金といった出で立ちに腹が立って言い返した。
「こんな不味い味噌ラーメンなんぞに金なんか払えるか!それこそ金をドブに捨てる行為だ!」
「このボケっ!せやったらおまわり連れて来たるわ!」
「待て!そっちがその気ならお望み通り金をドブに捨ててやるよ!好きなだけ持っていけ!」
青年が札束をばら撒いたのを見て食事をしていた客たちは一斉にどよめいた。客の中には足元の札を拾ってポケットにしまい込んでそのまま食い逃げするものさえいた。金ラメのスーツの男は青年の撒いた札束の数に驚いて呆然としていた。その金ラメ男に向かって青年はこう言い放った。
「さぁ、床の金を全部拾うががいい!アンタはこれが欲しいんだろ?コイツを手に入れるためにこんな味噌しかうまみのないクズラーメンを客に食わせていたんだろ?さっさと犬みたいに床を舐めまわして床の札を拾えよ!」
「ええ加減にせんかいボケ!ガキが大金手に入れたからって調子にのんなや!ほら見てみい!お客さんがこわがっとるやないか!金は迷惑料として貰っとくさかいさっさとこっから出ていけや!でないとホンマ警察呼ぶで!」
「なんてやつだ!こんなゴミを客に食わせておいてそこまで開き直るか!この拝金主義のクズめ!お前なんかにラーメン屋をやる資格などないっ!」
ばら撒いたお札が床に散乱する店内で青年と金ラメ男は睨み合っていた。青年は客が札を拾い集めているのを見ても、金ラメ男を睨んだまま微動だにしなかった。
しかしその時奥のテーブル席から着物を着た妙齢の女性が静かに二人の方に歩いてきた。
「お二人とも大声で何やってんのさ。そんなにワーワーやられたんじゃまとも食べられはしないよ」
着物の女性は厳しい顔でこう言った。そのきっぱりした強い言葉に青年も成金も黙り込んでしまった。だが怒りのおさまらない青年は彼女に向かって抗弁した。
「お騒がせして申し訳ありませんが、この男はゴミをラーメンとして客に出している詐欺師なんですよ!前にここにあった店のオヤジさんは本当にこころのこもった味噌ラーメンを出してくれた。家出して死のうとしていた僕を救って……」
「お黙りなさい!アンタさっさとこっから出ておゆき!ここはアンタなんかがくるところじゃないんだよ!」
青年は着物の女性の啖呵に雷で撃たれたような衝撃を受けた。ふと周りを見渡すとみんなが一斉に自分を冷たい目で見ていた。金ラメ男は美人の味方の援護射撃に勝利の笑みを浮かべて青年に向かってとっとと店から出て行けとご退出のジェスチャーなんかし始めた。青年に向かって啖呵を切った着物の女性は無表情な顔で彼をじっと見ていた。この店の連中の全員が敵だった。皆の侮蔑の視線に追い詰められた青年はラーメンへの思いを理解されぬ悔しさと絶望に耐えきれず絶叫して店を飛び出した。
店から絶叫して飛び出した青年は泣きながら街中を彷徨いた。自分の自殺を止めてくれた味噌ラーメンを作ったオヤジとオヤジの店『さっぽろらーめん壱番』はやっぱりこの世から消えていた。あるはずだという儚い希望は完全に四散してしまった。もうただ泣くしかなかった。青年は溢れる悲しみに耐えきれず、とうとう地べたにへたり込んでしまった。オヤジの味噌ラーメンのない世界なんて生きていても意味がない。泣きながらそんなことさえ思った。その時青年はふと自分のそばに誰かが立っているのに気づいた。青年は憐れみの言葉なんぞごめんだと立っている人の顔もみずに立ち上がってその場から立ち去ろうとした。しかしその人は立ち去ろうとする青年を呼び止めた。
「ちょいお待ちよ。わたしゃアンタに忘れもんを届けに来たんだよ」
青年はその聞き覚えのある声を聞いてハッとして振り返った。その人はラーメンで自分を叱った着物を着た女性であった。
「ほら、お店に散らかしたお札だよ。わたしゃアンタの札をがめようとしていた客からわざわざ取り返してやったんだよ」
着物の女性はそう言って札束を青年に差し出した。しかしそんな札束など今の青年にはどうでもいいものだった。
「それはあなたに差し上げます。好きに使って下さい。今の僕には不要なものですから」
「バカいうんじゃないの。こんな金すすきので一日中稼いだって手に入れられるもんじゃないよ。大事なお金なんだからちゃんと懐にしまいなさいよ」
「でも……」
「でももへちまもあるもんかい!坊ちゃん年上の言うことはちゃんと聞くもんだよ!」
着物の女性に再びキツイ一喝を浴びた青年は俯いて黙り込んだ。着物の女性はその青年に向かって言った。
「アンタ、さっきあのラーメン屋で前のお店のこと口にしなかったかい?」
青年は女性の言葉を聞いて驚いて顔を上げた。まさかこの女性もオヤジの店に通っていたのか。青年は自分の他にオヤジのラーメンを食べていた人に出会えて嬉しくなった。だから胸を張って答えたのである。
「ええ、口にしましたとも。僕はあのオヤジさんの味噌ラーメンに命を救われたんですから!」
着物の女性は青年の言葉を聞いて目を見開いた。彼女は目の前の精悍な青年を見つめて言った。
「へぇ〜そうなのかい。アンタもいろいろ事情があるんだね。実は私は『さっぽろらーめん壱番』の常連だったのさ。吉原からこの札付の街に流れ着いてすすきので文字通りこの身を削らせて銭を稼いでいる時にさ。ふとあのラーメン屋に立ち寄ったのさ。味噌ラーメンを一口食べてわたしゃ泣いたよ。遠い昔の田舎の光景を思い出したんだよ。それからずっと仕事終わりにゃこの店でラーメン食べて癒されていたのさ。だけどあのオヤジさんが突然……」
女性はそこまで言った途端突然号泣した。言葉にもならない叫びだった。青年もまた泣いている彼女を抱きしめて号泣した。しかしどんなに泣いたところでオヤジの味噌ラーメンを失った悲しみは埋められなかった。
やがて二人で散々泣き尽くしたあと肌寒いほど涼しくなった夏の札付の空の夕焼けが照りつける中女は青年に向かって言った。
「アンタ、私の家に来ないかい?」