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続・中二階のある家 原案:アントン・チェーホフ  秋(空き)時間作

 年を取ると忘れかけていたものを思い出すのはよくあることだが、私もそのようにあの中二階の家を思い出したのである。回想の上書きの回想。中二階のある家を訪れたのはもう二十年前以上の話である。私はあの家を思い出して猛烈に懐かしい感情を覚えた。あの家の全てが無気力で無為に人生を過ごしている退屈な人々さえ懐かしくなった。だが私が一番会いたかったのはあの少女である。といっても今彼女は少女とはとてもいえない姿になっているだろう。彼女は今頃は自分の身長を超えた子供たちに囲まれているかも知れない。家庭のさまざまな問題に忙殺されてすっかり老け込んでいるかも知れない。

 会いたいという強い感情が私を彼女の元に駆り立てた。記憶の中に残る経路を頼りに私は汽車に飛び乗った。ミシュス、君はまだあの中二階の家にいるだろうか。まだあの退屈な人たちと一緒にいるだろうか。結婚していたとしたら君の旦那さんはどんな人だろうか。やっぱり君の家の人と同じように退屈な人たちだろうか。ロシアの田舎は未だ退屈という病に囚われたままだ。田舎の人たちは退屈な世界を変えようとせず、居心地のいい退屈に浸って生きている。ミシュス。やはり君も成長して退屈な世界の住人になってしまったのだろうか。

 駅に降りて私は駅長に中二階の家人たちはまだいるのかと尋ねた。喜ばしい事に中二階の家の人たちはまだ健在のようだった。だがミシュスの事は駅長もわからないと答えた。ミシュスというのは本名ではないから答えられないのは当たり前だが、私は妙に不安になった。彼女がどこか遠い所に、決して私の行けない場所に旅立って行ってしまっていたとしたら。

 私を乗せた馬車が中二階のある家に近づいてきた時、私は見慣れた景色を見て思わず馬車から身を乗り出した。もう中二階の家の領内に入ったのだ。遠く離れた畑では相変わらず汚らしい格好をした農夫たち農作業をしていた。私は二十年以上全く変わらないこの光景に懐かしさと幻滅の入り混じった妙な感情を覚えた。ロシアは停滞しきってもう泥沼にはまりこんでいる。しかしこの家の無気力な人々は停滞の果てに自分たちを待っているものを知りながら何もしようとしないのだ。

 馬車は中二階の家の前に止まったので私は降りて御者に駄賃を払った。そして屋敷に向かって歩いて行った。途中で使用人にあったが皆知らない人間だった。私は見慣れぬ客を興味深々に見る彼らに帽子を取って会釈した。その時小間使らしい若い娘が私に何ようかと尋ねてきた。私は先にある中二階の家を見て「昔の知り合いに会いたくてね……」と独り言のように言った。すると若い娘は少々お待ちをと私に言い残すと中二階の家の方へかけたが、しばらく手足さえ確認できないほど太ったおばさんを転がして戻ってきた。若い娘はその転がっているおばさんの耳元で何か囁いていた。私は、その人を見てもうあの人がここにいないのだとはっきり悟った。だが彼女はきっとどこか生きているに違いない。こうして目を閉じると浮かんでくるのは利発な少女だったあの人だ。あの人も同じように私を思い出すことがあるだろうか。こんな風に想いに駆られて私を不意に訪れようと思う事があるだろうか。

「ミシュス、君はどこにいるのだろう」

「だからここにいるじゃないの!気づかないの?ちなみに私今もバリバリの独身よ!」

「ミシュス、君はどこにいるのだろう……」

「だからここにいるってんだろうが!ちゃんと目開けて人の顔見ろよ!」

 

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