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文芸サークル

「無能というのは。小説を書けない人のことではなく、書いてもそれを隠せない人のことだ。」

アントン・チェーホフ『イオーヌイチ』より

文芸サークル『犬文学』

 私はとあるSNSの文芸サークル『犬文学』に入っている。『犬文学』は今人気急上昇中のサークルだけど、私が入った頃はまだ二十人ぐらいのサークルだった。でもここ一か月ぐらい前から急にメンバーが増えてきてあっという間に二百人を超えてしまった。このままのペースで行ったら三ヶ月もしないうちに五百人を超えてしまうだろう。このサークルは小説だけでなく評論も投稿できる。それだけじゃなくてトークルームもあり、そこでメンバー同士で会話をしたり、二か月の間に一回行うオフ会の参加募集や打ち合わせをしたりする。サークルには毎日メンバーの投稿があり、非常に活気にあふれている。

 この文芸サークル『犬文学』がなんで急にこんなに人気になったのかを考えるとやっぱり他のサークルに比べたら気安く参加しやすく投稿に反応もあるからだと思う。万単位のメンバーがいるサークルは確かに簡単に参加できるけど、書いたものなんて誰も読んでくれない。逆に少数精鋭の、プロの作家や評論家もいるような、本格的な創作サークルだとぐうの音も出ないほどのダメだしを受けてしまう。

『犬文学』では自分の投稿が無視される事はなく、どんな駄文にも管理人さんや、メンバーから何かしらのレスポンスがある。それにダメ出しをされることなんて絶対にない。それはメンバーになった人たちが口々に言うことだ。「他のサークルではろくにコメントなかったけど、ここでは投稿する度に心のこもったコメントが来るからモチベーションが上がる」「前は他のサークルに投稿してたんだけど、投稿する度に批評だかクソリプだかわかんないコメントがきてウザかった。ここの人たちは優しいから安心して作品を投稿できる」なんて事をみんな書いてくる。

 それとこれは特に強調したい事だけど管理人の文弱さんがとてもいい人だって事だ。文弱さんはメンバーの投稿に必ずコメントするがそのコメントの内容が非常に的確なのだ。私は文弱さんのコメントを読むたびに普段の仕事もあるし、管理人としても忙しいはずなのによくこれだけ読み込めるなと尊敬する。この文弱さんは四十代前半という年齢より見た目がずっと老けた感じの人で、普段図書館に勤めているから職業柄いろんな本を見ている。だからよくみんなにあまり知られていない本を紹介してくれる。彼とはオフ会で何度かあっているけど、失礼だけど本当に名前通りのか弱そうな人で、何かというと僕は文弱の徒だからと自嘲している。

 私がこの『犬文学』に入ったのは子供が小学校に入って育児が落ち着いた頃だった。私は学生時代から趣味で小説を書いていて出来上がった作品を創作サイトに掲載したり、また時折遊び半分で文学賞に応募したりしていた。だけどそんな趣味程度の小説で賞など取れるはずがなく、どれも見事に第一選考で弾かれた。そんな才能のまるでない私だったけどやっぱり創作は好きだったから大学を社会人になってもずっと小説を書き続けていた。だけど今の旦那と結婚して子供ができてからは家事と育児に時間が取られて小説を書く暇なんてなくなってしまった。そうして小説から何年も離れていた私だったけど、子供が学校に行くようになって急に暇が出来た時、ふと小説を書きまくっていた学生時代の事を思い出した。

 昔のあの愚かしい程熱中して小説を書きまくっていた日々の事を懐かしく思い出していたらなんだか久しぶりに小説が書きたくなってきた。それで試しにとスマホでいくつか適当なコントを書いてみた。書き上げたコントを読んでみたら自分の腕が思ったほど錆びていないように感じ、というよりもしかたら昔よりもうまくなってないかとすら思えた。まぁ、勿論こんなのただの自己満足で、人からすれば全く面白くもない駄文にしか読めないだろうと思うけど。だけどそんな事は盛り上がりを振り切って、さらに盛り上がっている私にはどうでもよく、逆にだから何?って開き直ってもっと長いのを書いてみんなにアピールしたくなってきた。それで小説を投稿するためにググって某SNSに開設されているこの『犬文学』というサークルを見つけたのだった。

『犬文学』のメンバーは私を快く迎え入れてくれた。申請してすぐに参加が承認されると私は早速いくつか書き溜めていた小説から一番ましなものを投稿した。投稿した後でどれどれと他のメンバーの小説を読んでそのクオリティーの高さにビビッて、お目汚しごめんなさいとすぐに退会しようと考えた時、管理人の文弱さんが真っ先にコメントを書いてくれたのだ。文弱さんのコメントは何度も書くけど本当に的確で見事に読みどころを掴んでいた。その文弱さんのコメントに続いて他のメンバーたちも挨拶と温かみのあるコメントをくれた。そんなみんなのコメントを読んだら退会なんて出来るはずがない。そんなわけで退会を思いとどまった私は今に至るまで『犬文学』に在籍している。それから犬文学のメンバーは増え続け、上にも書いたように今では二百人を超える大所帯となったのでいつの間にか私は古参メンバーになっていた。


 先日その『犬文学』のメンバーで恒例のオフ会を行った。場所は東京だった。参加メンバーは勿論管理人の文弱さんと、それに私も含めた古参新人メンバー合わせて7人だった。古参メンバーの栞さんは九州に住んでいて私と同じように主婦だけどいつもオフ会のためだけにわざわざ東京まで来てくれる。もう一人の柿爪さんも地方の人で、栃木の方に住んでいる。彼女は私と同世代の女性だけど独身だ。あと女子大生が二人。一人はバカっ吉って変にも程がある名前の子で、私よりも前から参加しているが、彼女は我が犬文学のオフ会の盛り上げ役だ。もう一人は手弱女ちゃんという名前の真面目な子で本格的に小説家を目指しているらしい。彼女もサークルに入って結構経つけど、オフ会には今回初めて参加する。このメンバーたちとはLINEでもつながってもう友達といってもよかったけど、今回はさらに最近サークルに入った巖石という男性が新たにオフ会に参加する事になった。

 この巖石さんは最近『犬文学』に入ってきた人だけど、この人がオフ会に参加申請していると知った時、私たちは不安になってLINEで彼の事について話し合った。別に顔も知らない男性が参加する事について不安がっているわけではない。男性だったら管理人の文弱さんだって男性だし、もう一人男性が増えたところで何をされるわけではない。不安の理由は別でそれは彼がサークルでメンバーの作品について度々批判めいたコメントをしてくることだった。単なる誤字脱字の指摘だったらまだいい。文法の誤りの指摘でもまだいい。そうではなくて彼はもっと作品の根本的な部分に深く突っ込んでくるのだ。例えば主人公の行動に違和感があるとか、この場面の心理描写をもっと書きこむべきだとかそういう事を、差し出がましいですがなんてなんて言葉を頭に乗っけていちいちコメントしてくるのだ。また評論についても同様で、もっと論旨を明確にしないと読者には伝わらないとかコメントしてきて時々本当にうざくなってしまうのだ。この巖石さんは人の小説や評論についてあれこれ言う癖に自分の作品は殆ど投稿せず、たまに短いエッセイみたいなのを投稿するだけだった。

 私たちはみんなで文弱さんに巖石さんを参加させて大丈夫かと聞いたけど、文弱さんはでも巖石さんは知識が豊富な人だし、多分みんなが気づかずにしてしまっている誤りに気づいてもらいたくて書いているんじゃないかと彼を庇った。

「それに言葉だけだと多少きつく感じるかもしれないけど、言っている事は真っ当だと思うんだ。それにあんまり文章から人を判断するのはよくないと思うよ。多分さ、実際の巖石さんはもっと普通の人なんじゃないかな。こうしてオフ会に参加したいって言ってくるんだから、あの人だって僕らとコミュニケーションを求めて参加しようとしてるんだと僕は考えてる。みんなあんまり人を疑うのはよくないよ」

 文弱さんの言葉にはそれなりの説得力があった。私たちは彼の意見に納得して巖石さんが参加する事を承諾した。


 オフ会は連休の中休みに行うことになった。今回はバカっ吉ちゃんの提案で二次会をするので日にちに余裕を持たせたいと考えてそう決めた。昼は上野付近の文学スポットを回る文学さんぽで、夜になったら居酒屋を借りての二次会だ。これはバカっ吉ちゃんがもっとみんなで親睦を深めたいと思って提案したことだ。そのオフ会の前々日、文弱さんから送られてきた参加確認のメールに参加可能と返信し、リビングでテレビを観ていた夫に明後日にサークルのオフ会に行くから子供をよろしくと伝えたのだけど、夫はそれを聞くと憮然とした顔で私にこう言うのだった。

「はぁ~ん、オフ会ねぇ~。お前は呑気でいいよね~。こっちは毎日夜まで必死に残業してお前らのために生活費入れているのにさ。お前ときたら一日中能天気にずっとネットで遊んでいるんだから。もうサトシだって小学校上がったし、一日中暇なんだろ?だったらいい加減外出て働けよ。これから中学、高校、大学、さらに家のローンってさ、何かあるたんびに金が飛んでくんだよ。そうなったら俺の給料だけじゃ満足に暮らせねえよ。お前にもはした金でいいから家に金入れろ」

「別に毎日能天気に過ごしているわけじゃないけど……」

「はぁ?なんか文句でもあんの。俺、当たり前の事言ってんだけど」

「別に……」と答えて私はリビングから出た。夫とは最近ずっとこんな調子だ。何かあるたんびに働け働けと言ってくる。まぁ確かに彼の言うことはよくわかるし、私自身このまま何にもしないで主婦業なんてやっていいはずはないと思っている。こんな夫だって付き合ってた頃は私の小説を読んでくれたし、感想だって言ってくれた。だけど結婚してからだんだん私が小説を書いていることを蔑むようになっていった。それはきっと彼が所帯を持った事を自覚し始めたからだろう。そんな彼から見れば私なんて子供もいるのにいつまでも小説に浮かれている夢見る乙女にしか見えないのかもしれない。だけど、甘ったれだけどもう少しだけこのままでいたいと思っている。やっと育児から解放されて好きなように過ごせるようになったこの時を自由に過ごさせて欲しいと思っている。そんな私はただのわがままなんだろうか。いや、答えは決まっている。そう夫の言う通りお前はわがままなんだと。

オフ会開催

 本日開催の我らが『犬文学』のオフ会の集合は、まず栞さんを除いた全員で上野の駅の広場に集まって、そこで羽田空港から電車で来る栞さんを待つ手はずだった。私は朝起きて夫と子供と一緒に朝食を食べ、一人で食器を洗ってから外出のために着替えた。着替えるって言ったって三十過ぎのおばさんだし元からファッションにはこだわりはないけど、それでも若い子もくるわけだし何とか浮かないような格好にしないと思って服を並べて何を着ようか考えてみたけど、結局どれ着ても同じだと思って適当に選んだ。着替えと準備が終わったのでバッグを手にリビングでテレビゲームをしていた夫と息子のサトシに出かけることを伝えた。サトシは何か買ってきてとねだってきたけど、夫はこちらを振り返りもせず、気の抜けた声でいってらっしゃ~いと手を振った。私は夫に向かってじゃあ行ってくるからともう一度念を押すように強く言い、そして玄関へと向かった。

 上野駅に着いたのは十一時過ぎたあたりだった。集合時間は十二時だったから全然余裕だった。改札を出て目の前の広場を見ると真ん中あたりに文弱さんと柿爪さんとバカっ吉ちゃんがいるのが見えた。文弱さんは特徴的なルックスをしているのですぐにわかる。坊主頭でひょろ長い顔のもやしみたいに痩せ切った人を見かけたらその人は間違いなく文弱さんだってわかるぐらい特徴的だ。私が文弱さんたちの所に行こうとした時、丁度向こうも私に気づいたみたいでこちらに向かって手を振ってきた。

「ミドリさん、お久しぶりです。今日もよろしくお願いしますね」

 私が来ると文弱さんは深く一礼してからこう声をかけてきた。すでに来ていたメンバーも文弱さんに続いて挨拶をしてきた。ちなみに私はサークルではミドリと名乗っている。

「みんなお久しぶり。こちらこそよろしくお願いします。でもみんな早いね。まだ集合時間まで全然あるじゃない。それで残りは手弱女ちゃんと巖石さん?」

「あっ、手弱女ちんはさっきLINEで隣の駅に着いたって連絡来たからもうすぐ来るよ」

 こう教えてくれたのはバカっ吉ちゃんだ。彼女はそれから続けてこう言った。

「でさ、一番最初に来たのはなんと柿爪ちん。私早起きして一番乗りって思って一人ではしゃいでたんだけど、広場来てみたら柿爪ちんが立ってるじゃん。ホントびっくりした。まさか始発で来たのって聞いたらやっぱりそうだって」

「あのね、今日は休日なのよ。あなた東武日光線の休日のラッシュの怖さ知らないでしょ。いったん乗ったらおしくらまんじゅうにされて二度と生きて出れないのよ。そこを回避するには始発から乗るしかないじゃない」

 私たちはこの柿爪さんの真面目な顔で放ったジョークに乾いた笑いで応えてあげた。柿爪さんは普段は市役所に勤めているそうで本当に真面目そうな顔をしているけど、突然今のような唖然とする冗談を言うからなかなかに油断できない人だ。

「それで、巖石さんさんはまだなの?」

 と私が聞いた途端みんな一斉に真顔になった。文弱さんは私の方を向いて全く連絡がないと答えた。

「でもまあ、集合時間までまだ余裕あるしもう少し待ちましょうよ。あっ、栞さんですけど、もう空港から出て京急線に乗ってるそうです。遅延とかなかったら十二時前に着くみたいですよ」

「それじゃ今日は問題なくオフ会出来そうですね。あとは巖石さんが来るかどうかだけど……」

「ミドリちん、正直言って私あの人来てほしくないんだけどね。あの人にイヤミなコメント書かれことあるし……」

 そう言ったのはバカっ吉ちゃんだ。彼女ははっきりと自分の意見を主張するタイプで結構感情の起伏が激しかったりする。彼女が巖石さんのコメントに対して激しく怒りLINEでどう言い返してやろうかと相談して来た時、私たちが慌てて止めたことがある。

「でもバカっ吉ちゃん、文弱さんも言ってたじゃない。人を疑うのはよくないって。多分巖石さんだって実際に逢えばすごくいい人だと思うよ。ねえ、文弱さんそうでしょ?」

「そうだよ、バカっ吉さん。会った事もない人を色眼鏡で見るのはよくないよ」

「それはわかってるんだけどさぁ。なんか割り切れないんだよねぇ~」

 バカっ吉ちゃんの言葉でみんなが一斉に黙り込んだ時そばから聞きなれた声が聞こえた。手弱女ちゃんだった。手弱女ちゃんには初めて会ったけど本当にイメージ通りの子だった。ほっそりとした大人しい文学少女といった感じでこの妙に気まずい空気を忘れさせてくれる清涼剤だった。

「あ……あ、初めまして皆さん。私オフ会自体参加するのが初めてなので何にもわからないんですけど、よ、よろしくお願いします」

「こちらこそよろしく」と私たちは挨拶して口々に彼女に話しかけた。彼女はサークルに入って結構経つけど、オフ会には一回も参加していなかった。それは多分彼女が人見知りである事が理由だろう。彼女はLINEで顔を知っているはずのみんなを見てすっごくおどおどしていた。

「手弱女ちん久しぶり!この間サイゼリア付き合ってくれてありがとう!」

 バカっ吉ちゃんが手弱女ちゃんこう話しかけたので私たちは驚いた。あなたたち会っていたの?

「ああ……皆さん、たまたまですよ。この間LINEでやりとりしていたらお互い結構近いところにいるのがわかってそれで……」

「うん、だからみんなに隠れてこっそりとかじゃないよ。だから手弱女ちん責めないで」

「いや、責めるとかそんな事考えてないし。大体あなたたち年も近いじゃない。別に私たちに気がねする事ないんじゃない?」

 私がバカっ吉ちゃんと手弱女ちゃんにこう言うと柿爪さんが続けて言った。

「あなたたち二人を見てるとホント学生時代思い出すわ。ねぇミドリさんだってそう思うでしょ?」

 本当にそう思う。一回り以上年下の彼女たちの眩しさに昔の自分を重ねて羨望さえしてしまうほどに。

 そうして私たちは広場で栞さんの到着を待っていたが、その時近くで電話の音が鳴った。文弱さんのスマホだった。文弱さんは電話口に向かって日本人らしくぺこぺこ頭をさげていた。電話の相手はどうやら栞さんのようだ。

「ああそっちじゃなくてですね。そこから中に戻ってもらってですね。そのまままっすぐ行けば開けた場所がありまして、そこの真ん中あたりのオブジェのそばで僕とみんなが待ってますよ」

 電話を終えた文弱さんは私たちの方を向いてお馴染みの困り顔でこう言った。

「栞さん上野に着いてたみたいなんですけど、なんか公園口の方に行っちゃったみたいです。彼女ちゃんと来れるかなぁ〜」

「あれっ?公園だったらこれから行くじゃん。どうせなら私たちが栞ちんのとこ行かない?」

 文弱はバカっ吉ちゃんの言葉を聞いて困り顔をますます困らせてポツリと言った。

「でも、巖石さんがまだ来てないし……」

 巖石さんの名前を聞いて場の雰囲気がまたまずくなった。バカっ吉ちゃんがつぶやいた。

「あの人ホントに来んのかな?」

「そうね、待っているんだったらこっちに連絡してくれればいいのに……」

 と私が言うとバカっ吉ちゃんがため息混じりにこう言った。

「まったく!来ないんだったら来ないって連絡すればいいのに。ウチらは別に来てもらわなくたっていいんだからさ」

 このバカっ吉ちゃんの言葉に文弱さんがすぐ反応して嗜めるように彼女を睨んだ。気まずい沈黙が流れた時、息せき切って女性がこちらに駆け寄ってきた。栞さんだった。彼女は私たちのところに来ると息を切らせて話し出した。

「ごめ〜ん。上野なんてあんまり来た事ないからどこ行っていいかわからなくて。で、時間とか大丈夫?」

「ああ、全然大丈夫ですよ。そんなに急がなくてもよかったのに」

 と文弱さんが栞さんに声をかけたのに続いて私たちも一斉に挨拶した。

「あっ、あなた手弱女ちゃん?ああ!初めまして。といってもいつもサークルで会ってますけどね」

「ああ、こちらこそ」と手弱女ちゃんも遠慮がちに栞さんに挨拶した。すると栞さんは「さてと」と言ってみんなを見回して言った。

「もう全員揃ったの?」

「いや、それが」と文弱さんは困り顔マックスで答えた。

「まだ巖石さんが来ていないんですよ……」

「あらそうなの。じゃあ待ってあげなくちゃいけないね」

 巖石さんの名が出たので私たちはまた一斉に黙った。文弱さんは黙りこくった私たちを不安げな顔で見てまだ時間になっていないからもう少し待ちましょうと言った。

 しかし巖石さんは時間になっても現れなかった。連絡さえなかった。それで私たちは文弱さんに連絡してみたらと言った。したら文弱さんはそうしましょうかと言ってスマホでメールを送った。だけど巖石さんからはなんのレスポンスもない。バカっ吉ちゃんが呆れた顔で私たちに言った。

「もう来ないよ。どうせいざって時に私たちに会うのが怖くなったんでしょ?さっさと受付終了のメール送ってさっさと精養軒行かない?もう腹ペコだよ」

 このバカっ吉ちゃんの言葉に私も栞さんも柿爪さんも頷いた。それで文弱さんにそれを伝えようとした時、手弱女ちゃんが横を向いて「ちょっと」と私たちに声をかけた。

「あの壁際に立ってる黒い服着た背の高いおじさん。さっきから私たちをチラチラみてるんですけど、あの人……」

 たしかに壁際には黒づくめの服を着た長身の中年の男が立っていた。バカっ吉ちゃんは顔を突き出して男を遠慮なしにジロジロみて思いっきり不愉快そうな顔でこう言った。

「アイツもしかしてストーカーかなにか?私たちを狙ったりしてるの?」

「違うって!そんな事じゃないよ。私はあの人が巖石さんじゃないかって思っているの」

「いや、でも本人だったら声ぐらいかけてくるでしょ?集合場所は教えてあるんだし」

「でも待ち合わせしてる人なら他にも立ってるし、もしかしたら迷っているのかも」

「だったら私が直接聞いてやるよ。あなた誰と待ち合わせしてんのって」

 いやと私はバカっ吉ちゃんを止めて私が行くと言った。今のキレ気味のバカっ吉ちゃんを生かせたら変なトラブルが起きそうな気がしたからだ。そこに文弱さんが入ってきて僕が行こうかとと言い出した。しかし私はあの人が巖石さんだとしたらもしかしたら連絡の行き違いのせいかもしれないと思い、下手に対面させたらやっぱりトラブルになるかもしれないので、私が声をかけるからと断ってそのまま男の方に向かった。

「突然失礼します。あのもしかして『犬文学』のオフ会の参加者の方ですか?」

 私が話しかけると男はジロリと私をみた。男は口元と顎に髭を生やしていて、背の高さも相まって妙な圧を感じさせた。

「あ、そうだけど」と男はどっか苛立ったような顔で答えた。手弱女ちゃんの言う通りこの男が巖石さんだった。何というかイメージ通りの人で話しづらそうな人だった。私はとりあえず笑顔を作って自己紹介してとりあえず巖石さんをみんなに紹介するために彼を連れていこうとした時、巖石さんは私を呼び止めてこう尋ねた。

「で、管理人の文弱さんって人どこにいるの?あのさ、僕この集合場所でずっと待ってたんだよ。メールだって何度も送ったし。なのにさ、どうして返事ないの?」

 この巖石さん怒り気味の突っかかりに私は気圧されてしまった。私は自分の予想通りだった事に悪い予感はよく当たる的なものを感じて嫌な気分になった。

「文弱さんはあそこにいる男性です。一応彼のために弁明しておきますけどあの人は連絡を無視するような人じゃないです。多分サーバーかなんかの都合でたまたまメールが迷惑メールフォルダに入ったとかそういう事じゃないでしょうか?あまりあの人を責めないでくださいね」

「そんなこと言ったって昨日まで普通にメールのやり取りしてたじゃないか。どうして今日に限って全くメール返してこないんだ?おかしいだろ。とにかく本人に聞かなきゃな」

「いや、ちょっと待って……」

 しかし巖石さんは私が呼び止めるのも聞かず早足で文弱さんの所に行っていきなり彼を問い詰めた。

「あのさ、連絡とかどうなってんのよ。僕は何回もメール送ったんだよ。まさか俺のメール迷惑メールに放り込んだわけじゃないよね?」

「は、はぁちょっと私にもわかりかねます。どうしてメールが届かなくなったんだろう。い、いや何度も確認してますが、巖石さんのメール昨日までのものしかありません。一応迷惑フォルダも調べたのですが、やっぱりそこにもありませんでした」

「ホントにサーバー上の都合なのかなぁ。あなた人のメールをいい加減に扱って誰かと間違って消したんじゃないの。ほら、見てよ。僕は何回もあなたにメール送っているんだよ」

 と言いながら巖石さんは文弱さんに自分のスマホを突き付けた。しかしそれからすぐにスマホを自分の顔に近づけてあっと声を上げた。

「……いや、悪い。こりゃ会社のスマホだった。今気づいたわ。これじゃ確かに何度メール送ってもそっちに届かないかもしれんな」

 そう言うと巖石さんはスマホをしまい悪びれもせずに平然とした顔で私たちに「で、これからどこ行くの?」と聞いてきた。私はこの巖石さんの態度に腹が立った。自分のせいなのに文弱さんの事を一方的に責め立ててたくせに、ろくに謝罪もせず、かと言って笑ったりしてごまかしもせず、平然とまるでなかった事のように振る舞うなんてどういう神経してるんだろう。みんな撫然として巖石さんを見ていた。バカっ吉ちゃんなんか完全にブチ切れそうだった。

文学散歩開始

「あ、これで全員揃いましたね。それじゃ改めて今日の予定を言いますね。まず公園の中にある精養軒で食事をとります。精養軒といえば森鴎外や谷崎潤一郎や芥川龍之介といった文豪も来ていたお店です。ちょっと代金はお高いですが、やっぱり明治大正の文学の雰囲気を味わうには絶好の場所だと思うんですよね。で、精養軒を出たら五時ぐらいまでこの近辺の文学に関する名所旧跡周りをする予定です。この辺は本当に文学に関する名所が多くて飽きません。途中途中で休憩はとりますが、疲れた時は遠慮なく言ってください。せっかくの楽しいオフ会が事故になったら大変ですからね。ガイドはこの文弱が務めさせていただきます。実は私ガイドのために改めてこの辺の事調べてたんですよ。だから知りたいことがあったら聞いて下さい。だけど私も素人なんで当然答えられない事があります。その時はご容赦の程を。あとそれと繰り返しになりますが二次会は強制参加じゃありません。もし用事が出来たとか、やっぱり遠慮するとかあれば気にせずに私に伝えてください。五時ごろに改めて皆さんに参加意志の確認をしますのでよろしくお願いします」

 文弱さんは私たちと厳石さんとの気まず過ぎる雰囲気をほぐそうとしてか無理矢理作ったような笑顔で今日の予定を説明をした。しかし文弱さんには悪いけど私は巖石さんの事が気になって説明を殆ど聞けなかった。

「はぁん。オフ会ってそんな小学生の遠足みたいなことやるんだ。あっ、お気に触ったら申し訳ない。こっちはオフ会なんてのは初めてでね」

 巖石さんのこの私たちを小馬鹿にし切ったような物言いを聞いてみんな一斉に目を剥いた。もうみんな完全に巖石さんに頭に来ていた。

 上野公園は休日だからやっぱり人が多かった。公園に遊びに来た人たちや動物園に行く家族連れ、美術館や博物館に行くカップルなどで歩道はひしめいていた。私たちはその間をぬって精養軒を目指して歩いた。

 みんなでレストランに向かう途中、バカっ吉ちゃんが私の隣にきて小声で話しかけてきた。

「あの、ミドリちん。やっぱりアイツ参加させたの失敗だったんじゃない?」

 さっき彼女に偉そうに説教した手前何も言えない。私も彼女と同じように思っているわけだから。

「でも文弱さんを責めちゃだめだよ。あの人全然悪くないんだから」

「そんな事わかってるよ。でもこれからどうしたらいい?」

「無視するわけにもいかないし。とにかく波風立てないように対応すればいいんじゃない?特にバカっ吉ちゃんは結構ケンカっ早いとこあるから気をつけてね」

「大丈夫だよ。私は普段は超お淑やかな子なんだから」

「ああそうですかぁ〜」

「ミドリちん、なに、その疑いの目は。私が信じられないって言うのぉ?」

「い〜え。信じてますよ。でもバカっ吉ちゃんホントお願いね。巖石さんともめ事は絶対に起こさない。文弱さんあの通り凄く繊細な人だからなんかあると必要以上に傷ついちゃうよ」

「フフッ。ミドリちん、文弱ちんのことよくわかってるじゃん。なんかミドリちん、文弱ちんの奥さんみたいだよ」

「コラ、子供が大人をからかうな!私も文弱さんも配偶者持ちだっての!」


 精養軒ではテラス席に座ることになった。休日の昼間にしては意外に空いていて店内にはいくらも待たないで入れた。人数が多いので私たちはテーブルを分けて座ることにした。みんなの座る席は私と文弱さんで決めた。とりあえず巖石さんは私と文弱さんと一緒のテーブルに。他の人たちは別のテーブルに。とにかくバカっ吉ちゃんと巖石さんを離せばよかった。こうした所でテーブルが隣なんだから意味はないかもしれないけど、何もしないで放置しているよりマシだ。席に座った私たちは文弱さんの勧める明治の創業以来変わらずに提供しているといわれるビーフシチューを頼んだ。まるでお上りさんだけど、実際に私たちみんなこの店に入ったのは初めてなのでそうなのも仕方がない。意外だけど巖石さんも同じようにビーフシチューを頼んでいた。どうやら彼も精養軒に入るのは初めてだったみたいだ。

 巖石さんを気にしてか最初のうちはあんまり会話は続かなかった。誰かが話し出しても二言三言で終わってしまう感じだった。だけどみんなしてこの妙に気まずい空気を何とかしようとしてくれたので何とか場は盛り上がった。特に頑張ってくれたのはやっぱりバカッ吉ちゃんで、彼女はボケと突っ込みが同時にできるような面白い話をして盛り上げてくれた。バカっ吉ちゃんのおかげで何とか気まずい雰囲気も取れたので私も文弱さんもホッとした。みんながようやく口を開き始めた時文弱さんが今いる精養軒について語り始めた。

「この精養軒はさっきちょこっと触れたようにホントに日本近代文学と縁がありまして、夏目漱石の『吾輩は猫である』にも出てくるし、森鴎外の『青年』にも出てくるんです。その他にもまあいろんな文豪と縁がありまして、太宰治の短編集の『晩年』の出版会はここで開かれたんですよ」

「ふ~ん、なんか凄いね。でも文弱ちんてホントなんでもよく知ってるよね。私今名前言った人全然知らないもん」

「あのさ……バカっ吉ちゃん。今名前上げた人たちみんな学校の教科書に載ってる作家さんだよ」

「あ、そうだっけ?」

 バカっ吉ちゃんのボケとそれに対する文弱さんのツッコミに私たちは声を上げて笑った。すると周りから一斉に厳しい視線が飛んできた。私たちは一斉に口を閉じて周りに頭を下げた。その時近くからへっと吐き捨てるような声が聞こえた。ハッとして声の方を振り向くとそこにシチューを食べている巖石さんの姿があった。

 それからしばらくしてから隣のテーブルの栞さんが口を開いた。

「文弱さんの話を聞いてますます散歩が楽しみになってきた。ねぇ文弱さん。今日樋口一葉の記念館は行く?私樋口一葉大好きなの」

 この栞さんの言葉に文弱さんは何故か気まずそうに苦笑いを浮かべて答えた。

「いや、残念ながら記念館には行きませんよ、ここからだと少し遠いし、それに場所柄も悪いですからね」

「あっ、そっかぁ。たしかにマズいかもしれないね」

 栞さんは妙に意味深な顔で笑った。文弱さんも同じような顔をして笑うから私は何がおかしいのだろうと不思議に思って二人を見ていたけど、その私の隣で巖石さんが小さく舌打ちをしたので我に返って彼を見た。巖石さんは無言で下を向いてからの皿を見つめていた。それを見て私はさっきのも、この舌打ちもきっとたまたま出たものなのだろうと自分を納得させようとしたけど、それでもやっぱり不愉快さは残った。


 精養軒を出て私たちはいよいよ文弱さんの案内の下文学散歩に出かける事になった。文弱さんは地図を広げてから私たちに向かって言った。

「さていよいよ文学散歩を始めます。といっても僕は明治大正昭和の文学はそれなりに知っているのですが、平成以降の文学、いや昭和後半の文学もかな……については自分の言葉で語れるほど知識がないんですよ。だから今回は教科書に載っているような昔の作家さんのご案内しか出来ません。新しい小説については私より皆さんの方が遥かにお詳しいと思うから、道中で僕の知らない作家さんの小説に出てくる名所的なものを見つけたら遠慮なく教えて下さい」

「あ、いいよ、文弱ちん。私たちに気を使わなくたって。どうせ文弱ちん今日のために暇を惜しんでずっと散歩ルート考えていたんでしょ?だから今日は文弱ちんの仕切りで大丈夫だよ。ねえみんな今日は文弱さんの完全仕切りでいいよね?」

 バカっ吉ちゃんはいつも明るくてよく笑う子だけど結構人の気持ちを察することができる本当にいい子だ。私たちはバカっ吉ちゃんに同意してみんなで頷いた。

 私たちはまずは公園内の名所へと向かった。まずは寛永寺の五重塔へ行き私はそこで文弱さんからここが江戸川乱歩の『幽鬼の塔』の舞台だと教えられた。文弱さんのガイドっぷりはこういういい方は失礼だけど意外にも堂に入ったもので、自然と頭に内容が入ってくるものだった。私は江戸川乱歩は殆ど読んでなくて文弱さんの話している『幽鬼の塔』なんか全く内容知らないんだけど、それでもなんかイメージは浮かんできた。みんなも私と同じように感嘆していた。あの巖石さんでさえ興味深そうに話を聞いていたぐらいだ。それから私たちは不忍池池の方へ歩いて行った。その辺りには森鴎外の旧居や彼の小説『青年』に書かれた場所があるという。

「それから池を越えて不忍池通の向こうには無縁坂があるんです。無縁坂はこれも鴎外の『雁』に出てくるんです。で、坂の途中にある家にお玉という女性が住んでいるんですが、その彼女を坂を散歩している岡田という学生が偶然に見とめるんです。この先はまた着いてからお話しますから。ではその前に不忍池の方に参りましょうか。あそこは明治文学と結構縁があって……」

 文弱さんの喋りのせいかなんだか小説の世界にいるような気分になってきた。このままこの世界にいて小説の登場人物のよう生きていられたらどんなにいいだろうなんて思った。だけどそう思った瞬間現実が泥水のように降ってきて私の目を覚ました。いくら小説を書いていたって現実から逃れられるわけじゃない。逆に書けば書くほど現実というものを嫌というほど思い知らされるんだ。私は小説を書いて暮らしていける人をホント羨ましい。勿論その人たちにだってその人たちなりの現実があるだろう。だけどその人たちには自分の想像の世界を描いて完成させるだけの才能がある。私がどれだけ頑張って書いても、結局出来上がるのは想像の世界の切れ端を繋ぎ合わせたただの惨めな妄想だけだ。私と小説の間にあるのは目の前にある事物と小説に書かれたそれと同じぐらいの距離だ。だけど私にはその距離を埋める才能はない。どれだけ小説を書いてもそんなもの手には入りはしない。

「あっ、ミドリさん大丈夫?日陰で休憩でもしようか」

 と、声をかけてくれたのは柿爪さんだった。見るとみんなが心配して私を見ていた。みんなを見て私はハッと我に返って大丈夫だからとみんなに言って歩き出した。前方に不忍池が見えたが、そこはもうすっかりハスで埋め尽くされていた。外は本当にうだるような暑さだった。私以外のみんなもこの暑さに少し参っているようだった。だけど文弱さんだけは妙に気を吐いて先頭に立って歩いていた。「あっ、皆さんどうしたんですか?不忍池はもう少しですよ」

「まったく文弱ちん張り切りすぎだよ。いつもはぜーぜー言いながらみんなにやっとこさでついてくるのにさ」

「へえ、そうなんだ。きっと文弱さんホント今日を楽しみにしていたんだね」

「楽しいのはいいよ。だけどあの人も年なんだから体力考えないと。あれじゃきっと明日一日中起き上がれないよ」

「そんな事言わない」

 バカっ吉ちゃんと手弱女ちゃんが二人してこんなことを喋っていた。若い二人がこんな状態なんだから私のような年増はさらに大変だ。あまりの暑さに息さえ上がりそうになる。そうしてやっとこさ歩いてとりあえず私たちは不忍池に着きそこで休憩を取ることになった。

休憩中の会話

 休憩といってもベンチはみんな埋まっていたのでみんな池の前のあたりでしゃがんだりして休み始めた。バカっ吉ちゃんと手弱女ちゃんはハスを前に写真なんか撮りだしたので私もスマホでハスを一枚撮った。それからしばらくハスを見ていたけど、その私の隣で栞さんと柿爪さんが世間話を始めた。

「あのねぇ、今年息子が高校受験なのよ。先生からお墨付きを貰ってるんだけど、何がどうなるかわからないしねぇ。なんか事件起こしたら内申に響いて終わりだしねぇ。あの子それなりに頭はいいんだけど周りに影響されやすいのよ。しかもうちは私立じゃなくて公立の中学だからまぁいろんな子がいてねぇ。旦那にももっと息子に関わってもらいたいんだけどねぇ」

「ああ、わかりますよ。私の姉の子供が今年中学受験するんですけどやっぱり旦那さんが妙に非協力的でやっぱり男の人って家庭に関わるのめんどくさがるんですかね」

「そうそう、何を話しても俺は仕事で疲れてるんだの一点張り。あの子が高校落ちたらどうすんだっていうの。……あっ、そうだ。ミドリさん。あなたも小学生のお子さんいるのよね。旦那さん子供をかまってくれてる?」

 突然話を振られたので答えられなくて「はい」とか適当に相槌を打ってどうにかやり過ごした。私は例えば友人なんかと話をしている時でも今のような世帯じみた話を振られるとなんか口篭ってしまう。別に話せないことはないけど、心のどこかでためらいが生じてしまう。そういう事を話した途端一気に現実に引き戻されるのが怖いのだ。それでも普段付き合っている友人と話すのだったらまだいい。だけど『犬文学』の仲間とはそんな話は絶対にしたくない。私は小説を書いたり、小説が好きな人たちと交流を持つために『犬文学』に入ったんだから。それはきっと多分栞さんだって、柿爪さんだって同じなはずだ。だけど二人は多分私よりずっと大人なんだと思う。中学生の親である栞さんは勿論だし、私と歳が近くてしかも独身の柿爪さんだって私よりずっと世間すれしている。私は彼女たちみたいにあるがままの現実を受け入れることはできない。全く恥ずかしい話だ。小学生の子供がいる身分なのにいつまでも子供みたいに変なプライドを持っているんだから。

「そういえば柿爪さん、あなた付き合ってる彼氏さんとはどうなの。もう結婚とか考えてる?」

「ああ、私は考えているんですけど、彼がどうも乗り気でないみたいで。だけど私から強く迫ったらウザがられると思うし、ウチは田舎ですからねぇ。両親がしつこいんですよ。お前たちはいつ結婚するんだって……」

 私は居づらくなって二人の元を離れてバカっ吉ちゃんと手弱女ちゃんのそばに行こうとしたらいつの間にか二人共いなくなっていた。恐らく近くの屋台にでも行ったのだろう。周りを見ると文弱さんが一人端っこで屈んでひたすら地図とスマホの見比べっこをしていたので、文弱さんの方に近寄って声をかけてみた。けど文弱さんは私に気づかずっと地図とスマホの見比べっこをして何やらブツブツ言っていた。どうやらこれからの散歩ルートの確認に忙しいようだ。私は一人手持ち無沙汰状でしばらくぼうっとしてハスを見ていたのだけど、突然あたりが暗い影にになったのを見て思わず横を見た。そこには柵に手を当ててハスを見つめる巖石さんがいた。

「びっくりさせて申し訳ない。ハスを見ていてね」

 私は巖石さんがどこか遠い目でハスを見つめているのが気になった。なんだかハスを見ることで周りの事のものから目を背けたい。そんな感じをふと覚えた。勿論こんな想像自体が余計な詮索なんだろうけど。

「お花とか好きなんですか?」

 なんて話しかけたらいいか迷った挙句一番つまらないことを口にしてしまった。巖石は無表情な顔でじっと私を見てから再びハスの方に視線を向けて言った。

「別に好きじゃないね」

「……そうですか」

 そのまま私と巖石さんはしばらくハスを見ていたが、その時巖石さんがハスの方を向いたまま私にこう聞いて来た。

「そういえばあなたいつからサークル入ってるの?」

「……二年ぐらい前です」

 巖石さんがずっと醸し出している圧にまごついてどもってしまった。なんだか急に自分が容疑者になってしまったように思えた。巖石さんはその容疑者の私の方を向いてさらにこう聞いて来た。

「そんな前からいるんだ。で、あなたなんで小説なんか書いているの?」

 私はこの突然の問いに驚いて慌てて頭の中で返答の言葉を探した。だけどその場しのぎの言葉さえ見つからなかった。いや、ぶっちゃけていえば好きだからですって答えしかないんだけど、それをそのまま言えば自分の精神年齢が疑われてしまう。バカな答えを言って鼻で笑われるのはうんざりだ。なんだか巖石さんの影がグッと濃くなっているような気さえした。まったくこの人は何でこんなに突っ込んだこと聞いてくるんだろう。私がなんと答えていいか迷っていると助け船のように文弱さんが手を上げて私たちに声をかけてくれた。

「あっ、みなさん。そろそろ散歩再開しますが、大丈夫ですかぁ」

 私は文弱さんの呼びかけを聞いてすぐに巖石さんに声をかけて彼の元を離れた。見るバカっ吉ちゃんと手弱女ちゃんも土産物らしきものを手に帰ってきているではないか。私は彼女達の元に駆け寄って土産物についていろいろ聞いた。


 そうしてしばらく話し込んでから文学散歩は再開した。私たちは文弱さんに案内されて不忍池の近くにある名所を回った。私は文弱さんが少し心配になって彼のそばについていくことにした。だけど、それは実は口実で申し訳ないけど私は巖石さんに近づきたくなくて文弱さんを利用したのだ。それはさっきの質問の回答を迫られるのが嫌だったってこともあるけど、それ以上に彼という存在自体を疎ましくおもったのだ。なんか彼といると自分が隠そう隠そうとしているものが白日の下にさらけ出されそうな気がするのだ。勿論これは私の勝手な思い込みで巖石さんには一ミリも関係のないことだけど、でも嫌だ。誰だって進んで危険地帯に入らないだろう。私だって同じだ。

「文弱さん、一人で大変じゃない?よかったら私がサポートしようか。勿論文学の案内なんて出来ないけど、場所までの案内ぐらいだったら私でも出来るからさ」

「ああ、いいですよぉ~。そんなに心配しないで下さい。僕ちゃんと全部把握してますから」

 文弱さんに見事袖にされた私はトボトボと後に着いていくしかなかった。周りでは栞さんと柿爪さんが相変わらず世間話をしていた。バカっ吉ちゃんと手弱女ちゃんは韓国アイドルの事で盛り上がっていた。そして巖石さんは後ろで俯いて歩いている。栞さんと柿爪さんの世間話を聞かされるのは嫌だし、バカっ吉ちゃんたちの韓国アイドル話には多分ついていけないし、かといって巖石さんに話しかけられたらなおさら嫌だし、まあというわけで私はやっぱり文弱さんに相手になってもらおうとして彼に話しかけた。

「文弱さん、あのそう言えば今からどこにいくんだけっけ?」

「あっ、弁天島ですよ。あそこには面白い石碑がたくさんあるんです。まあ文学とはあんまり関係ないんですが、面白いからみんなに見せたいなって思って」

「そう、楽しみだな」

「あっ、そうだ」と文弱さんが突然振り返って私たちに言った。

「そうだ。この不忍池について話すのを忘れていましたよ。ここはですね。漱石の『こころ』とかさっきも少し触れた鴎外の『雁』とか、あとは川端康成の『帽子事件』に登場する場所なんですよ……」

 みんな立ち止まって文弱さんの話に聞き入った。文弱さんの話は相変わらず面白くて今回もやっぱり聞き入ってしまった。文弱さんは漱石や鴎外のような教科書で散々読んだような作品を本当に面白そうに語るのだ。彼自身が本当に文学が好きなんだろう。でなければこんなに夢中になって文学の事なんか語れないはずだ。他のみんなも文弱さんの話に夢中になって、大学で近代文学を学んだらしい栞さんなんか彼に積極的に相槌を打って話しかけたりしていた。

 さて文弱さんがガイドを終えると私たちは再び弁天島を目指して歩き出した。歩き出してすぐに栞さんが私と文弱さんの所にやってきた。彼女は文弱さんと話したがっていた。恐らく今さっきの文弱さんの話に影響されたのだろう。私は栞さんに文弱さんを譲って一歩後ろに退いた。その私の所にバカっ吉ちゃんと柿爪さんがやってきた。私はあれ?と思ってバカっ吉ちゃんに手弱女ちゃんはと聞いのだけど、バカっ吉ちゃんは不機嫌そうに首を後ろに向けて言った。

「手弱女ちん巖石のジジイと話したいってさ。ったくあの子なんであんな奴と話したいわけ?あの子も結構アイツにイヤミ書かれてるじゃん」

「バカね、手弱女さんはあなたよりずっと大人なのよ。あなたみたいに悪口書かれたからってすぐムキになって怒るような子供と違うのよ」

 私は二人の会話がおかしくて思わず笑ってしまった。でもすぐに自分の巖石に対する対応を思い出して、自分もバカっ吉ちゃんと全く同じであることに恥ずかしさを感じた。しかも私自身はバカっ吉ちゃんと違って巖石さんに何も書かれてないのに。

 後ろから手弱女ちゃんと巖石さんの話し声が聞こえた。

「あ、あの巖石さん。私の小説にコメントいただいてありがとうございます。あのコメント非常にためになりました。私、申し訳ないけど巖石さんのコメント読んでショック受けてその日中ずっと落ち込んでいたんです。でも、冷静になってから自分の書いた小説と巖石さんのコメント読んで、やっぱり巖石さんのおっしゃっていたことが正しいってわかりました。本当に、本当にありがとうございます!」

「こちらこそどうも。あのコメントであなたを傷つけていたなら申し訳ないね。僕は普通のコメントを入れたつもりだったんだけど」

「そ、そうですよね!プロになったらもっときつい事言われますよね。ダメですよね、いちいち傷ついてちゃ」

「ほう、あなたプロになりたいんだ。で、なんでプロになろうなんて思ったわけ?」

 私は今の巖石さんの言葉を聞いて休憩中に彼と交わした会話を思い出してハッとした。

「あ……ああ、いきなりの質問でちょっと戸惑ってます。なんていったらいいか」

「答えられないんだたら別に答えなくていいよ。僕だって別に答えを求めているわけじゃない。答えなんてだいたい想像つくからね。小説を書くのが好きだからとか、小説を書いて暮らしていけたらとか、大方そんな理由だろう」

 全くこの男は人のウィークポイントを本当に的確に突いてくる。ああ!私は確かにあなたが上げたすべての例に思いっきり当てはまりますよ。あなた会う人ごとにそうやってイヤミっぽく聞いて回るわけ?バカっ吉ちゃんも柿爪さんも無言で後ろの巖石さんと手弱女ちゃんの話に耳をそばだてて聞いていた。

「確かにそうですね。私は小説を書くのが大好きだし、ずっと小説を書いて暮らしていきたいって思ってます。だけど私なんて言ったらいいか、自分でも上手く説明できないけど、どうしても小説を書きたいって思いがあるんです。自分の中にあふれた想像がもう外に出さなきゃ収まらないとか、それをどうしても他人に、友達とかじゃなくて見知らぬ人たちにも伝えたいとか、そんな思いがずっとあるんです。だからそれを伝えられる人になりたいんです。勿論そんな事才能がなきゃ出来ない事だけどでもそれでもどうしても書きたいって要求はずっとあるんです」

 手弱女ちゃんはハッキリとこう言った。私は彼女の言葉を聞いて自分が情けなくなった。彼女はこんなに若いのにハッキリと自分を主張している。だけど私はそうすべき場で自己主張できずいつもいい加減にやり過ごしてしまう。それは別に小説だけじゃなくて生活に関わる事全てだ。

「それは立派な心がけだな。せいぜい頑張りなさい」

 巖石さんのこの上から目線のセリフを聞いたバカっ吉ちゃんと柿爪さんは揃って仏頂面になって巖石さんを睨みつけた。しかし手弱女ちゃんは本当に巖石さんに感謝しているようで深く頭を下げて礼を言っていた。私はその手弱女ちゃんを見ながら彼女と巖石さんの会話を思い出した。

「ねぇ。二人に聞きたいんだけど、あなたたちはなんで小説書いているの?」

 思わず口に出た問いだった。私はバカっ吉ちゃんと柿爪さんだけじゃなくて自分自身への問いだった。柿爪さんはあまりに突然な私の言葉にびっくりしたのか目を剥いて尋ねて来た。

「な、なにミドリさんいきなりどうしたの?」

「あっ、ごめんなさい。いきなり変な事言いだして」と柿爪さんに謝る私の前にバカっ吉ちゃんがヌッとニンマリした顔を突き出して私に言った。

「ミドリちんもしかして手弱女ちゃんと巖石のジジイの話聞いてそんな質問思いついたの?あのさ小説書く理由なんて人それぞれだし、あんまり気にする事ないと思うけどね。私は手弱女ちんみたいにプロなんか目指す気ないし、ただ楽しいから書いてるだけ。書く理由なんてご大層なものなんか全く持ってないよ。それにどんなに偉そうな決意込めて書いてもさ、その小説が人に面白がられるかってのは全く別の話じゃん。結局小説の価値を決めるのは自分じゃなくて他人でしかないんだし」

 若いのに意外に悟ったことを言うなと思った。この子は案外物事の本質を掴んでいる。本人は無自覚かもしれないけど私には深く刺さった。私は彼女の性格と若さが心底羨ましい。彼女ぐらい思いっきりのいい性格に生まれたらもう少し気持ちよくこの現実を生きられるのに。

「はぁ、あなた意外にもの考えているのねぇ。私なんかそんな事ろくに考えてなかったわぁ。私はなんも考えないで思いついた事ただ書いてるだけだから」

「柿爪ちん、それってただのうんちじゃん。汚いなぁ」

「なにがうんちよ。このガキ!おばさん舐めるとホント怖いんだからね!」

 私はバカっ吉ちゃんと柿爪さんのやりとりを微笑ましく眺めながら考えた。手弱女ちゃんといいバカっ吉ちゃんといい、私なんかよりずっと物事を考えている。彼女たちを見ていると自分は今まで何をやっていたんだろうって思う。まぁ悔やんでも全てが遅すぎるんだけど。

久しぶりのバカ笑い

 弁天島に着いてから私たちはしばらく自由行動を取る事になった。私はなんとなく一人でただぼうっとあたりを歩いては石碑に目を止めていた。弁天島は文弱さんが言っていたように面白い石碑が沢山あり、見ているだけで楽しいものだった。みんなあちこちにある石碑や、弁天堂の写真を撮ったりしていた。私は徳川家康がかけていたメガネを形どったらしいめがね之碑に興味を惹かれて足を止めた。別に徳川家康にもメガネにも興味はないけどこの眼鏡の石碑には妙に癒されるものがあった。しばらく石碑を見ていたが後ろから文弱さんが声をかけて来たので振り向いた。

「ミドリさん。さっきは話をしてあげられなくてすみません。ちょっと手が混んでいたもので……」

 私は恐縮していいえいいえと相槌を打った。

「あっ、私こそ差し出がましいこと言ってごめんなさいね。あっ、文弱さんのお話ほんとに勉強になったし楽しかった。私教養ないなら文弱さんの話凄い新鮮で。でも意外だよ、文弱さんがこんなにお喋り上手いなんて。もしかしてお勤め先でもこういうガイド的な事やってるの?」

「ああ、ガイドなんて全くやってないんですけど、図書館で月一の土曜日に児童向けに童話とか絵本の読み聞かせはやってるんです。こういうのって普通女性の館員がやるものなんですが、何故か僕がメインでやるようになってしまいまして」

「へぇ〜凄いね。それはきっと文弱さんが一番適任だからだよ。私も文弱さんの話し自然と耳に入ったもん。話を聞いてて読んだことのない話の情景まで思い浮かんだりしてさ」

「そんなに褒められるとなんか照れ臭いっていうか、やりにくいな〜。でも僕本当に文学が好きなだけなんですよ。ずっと文学に関わっていたくてそれで大学院にも入ろうと真剣に考えたんですけど、残念ながらそんな頭もお金もなくて、だけどそれでもやっぱり文学に関わっていたいからこうして図書館の仕事なんかやらせてもらってるんです」

「私文弱さんが羨ましいな。好きな事にずっと関わっていられるなんてさ。私なんかまるっきり普通なんだもん。文学なんて高尚なものは勿論お涙頂戴のフィクションさえ遠く見えるようなそんなつまらない現実に囲まれて暮らしてるんだもん」

「いや、僕だって一緒ですよ。僕も結婚してるでしょ。ミドリさんが言ったような事を妻もよく言うんですよ。あなたは好きなことばっかりやってていいわねってね。まぁ好きでやってるんだからしょうがないんですが」

「あっ、私もしかして傷つけるような事言っちゃった?あのそうだったらちゃんと言ってね。私謝るから!」

「い、いや!ミドリさんは何にも悪くないです!僕の言葉がちょっと足らなかったかな。いくら同じ言葉でも『犬文学』の同士のミドリさんから言われるのと、長年共に生活をしている妻から言われるのは状況も意味合いもまるで違います。妻は僕と違って実務的な人で、本を全く読まないってじゃないけど、僕みたいに文学にのめり込んでいる人じゃない、まぁ普通の人なんです。そういう人からそういう事を言われるとやっぱり色々勘繰ってしまうんです。僕のような文学好きは世間から見れば変わり者なのかとか、彼女は僕という人間を見下げ果てたのかとか、勿論これは僕の酷い勘ぐりで、彼女の心情なんかじゃ全くないんですけど、それでも考えてしまうんです。本当はこんな事考えたくないのに。いやいっそ全て投げ捨てて昔みたいに呑気に一人で文学三昧の日々を過ごしたいなんて思う事だってあります。まぁそんな事絶対にできないんですけどね。あっごめんなさい!変な事ばっかり喋っちゃって」

「別に変な事じゃないよ。凄く考えさせられる事だよ、それ」

 文弱さんが自分が日々溜め込んでいたものを全て代弁してくれた。このいつもにこやかな文弱さんも、いやだからこそなんでも自分の中に溜め込んでしまうんだなって思った。彼も私みたいにこの現実の中で夢の置き場所を探しているんだろう。下の池では魚が水面に顔を出して口をパクパクさせている。多分池の水の中の酸素が不足していてそれで息苦くてこうして酸素を求めて水面に現れたのだろう。私は水面の魚を見ながら文弱さんに言った。

「ホント、生きていくのって辛いね……」

「まぁ、そうですね。でも生きなきゃですね。……あ、あのですね!一つ言っておきますけど、僕今日全然落ち込んだりしてないですからね!むしろ今日は上機嫌なんですよ。人間気分がいいと開放的になるじゃないですか。でなんか膿を出すってわけじゃないけどなんか吐き出したい気分になって、ついこう長々と自分語りしてしまったわけです。ミドリさんにはご迷惑をおかけしちゃいましたけど……あの、なんかミドリだったら全部聞いてくれそうな気がしてそれでつい勝手に口が動いてしまいまして……」

「全然大丈夫だよ私は!むしろお話聞かせてくれてありがたいって思ってるぐらいなんだから!」

 私たちは一緒に声を上げて笑った。久しぶりの心からの馬鹿笑いだった。笑っていると自分の中の嫌なものが吐き出されて浄化されていく気分になる。勿論そんなもの明日になればまた復活するんだろうけど、それでもなんだか凄いいい気分だ。文弱さんもきっと私と同じような感じで笑っていたのだろう。

 その時誰かが近くで沼に向かって小石を蹴ったような鋭い音がした。私はすぐに足下の水面を見た。さっきまで水面にいた魚はいなくなっていて、ただ波紋が幾重にも広がっているだけだった。顔を上げて音がした方を見るとそこに靴の爪先で小石を転がしている巖石さんの姿があった。巖石さんは私と目が合うとすぐに目を逸らしてその場を離れた。彼は私と文弱さんの話を聞いていたのだろうか。別に聞かれてもやましい話なんかしていたわけじゃないし、問題なんてあるはずないけど、なんか大事な話を一番聞かれたくない人間に盗み聞きされたような、不快な感情が込み上げてきた。多分池に小石を蹴ったのは巖石さんだ。あれは私たちへのなんらかのアピールなんだろうか。午後の蒸した空気がやたらに汗を吹き出させた。その時バカっ吉ちゃんの私たちを呼ぶ声がした。ふと見るとみんなして私たちを待っているではないか。

「ああ〜っ!ミドリちんと文弱ちんまた二人でイチャイチャしてるぅ!もう前のオフ会もそうだったじゃん!二人だけの世界に入ってさぁ!」


 自由時間を終わって文学散歩が再開した。時間的にもう後半戦だった。文弱さんは再び集まった私たちにこれから行くルートの説明を始めた。まず最初に行くのはさっきも話題に出た無縁坂だ。

「ねぇ、さっき文弱ちんと何話したの?」

 と、歩いている途中でバカっ吉ちゃんが聞いてきた。私はあまり話せる内容ではないので普通の話だと言って誤魔化した。するとバカっ吉ちゃんは含み笑いを見せてやっぱり不倫?とか言い出したので、私はいい加減怒るよと彼女を軽く叱ってやった。したら彼女は笑って冗談冗談許してと謝ってきた。それで私が分かったといささか呆れて謝罪を受けると、不意に彼女が真面目な顔で後ろを歩いていた巖石さんの方に首をやって私に尋ねてきた。

「あのさぁ、ミドリちん。あのオヤジ二次会来ないよね。アイツちょくちょく観察してたけどほとんどみんなとコミュニケーションとってないし、なんかずっとつまんなそうだしさ」

 巖石さんの事を聞かれた瞬間、私は彼と上野駅で会った時からの事を思い出した。そしてバカっ吉ちゃんと同じように参加しなければいいと思った。だけどもういい大人なんだしと思い直してバカっ吉ちゃんを嗜めた。

「バカっ吉ちゃん、ダメだよそういう事口に出しちゃ。さっきも言ったでしょ?」

「分かってるよ。もう言いませんよ」

 賢しらぶった自分の言葉の嘘くささに自分でも鼻白んだ。いかにもな年長者の嗜めだ。二次会に巖石さんがくるのを一番嫌がっているのはこの私なのにだ。全く自分のこの空々しさ満載の下手な振る舞いにいつも嫌悪感を感じて嫌な気になる。私はどうしてそれらしく振る舞うことが出来ないんだろう。TPOなんてとっくに身につけてなきゃいけないのに。だけどこのふつふつ湧いてくる巖石さんへの嫌悪感ってなんなんだろうか。巖石さんと犬文学でほとんど絡みなんてなかった。初めてまともに会話を交わしたのは昼間の不忍池でだ。さっきの池への石蹴りだってよく考えれば私たちへの当てつけとかじゃなくてたまたまだったかも知れない。そんな程度で嫌悪感を感じてしまう自分が嫌になる。だけどこの嫌悪感は生理的な嫌悪とかじやなくてもっと嫌なもの、自分が見たくもないものから自然と目を背けてしまうようなそんなものだ。

 森鴎外の『雁』の舞台の一つである無縁坂は想像していたものよりずっと普通でなんだか拍子抜けした。坂の左側こそ煉瓦塀があって明治大正の時代の面影はあるものの、右側には目新しいマンションや住宅が立ち並んでいて、一般の坂道とあまり変わらなかった。坂の高低差も名前からイメージするほどなく、歩くのにさほど苦労はなかった。ただ人の姿は驚くほどなかった。だから無縁坂と言われるだろうか。全く公園の喧騒と大違いだった。小説のヒロインのお玉はこんな寂しいところで過ごしていたのだろうか。確か小説の中にお玉のメタファーとして籠の中の鳥が出てくるけど、こうして小説に書かれた場所を直に見ると本当に的確な表現だったんだなって思える。そんな事を思い浮かべていたらいつの間にか彼女が私に重なってきた。全くバカだなと思う。実際に鳥のように閉じ込められたような暮らしをしている彼女と、いつまでも現実から逃げてばかりの自分を同一化するなんてホントバカだ。文弱さんは公園での文学散歩の時よりずっと饒舌に鴎外と雁について語っていた。みんなも私と同じように彼の話に夢中になっていた。近代文学に一家言ある栞さんなんか間髪入れずに相槌入れて続きをせがんでいたぐらいだ。

 陽がだんだん傾いてきた。今日の文学散歩もそろそろ終わりだ。私たちは無縁坂から森鴎外と夏目漱石の旧居があるという千駄木の方へ向かった。本日の文学散歩はその二人の旧居とその他の文豪の名跡を巡って終了となる。その後上野駅に戻ってそのまま二次会に行くという流れだ。バカっ吉ちゃんなんか多分この二次会がオフ会のメインだと考えているんだろうけど、そうだからか文学散歩の終わりが近づくにつれてため息をこぼすようになった。二次会を楽しみにしていたはずのバカっ吉ちゃんがこうしてため息をつく理由は勿論巖石さんのせいだ。私はバカっ吉ちゃんがあんまりにもため息をつくので声をかけた。

「バカっ吉ちゃんどうしたの?」

「ゴメン、聞こえてた?」

「うん」

 バカっ吉ちゃんはそのまま黙り、私と並んで歩いていたが、しばらくして私に話しかけてきた。

「この辺周ったら散歩も終わっちゃうよね。で、その後は待望の二次会って喜びたいんだけどさぁ。ずっとどうしたらいいか考えててさぁ。ミドリちんは怒るかもしれないけど幹事としてはやっぱり辛いんだよね。アイツに対してどう振る舞えばいいか悩んでんだよ。私けっこう顔に出ちゃうじゃん?それで変に揉めたらさぁ」

 バカっ吉ちゃんの心配はわかり過ぎるほどわかった。彼女は自身の巖石さんへの嫌悪だけじゃなくてそのことが原因で楽しいはずの二次会がめちゃくちゃになってしまう事を恐れているのだ。私も二次会の時間が近づくにつれ不安に迫られてきた。一瞬だけど巖石さんが参加すると言ったら仮病を使って逃げようとさえ考えた。まぁ子供じゃないんだしそんな事なんて出来るはずもない。彼女のように正直に実は私もあの人大嫌いなんだよなんて言えるわけがない。それに二次会なんてただの飲み会じゃないか。一体何をそんなに怖がっているんだろう。巖石さんも参加しなきゃラッキーだし、実際に参加したとしても何事もなく終わればそれでいい。私は彼女の不安を少しでも和らげたかった。そして彼女を安心させる事で自分も安心したかった。

「まぁ、そんなに心配しなくていいと思うよ。巖石さんが参加しても私たちがいるからさ。なんとかなるよ」

「そだね、やってみたらなんて事なかったってこともあるし、実際そういうケースの方が多いしさ。ミドリちんありがと。私幹事役として初の二次会盛り上げるよ!」

 私は大丈夫と自分に言い聞かせてからみんなと離れて歩いている巖石さんを見た。バカっ吉ちゃんの言う通り巖石さんは本当につまらなそうに歩いていた。最初のうちは文弱さんの話しを興味津々に聞いていたのに今はもう私たちに近寄ろうとさえしない。私はこんな態度の巌石さんを見てやっぱり二次会に来ないのかなと安心したけど、何故か彼を避けていることに罪悪感的なものも感じた。

散歩の終わりと二次会の始まり

 千駄木は漱石鴎外の二大文豪を始めとして明治大正の文豪の史跡がたくさんある所で文弱さんのような文学好きにはたまらない名所であるらしい。文弱さんはそんな史跡を見つけると立ち止まってみんなに向かって熱を込めてその史跡について語っていた。だけど私は近づく二次会で不安になっていて文弱さんの話にあまり反応してあげられなかった。あともうちょいでこの文学散歩は終わる。前日まであれほど楽しみにしていた二次会なのに今はなんだが怖い。まるで登校拒否児童みたいだけど本当に不安でいっぱいだ。

 私たちは千駄木の史跡を一通り見て回り、時間もきりが良かったので散歩を終わりにして再び上野駅に戻る事になった。上野駅に戻る道中私たちは今日の文学散歩のために頑張ってくれた文弱さんにお礼を言って思いっきり労った。照れ屋で普段あんまり感情を出さない文弱さんもやり切った充実感からかすごいテンションで喜んでいた。

 そうして私たちはとうとう上野駅の公園口の前に着いた。文弱さんはそこで締めの挨拶を行った。まず本日の文学散歩が無事に終ったことに対して私たちに感謝の言葉を述べ、続けてもう一度みんなで行きたいですねと言った。文弱さんのこの発言を聞いて栞さんが急に前のめりになり、次は樋口一葉の記念館に行きたいと言った。すると文弱さんが精養軒の時みたいに声を上げ笑い出し、栞さんも同じように笑ったけど私はやっぱりなんだかよくわからなかった。そうして文弱さんが締めの挨拶が終え、私たちがそれに対して感謝と労いの挨拶返しをして一次会は終わった。それからしばらくして文弱さんはさてとと声をあげて私たちに二次会への参加の確認を取り始めた。すると柿爪さんが申し訳なさそうに手を上げて自分は参加できないと言った。

「あっ、ごめんなさいね。本当に参加するつもりだったんだけど連れがうるさくて、私オフ会に行くことは話してたんだけどさ、二次会に参加したら帰れないかもって伝えたらそんなものキャンセルして今すぐ戻って来いってさ。ホントイヤになっちゃうよね。束縛ってさぁ」

「あらあら柿爪さんも大変ねえ。そんだけ愛されてるって事じゃない。二次会なんかいいから今すぐ帰ってやりなさいよ。あっ、私は勿論参加しますよ。そのためにわざわざ九州から出てきたんだから」

「柿爪ちんラブラブぅ~!二次会は私がガチっと盛り上げるから心配すんなよ!さっさと彼ちんのとこに行ってやれよ!」

「コラ、このクソガキ!また大人をからかったりする!」

 私たちは柿爪さんとバカっ吉ちゃんのやりとりに笑ったが、私はやっぱり巖石さんが気になった。それは恐らく二次会に参加するみんなが思っていた事だ。

「これで他の皆さんは参加するという事でよろしいですか?」

 文弱さんのこの私たちへの最終意思確認を聞いてみんな無意識に巖石を見た。巖石さんはそのみんなの視線を感じたのか面倒くさそうなかおでこう言った。

「なに、僕も二次会参加しますよ。だってみんなそのつもりでここに残ってるわけでしょ?」

「ああ、参加して下さってありがとうございます。私たちも二次会は初めてなのでいろいろ至らないところはあるかもしれませんが、よろしくお願いしますね」

「二次会ってただの飲み会だろ?心配しないでアンタ方はみんなで楽しくやって下さいよ。僕は一人でチビチビやってるんで」

 私たちの周りに思いっきり嫌ぁ〜な空気が流れた。私ははははそうですねと苦笑してぺこぺこ頭を下げる文弱さんとその文弱さんの前で相変わらず面倒くさそうな顔で立っている巖石さんを見て悪い予感の大的中ぶりに憂鬱になった。だがその時バカっ吉ちゃんが二人の間に入って笑顔でみんなに向かって呼びかけた。

「じゃあ、これで参加者は決まったね!もう今からやっぱりカレが止めるから行きたくないですぅとか言っても許さないんだから!」

「コラ、このクソガキ!いい加減に大人を揶揄うなって!私だってホントに参加したかったんだから!」

「わかってるわかってる。でも柿爪ちん、私たちよりカレとのラブラブを選んだんじゃん!」

「ああムカつくわこのガキ!どこまでも人を揶揄って!」

 柿爪さんには申し訳ないけどバカっ吉ちゃんのおかげで場の雰囲気はずっと明るくなった。私はバカっ吉ちゃんにホント感謝した。やっぱりバカっ吉ちゃんは場の空気の読める子だ。

 私たちは柿爪さんを改札まで見送った。柿爪さんは別れるまで何度も参加できなくて申し訳ないと謝っていた。私たちはその彼女に対して次回のオフ会でやろうと声をかけた。柿爪さんは最後に私たちに今日は本当にありがとうと言って改札の中に入って行った。柿爪さんを見送り終えた私たちは改札から少し離れた所に立っていた巖石さんに声をかけて二次会をやる居酒屋へと向かった。


「お店探すの結構苦労したんだよ。どこもなかなか予約取れなくてさぁ。でもわりかしいい感じの店だと思うから安心してよ。食べログでもぐるなびでも評判のいい店だしさ」

 みんなの先頭に立って歩きながらバカっ吉ちゃんはこう言っていた。多分彼女はものすごく不安なんだろうけど幹事としての責任から明るく振る舞っているように見えた。手弱女ちゃんはそのバカっ吉ちゃんと一緒に先頭を歩き、その次に文弱さんと栞さんが続いた。私はその後ろで一人トボトボ歩いていた。私も前の二組のどっちかに入りたかったけど、バカっ吉ちゃんと手弱女ちゃんでは却って邪魔になるだけの気がするし、いざって時の頼りの文弱さんはずっと栞さんに捕まっていた。栞さんが文弱さんにあれこれ文学の話を振るので流石の文弱さんも困り果てているようだった。巖石さんは私たちより少し離れたところにいた。とうやら私の中に入るつもりはないらしい。まぁ私だって彼を入れなくないけど、二次会に参加するをだからもうちょっとコミュニケーション取れよとは思う。一人歩きながらそんなこんな考えているうちに二次会の会場である居酒屋の前に着いた。居酒屋はありがたいことに一階にあった。

「さっ、着いたよ。部屋は奥の方。さっさと入ろう!楽しい楽しい二次会の始まりだよ!」

 そう言うとバカっ吉ちゃんは居酒屋の中に入って行った。彼女のその動作はまるで小動物のように元気いっぱいで可愛らしかった。

 間もなくしてお店からバカっ吉ちゃんが出てきて私たちを呼んだ。私たちは彼女のあとに続いて私たちが予約を取っていた奥の部屋へと向かった。部屋は和式で部屋の中心に座卓がドンと置かれ、その周りを囲って座布団が六枚並べられていた。スペース的に六人分の部屋としては少し手狭なような気がした。恐らく柿爪さんが参加していたらもっと手狭に感じたかもしれない。全員部屋の中に入ると早速バカっ吉ちゃんがみんなの座る場所を指示した。

「じゃ、席順を発表しま〜す。我らが犬文学の管理人にして今回のオフ会の主催者の文弱ちんは勿論上座の真ん中。ミドリちんはその左。で、右は私が座るから、その向かいに手弱女ちん。栞ちんは文弱ちんの向かい側だよ。……そして巖石さんはミドリちんの向かい側。ということでよろしくぅ〜!」

 バカっ吉ちゃんの席順の発表を聞いて戸惑いのあまり思わず巖石さんとバカっ吉ちゃんを交互に見てしまった。えっ、嘘でしょなんで巖石さんと向かい合わせなの?とバカっ吉ちゃんに目配せしたら彼女はメンゴみたいな凄くすまなそうな感じで私を見返した。全くこの子案外ちゃっかりしているな。栞さんは巖石さんなどどうでもよく文弱さんと向かい合わせになれて嬉しそうだった。彼女はすでに座っていた文弱さんによろしくお願いしま〜すと声をかけて文弱さんの向かいに座った。バカっ吉ちゃんは手弱女ちゃんに声をかけて一緒に座るよう促した。手弱女ちゃんは飲み会自体が初めてなのか凄く緊張していた。バカっ吉ちゃんはその手弱女ちゃんに再び声をかけて大丈夫大丈夫と言って宥めた。

 私も何故か手弱女ちゃんと同じように緊張してきた。私はチラッチラッとまたバカっ吉ちゃんを見たけど、バカっ吉ちゃんは今度はなんの反応もしてくれなかった。巖石さんがまだ座っていなかったのを見てか文弱さんが彼にどうぞと声をかけた。私も同じように彼の席を指差して座るよう促した。すると巖石さんは「ここでいいんだな」と言って私の向かいにどかっと腰を下ろした。やっぱり体が大きくていかついから妙な圧を感じさせる。巖石さんが座った瞬間みんな彼に着目していた。

「で、皆さんお座りいただけたようなのでさっそく注文しましょう!まずはやっぱりビールでいいですかぁ~!」

 みんなが落ち着いたのを見てさっそくバカッ吉ちゃんが私たちに向かって尋ねた。私たちはバカッ吉ちゃんに応えていいよぉ~と呼び返す。それを聞いたバカッ吉ちゃんが呼び出し用のボタンを押してすぐにやってきた店員さんに向かって全員分のビールを注文した。

 それからすぐ店員さんがビールとおつまみを持ってきた。するとバカッ吉ちゃんが立ち上がりなんと店員さんからビールジョッキを半分もらって配り始めた。私は彼女のそのあまりに自然な所作にただただ唖然としこの子普段どんだけ飲み会やっているんだと呆れ半分で感心した。バカッ吉ちゃんは手弱女ちゃんと栞さんの分のジョッキを配り最後に巖石さんのジョッキを持って彼の前に立った。

「あっ、さっき確認してなかったですけど……ビール大丈夫ですよね?」

 彼女にしては低い調子の口調に私は妙に不安になったが、巖石さんは特に突っかかることなどなくただ大丈夫だと答え、しかも続けて「ありがとな」と礼まで言った。この反応にバカッ吉ちゃんもどういたしましてと笑顔で答えた。私はとにかくまずは何事もなくてよかったと思った。個人的にどう思おうが今日が平凡無事に終われば結構だ。とにかく今日は楽しもうと思った。

 こうしてビールとおつまみが全員に渡るとバカッ吉ちゃんがビールジョッキ片手に立ち上がり二次会の開会の挨拶を始めた。


「え~っ!私、今回の二次会の幹事を務めさせていただくバカッ吉です!皆さん本日私のたっての要望で開催させてもらった『犬文学』初の二次会に御参加いただいてありがとうございます!ホントにやりたかったんだよぉ!やっぱオフ会やるなら二次会ぐらいやっとかなきゃダメでしょ!犬文学に入ってから皆さんと日々親睦を深め、より親睦を深めるためのオフ会を何回もやってきましたが、しかし私はいつも何かが足りない何かが足りない。その足りないものって何?それって二次会でしょ!なんて思ってました。今その念願の二次会がこうして開催出来て本当に感無量です!あっ、幹事の私がこれ以上でしゃばると主催者の文弱ちんの立場がなくなるんで文弱ちんに開会の音頭を取ってもらいます。では文弱ちん後はよろしくお願いします!」

 バカッ吉ちゃんの挨拶に私たちは心を込めて拍手を送った。バカッ吉ちゃんはホントに嬉しそうだった。彼女は満面の笑みを浮かべて座り、続いて本オフ会の主催者の文弱さんが立ち上がった。

「はい、バカッ吉さんに後を任されたので挨拶を引き継ぎます。私は文芸サークル『犬文学』の管理人の文弱と申します。この度恒例の『犬文学』のオフ会にご参加いただいてありがとうございます。思えば約三年前私が犬文学を立ち上げた時からここまで……」

「文弱ちん、堅苦しい挨拶抜き!今はオフ会なんだよ、もっと気楽に!」

「ハハッ!そう煽られると緊張しちゃうんだよなぁ〜。バカっ吉さんもみんなも僕の性格わかってるでしょうに」

「わかってる、わかってる。だから気楽に!」

 私たちはバカっ吉ちゃんの煽りにてんてこ舞いの文弱さんが可笑しくてつい爆笑してしまった。

「ああ、なんかやりにくいなぁ。考えていた挨拶ほとんどすっとんじゃいましたよ。え〜っと、みなさんまずは文学散歩にご参加ありがとうございます。残念ながら二次会に残れなかった柿爪さんも含め改めて御礼を申し上げます。正直に言ってここまで上手くやり遂げられるなんて思ってませんでした。これも皆さんのお力のおかげです。至らぬところがまるでなかったかといえば嘘になりますが、まずは無事にやり遂げられた事に感謝申し上げます!」

「長くなりそうだから巻いて!挨拶だけで二次会終わっちゃいそうだよ!」

「ええ〜っとお!今挨拶が長いという声が出ましたので手短にします。まぁ、私はとにかく文学散歩が出来てよかったんですよ。私は小説好きの同士とこうやって永井荷風みたいに気ままに文学者の足跡を辿るっていうのをずっとやりたかったんです。とにかく皆さん今夜は無礼講です。思いっきり飲み明かしましょう!さぁ、みなさんジョッキを掲げて!」

 と、異様にはっちゃけている文弱さんがみんなにジョッキを上げるように促し、みんなして一斉に上げた時、向かいの巖石さんをチラッて見てみたら彼は乾杯の音頭など知らぬ顔で一人で飲んでいた。ジョッキのビールは半分ぐらいなくなっていたのでジョッキを渡されてすぐに飲み始めたのだろう。巖石さんは私たちをジロッと見てから無言でジョッキをくちもとにやった。なんか辺りに一瞬気まずい沈黙が走った。けれど上機嫌の文弱さんはそんな事を気に留めず高らかに「乾杯!」と声を上げた。

「かんぱ〜い!」

雑談

 私はみんなと一緒に唱和して早速ぐいっと一杯やった。そういえばビールなんてしばらく飲んでなかった。家ではチューハイぐらいしか飲んでなかった。結婚してからしばらく経ってビールを飲むとなんか辛気臭い気分を感じるようになっていつの間にか避けるようになった。でも今日は凄い爽快な気分だ。まるで昔に帰ったみたいだ。

「みんなジャンジャン注文頼んでね!今日は全部文弱ちんの奢りだから!」

「おいおい冗談はやめてくれよ!僕みんなの分払えるお金なんて持ってないよぉ〜!」

 みんなが文弱さんの困り顔に声を上げて笑った。そのみんなを見ているとなんか本当に昔の学生時代を思い出した。将来のことなんてなんも考えないで友達と遊んでいたあの頃、小説なんかに手を染めながら茫漠と理想の未来を思い描いていたんだ。

 と、その時近くで耳障りな舌打ちが走った。私は我に返って向かいを見て思った。恐らく舌打ちしたのは巖石さんだ。

 文弱さんも巖石さんの舌打ちに気付いたのか不安そうな顔で彼に声をかけた。

「巖石さん今日はオフ会の参加ありがとうございます。今夜は気軽に楽しんで下さい。私やみんなにも気軽に声かけて下さい。あの、よかったら今からみんなに自己紹介しませんか?」

「何度も言わせてもらうが、アンタ方は僕なんか気にしないで好きにやればいい。僕はけっしてアンタ方の邪魔なんかしませんよ」

 巖石さんのこの断固とした拒絶に文弱さん苦笑いを浮かべていた。


 飲み会が進んで盛り上がってくると、やっぱり顔馴染み同士で盛り上がる。私たちは文弱さんの周りに自然と寄って彼に向かって話しかけ始めた。特に話しかけていたのはやっぱり栞さんだった。

「ねぇ、文弱さん。今回の文学散歩ホント楽しかったわ。次もやろうよ。今度は記念館とか博物館とかいろいろ入ってさ、お金だったら全然問題ないよ」

「ハハハ、一応考えてはおきますけど、みんなうんと言ってくれるかな。やっぱりみんなの意見を聞かないとですねぇ~!」

「大丈夫よ。文弱さんのガイドすっごい面白かったじゃない。あんな上手い説明だったらみんなきっと喜ぶはずよ」

「はぁ、そうですかねぇ」

「そうだ。文弱さん、ところであなたなんで小説書かないの?あれだけ知識が豊富でしかも面白く文学を語れるのに、書いてるのは評論とか雑文だけじゃない。もったいないわ」

 これは私もずっと気になっていた。文弱さんは今まで一度も小説を載せたことはなかった。確かにあれだけ文学の知識があって小説の書き方なんて私なんかよりよく知っているはずなのにどうして彼は小説を発表しないのだろう。文弱さんは何故か照れたような顔をしてしばらく口ごもっていたが、やがてためらいがちに答えた。

「ああそうですね、単に僕に皆さんほど小説を書く才にめぐまれていないというか、そもそも自分は小説を創作するよりただ本を読んでいろんな事を考えたりする方が好きなせいです。確かに僕も学生時代の一時期小説に手を染めたことありますが、書き始めてもありふれた筋書きしか思つかないし、書いても自分でも面白くないそれでやめてしまったんです。だけど小説を読んだり読んだ本について書くのは本当に楽しくて書き始めたら止まらなくなるんです。というわけです。だから僕の小説の発表なんて期待しないで下さいね」

「あら、ごめんなさいね。私、別にあなたに小説を書けなんて煽ったつもりはないのよ」

「栞ちん顔もそうだけど、言葉に圧凄いから気をつけて」

「誰が圧凄いですって!柿爪さんがいなくなったからって私をいじり始めてからに!何が顔の圧が凄いよ!」

「そうよバカっ吉ちゃん、栞さんに失礼よ。目上の人には言葉を選ばないと」

「手弱女さんあなたの言葉もなんか引っかかるわねえ!」

「ああすみません。言葉が足らなかったようで……」

 バカっ吉ちゃんの栞さんへのツッコミをきっかけに今までカチコチだった手弱女さんも緊張がほぐれたようだ。私たちは声を上げて笑い会話も盛り上がり始めた。バカっ吉ちゃんは最近言った韓国アイドルのコンサートの事とかを話し、手弱女ちゃんは彼女らしく最近読んだ小説の感想を話した。バカっ吉ちゃんは私にも話を振ったけど、こっちは面白い話は何もないので遠慮した。バカっ吉ちゃんはその話の間でも忙しく動き回りみんなのために店員さんが運んできた飲み物やおつまみの類をみんなの所に置いて回っていた。そのバカっ吉ちゃんを見ていてふと一人飲んでいる巌石さんに目が留まった。彼は自分の小皿につまみを取り寄せずただお酒ばかり飲んでいた。

「ところで文弱さんって」と栞さんがまた文弱さんに話しかけた。

「そういえば文弱さんって結婚されてもう長いんですよね。お子さんっていましたっけ?」

「お恥ずかしいことに……」

「あらごめんなさい。私は中学生の息子がいてね。それで……」

 私は栞さんの文弱さんへの問いに昼間の不忍池の彼女と柿爪さんの会話を思い出して嫌な気分になった。だけどその時バカっ吉ちゃんが文弱さんと栞さんに向かって含み笑いをしながらとんでもないことを言い出したのだ。

「それはねぇ。文弱ちんとミドリちんが長い間ずっと不倫しているからなの!もう栞ちんも二人がラブラブだってことわかってるじゃない!ああ奥さんかわいそう!」

 このとんでもない発言に私たち一同はあんぐりと口を開けた。この発言にはさすがに私も彼女に声を上げた。

「バカっ吉さん冗談でも時と場所によっては言っていい事と悪い事があるのよ!いい加減にしなさい!」

 みんな慌てて私を宥めた。私はバカっ吉ちゃんのこんなジョークには別に慣れているしそれほど怒ってはいないのだけど文弱さんがどう思ってるか気になってしまった。

「あなたホントとんでもない子ねぇ。さすがに今回は冗談にしては酷すぎよ。ミドリさんと文弱さんに謝りなさい!」

「そうよ、二人に対してあれは酷いわ。バカっ吉ちゃんの言葉がきっかけでお二人の家庭に問題が起こったらどうするのよ」

 別に私はさほど気にはしてないし、こんな事が広まったからって旦那とどうにかなるはずもないし、バカっ吉ちゃんに畏まって謝られてもなんだかなと思うけどやっぱり文弱さんの前でもあるわけだしここはおとなしく謝罪を受け入れようと思った。

「文弱ちん、ミドリちん酷い事言ってごめんなさい。これからは口を慎みます」

 私はバカっ吉ちゃんの深々と頭を下げた殊勝な謝罪ぶりに却って恐縮していいよいいよと言って頭を上げるよう促した。文弱さんも謝る彼女が気の毒になったようで宥めていた。そうしてバカっ吉ちゃんが頭を上げてようやく場が収まった時、文弱さんが場を和ませようとしてか朗らかに笑いながらこんな事を言った。

「まぁ、僕に子供がいないのはひとえに僕が文弱の徒であるからして……」

 これは文弱さんがいつも言っている冗談で普段は気にはしないのだけど、今の状況で彼がこんな時にこの台詞を言い出したのには少し驚いた。普段の彼は下ネタ的な事は一切触れない人だったからだ。私はその文弱さんにこの人も普通の人なんだという驚きと同時に軽い失望を覚えた。


 二次会が進んでいくと話題は自然に『犬文学』の話題になった。私はようやく文芸サークルの二次会のかくあるべき姿に戻った事にホッとした。と言っても今まで文芸サークルなんかに入った事はなく、当然ながら文芸サークルの二次会なんて参加した事はなかったけど。

「本当に『犬文学』を立ち上げた時はここまで大きくなるとは思いませんでしたよ。最初は五十人ぐらい集まればいいかなって思ってたんですがまさか二百人の大所帯になるなんてさ。それにオフ会なんて全く考えてなかったのにいつの間にか恒例になっちゃってね。まぁこれもバカっ吉さんの実行力のおかげかな」

 オフ会を開催しようと提案したのはバカっ吉ちゃんだ。彼女が『犬文学』に入って来て投稿したのは小説ではなくなんとオフ会の開催の提案だったという。彼女らしいと言えば彼女らしいけどホントに呆れる話だ。そういえばオフ会に参加したメンバーの中ではバカっ吉ちゃんが多分一番古株だった。その次に私、それから栞さん柿爪さんで、多分手弱女ちゃんがこの中では一番新しく入ってきた……いや、巖石さんがいたわ。

「だってせっかくサークル作ったんだから盛り上げたいじゃん!なのにみんななんも会話しないでひたすら小説とか雑文載っけたりしてるだけでさぁ。つまんないって思ってそれでさぁオフ会提案したんだよ。それでいざオフ会やったんだけど最初は私と文弱ちんの二人だけでさぁ。二人で外歩いてるとこなんか人が見たらまるでパパ活だったよね?」

「ああそうだったね。周りから変な視線で見られたりしたっけね。だけどバカっ吉さんそれでも沢山面白い話聞かせてくれてさ、二人きりでもとにかく楽しかったね。たしか最後に別れるときバカっ吉ちゃんこう言ったんだよね。今度はこの倍を集めて、その次はその倍だって」

「うん、言ったね。私覚えているよ」

「今日は七人で残念ながら倍の倍とはいかなかったけど、でも最初に比べたら全然みんな参加してくれているよ」

「私としてはもっと増えてほしいんだけどさ。大体二百人の大所帯のサークルで参加者七人で少ないよ、やっぱり」

 文弱さんとバカっ吉ちゃんの初のオフ会の話を聞いたのは初めてだった。今までなぜ話してくれなかったんだろう。まぁ、話せない事情はいろいろと察するけど。

「でも今日は新しい参加者が二人も来てくれたし、次もっと大々的に募集かければ倍の倍は来るんじゃない。今回は今までミドリちんと栞ちんと柿爪ちんの他に今までずっと参加してくれなかった手弱女ちんが来てくれて、……さらに新しく入った巖石さんまで来てくれた。この勢いを次につなげて次こそ脱落者を出さないでオフ会をやり遂げたいよぉ~!」

 そうバカっ吉ちゃんが言った時、手弱女ちゃんが皆さんと私たちに呼びかけて話し始めた。

「今回のオフ会参加してよかったです。サークルに参加してから結構経つのに今までずっとオフ会に参加しなかったのはこんな性格だから人と打ち解けられるのかなって不安になっていたからで、でもいつも誘ってくれるバカっ吉ちゃんに申し訳がなくて今回は一度だけと思って勇気を出して参加したんですけど、やっぱり参加してよかったです。文弱さんたち皆さんにこうして初めて直に会えたのもよかったです。あと……」と言って彼女は一人酒を飲んでいる巖石さんをチラリと見た。私たちも彼女と同じように巖石さんを見た。

「あっ、大丈夫です!バカっ吉ちゃんお話邪魔してごめんね」

 手弱女ちゃんは慌てて巖石さんから目を逸らすとこう言って口を閉じた。どうやら手弱女ちゃんは巖石さんについて話したかったようだ。多分彼のコメントでの辛口に過ぎるアドバイスが彼女に影響を与えたのだろう。もしかしたら彼に恩義さえ感じているかもしれなかった。

突然の嵐

 しばらくオフ会の話が続いた後、文弱さんがあのねと私たちに声をかけて『犬文学』の現状について話し始めた。

「さて、今年もまだ半ばだし総括なんてまだ早過ぎるけど、今年は去年より作品が充実していると思うんですよ。多分あと半年でもっといい作品が出てくるはず。今年はサークルが初めて以来の豊作期なんじゃないかな」

「文弱さん、相変わらずみんなの作品読んでるんだ。凄いよね」

「ハハッ、『犬文学』の管理人として当然ですよ。みんなだって忙しい合間に一生懸命書いて投稿してくれてるわけだから」

 私の問いに文弱さんは笑顔でこう答えてくれた。すると栞さんが私たちの間に入るように自分の小説はどうだったと聞いた。

「栞さんの小説は今年のベストに入るかな。元々栞さんは上手かったけどあの小説は飛びぬけて良くて何度も読み返してる」

 と文弱さんは栞さんの小説の感想を述べた時バカっ吉ちゃんが、文弱さんに顔を向けて「じゃあ私のは?」と聞いた。すると文弱さんは苦笑いしながら「バカっ吉さんの小説は僕には元気過ぎて」となんか凄く言葉を濁したような感じで答えた。それを聞いたバカっ吉ちゃんはあまりにもわかりやすいふくれっ面をしてブーと思いっきり唸った。バカっ吉ちゃんの唸り声に一人きりみんなで笑った後、今度は手弱女ちゃんがおずおずと私の小説はどうでしたか?と文弱さんに聞いた。文弱さんは彼女に対して表情を和らげてこう答えた。

「うん、手弱女ちゃんの小説も栞さんと同じぐらいよかったんだ。手弱女さんはちょっとびっくりするぐらい小説が上手くなってる。もう本気で公募に応募すること考えてもいいんじゃないかな」

「ええ~っ、そんなに褒められるとなんかこそばゆいっていうか、あのなんとも……」と彼女は言って巖石さんの方を見てから「でも、やっぱりそのレベルに達していないというか。せっかく応募するならやっぱり今より一段レベルの高いものを書かないと……」

 文弱さんは手弱女ちゃんにそうだねと相槌を打つと正面に向き直って私たちみんなに向かってこう言った。

「だけどみんな、僕はこれ別にお世辞でもなく真面目に言うんですけど、やっぱりサークルのみんなの小説最近凄いクオリティのものばかり沢山出て来て正直言って僕の手に余るようになってると思うんです。それは栞さんや手弱女さんだけじゃなくて他の参加者のみんなの作品もね。これって凄い喜ばしい事だけど、同時に重圧にもなってる。まぁその重圧だって僕にとってはやっぱり喜ばしいんですが。サークルやっててよかったぁっていう気持ちのよいプレッシャーですよ」

 私は自分の小説が文弱さんのお眼鏡に叶わなかったのに少し落ち込んだけど、文弱さんの評は全く正しいと思った。今年『犬文学』に投稿された小説の中では間違いなく栞さんと手弱女ちゃんがずば抜けていたし、他の参加者の小説だって、まぁバカっ吉ちゃんの小説は置いといてだけど、沢山素晴らしいものがあった。私は長年『犬文学』にいてサークルが本当に大きくなっていったのだなと感慨を覚えた。もしかしたらこの『犬文学』からプロの作家が出てくるかもと感情が高ぶって私はみんなに向かって冗談交じりにこんな事を言った。

「みんな凄いよね。ほんと天才ばかりが集まったって感じでさ。もしかしたらさ、『犬文学』からプロの作家が登場するかもしれないじゃん!」

 こう言った途端、近くであの耳障りな舌打ちが鳴り、それに驚いて音の方を向いた時、巖石さんが私たちに向かって思いっきり哄笑して吐き捨てるようにこう言った。

「バカかお前ら何が天才だよ!ネットの隅で閉じこもっていて周りが見えてねえのか!お前らいい年こいて互いに天才だなんて褒め合って恥ずかしくねえのかよ!」

 この巖石さんの言葉にみんなが唖然とした。私なんてあまりにも予想できなかった事態に頭が真っ白になってしまった。文弱さんは慌てて巖石さんのそばに寄ってちょっと落ち着いてと水を差しだした。しかし巖石さんは私たちをにらみながら手でそれを押し返してさらにこう言った。

「さっきから黙って聞いてりゃお前らすげえくだらねえ事言ってんなぁ!何が公募しろだよ!お前らの小説なんてなぁ!今年のベストだなんて誉めそやしているもんも含めて世間に発表出来るものなんて一つもねえんだよ!公募したって第一次選考で読まれもせずみんなゴミ箱行きの代物だよ!」

「ちょ、ちょっと落ち着いてくださいよ!大分お酒が回っているようですよ。一旦外に出て酔いを醒ましたらいいんじゃないですか?」

 しかし巖石さんは宥める文弱さんをせせら笑い、再び吐き捨てるように舌打ちをしてこう続けた。

「俺は酔ってもいないし至って冷静だよ。冷静にお前らのくだらない小説に関する妄想を嗜めているんだよ!俺ははっきり言ってお前らみたいな小説を舐め切ってるやつ見るとどうしようもなくムカつくんだよ!お前らは現実逃避のための道具として小説を都合よく利用してるだけじゃねえか!こんなチンケなネットのサークルで僕たち私たちは天才だねって気持ちの悪い妄想してるだけじゃねえか!小説ってのはな、現実逃避の道具じゃねえんだよ!お前らのくだらない妄想を書き込むものじゃねえんだよ!ったく毎日ゴミみたいな小説だの幼稚な評論だの載せやがって!お前も、お前も、お前も、お前も、お前もだ!」

 彼は文弱さんからバカっ吉ちゃん、手弱女ちゃん、栞さんを順に差していき、最後に向かい側の私に向かっておでこが触れるほど近くまで指を突き立てた。

「あなたは私たちの小説そんなに軽蔑していたんですね。私誤解してました!あなたのコメント凄いきつかったけど未熟な私に対する指導だと思っていたのに!だったらどうして……」

 手弱女ちゃんはここまで言うと言葉を継げずにとうとう泣き出してしまった。その手弱女ちゃんを抱いてバカっ吉ちゃんが巖石さんに向かって怒鳴った。

「アンタさっきから何なの!いきなりブチ切れてさぁ!いい大人が恥ずかしくねえのかってそりゃアンタでしょう!何女子とただのおっさん相手にイキってんのよ!」

「このガキなんだぁ!ろくな小説も書けないくせに言うことだけはいっちょ前だねえ!今まで読んだ中で一番酷かったのはお前の小説だよ!あれがまともな知性のある人間の書いた小説かよ!小学生から国語学びなおせ!そこの泣いてる姉ちゃんの小説はお前に比べたら全然マシだがな!だけど彼女も憐れな事にこんなしょーもないサークルで天才だなんて甘やかされてるからまるでレベルが上がんねえ!全く哀れだねえ!」

 もう二次会は大混乱だった。巖石さんとバカっ吉ちゃんは言い争い、その二人の間に入っている栞さんは自分と巖石さんの飲み物がこぼれないように手で抑えながらやめなさいやめなさいと宥めていたが、二人ともまるで聞かなかった。私はこの争いのきっかけでありながらバカっ吉ちゃんを庇うことが出来なかった。巖石さんの言葉に打ちのめされたせいだ。ネットの隅で小説は現実逃避の道具じゃない。現実から逃げてネットの隅っこで妄想に浸っているだけ。それは全部私に当てはまることだった。私は何故巖石さんを避けていたのか今なんとなくわかった。ハッキリ言って嫌だったのだ。彼という現実に自分の小説に込めた脆弱な妄想が壊されていくのが。私はいっそ手弱女ちゃんのように思いっきり泣いてしまいたかった。だけどそれは出来なった。だって私は大人だから。小学生の子供がいる立派な社会人だから。だけど巖石さんはそんな私にさらなる追い打ちをかけた。

「俺に言わせりゃお前らなんて本来小説なんか触れるべきじゃない人間なんだよ。いいか?小説ってのは作家たちがこの現実と向き合って血反吐を吐きながら生み出したものなんだよ!作家の中には小説を書いている苦痛に耐えられなくて心を病んで自殺した人間だって何人もいる。そこまではいかなくても心を病んで筆を追った奴らはごまんといる。お前らはそういう作家たちが苦しんで書いた小説を気楽に読んでいるんだろ?そして自分たちにも同じようなものが書けるんだろうと思っているんだろ?違うんだよ!小説は現実逃避の妄想でかけるもんじゃない!よくお前みたいな人間は言うよな?家庭とか、学校とか、そういう世間の煩わしいものから一時でも逃れたいから小説を読んで書いているんだって。バカかって思うよ俺は!小説を書くってのは現実との葛藤なんだよ!一文字一文字書くごとに現実と向き合っているんだよ!俺はお前らみたいなのが一番嫌いだ!テメエらの世界に引きこもって現実逃避の妄想に浮かれてしょーもない駄文を書いている奴が本当に大嫌いなんだよ!」

 もうこんな話聞きたくはなかった。巖石さんの言葉はいちいち私の胸に突き刺さった。だけどなんで彼はこんなに私たちに腹を立てているのだろう。何が彼の癇に障ったのだろう。もしかして……と思った時、バカっ吉ちゃんが巌石さんに向かって今まで全く見たことないほどの真剣な顔つきでこう言い放った。

「さっきからうるさいなぁ!偉そうになんか意味の分からない事語ってさ!ねぇ教えてよ!アンタ何者なの?ひょっとして荒らしかなにか?このサークルが盛り上がってるからわざわざオフ会に参加してサークル潰してやろうって考えたわけ?いい大人が恥ずかしいね!」

「別に荒らしに来たわけじゃねえよ。ただオフ会ってどんなもんかと思っておとなしく参加しようと思ったらお前らの話があまりに下らねえんで頭に来ただけだ」

 巌石さんもバカっ吉ちゃんの剣幕に臆したのか少し引き気味になった。

「おい、ちゃんと私の質問に答えろよ。アンタ何者なんだよ?私たちをあれだけ偉そうに貶すんだからさぞかし偉い人なんだろうねえ!」

「俺は何者でもねえよ。ただ酔っぱらっているだけだよ」

「嘘つけ!さっき酔ってねえって言ってたじゃん!しかしなんで私の質問に答えてくれないかねぇ。本名はともかくさ、職業ぐらいは言えるでしょ?まともな仕事やってればだけどさ!でもアンタはホント許さないよ!私はともかくみんなを、私たちの『犬文学』をバカにしてさ。何が現実逃避の妄想がくだらないよ!アンタだってどうせ現実から逃げてこんなとこで吠えてるだけじゃん!大体現実逃避して何が悪いのよ!私だって小説を書くことは大変で時に作家さんの命さえ奪う事ぐらい知ってるよ!だけどその作家さんの小説を読んで勇気づけられる人はいるし、その人のような小説を書きたいって思う人だっているんだよ!偉そうに私たちをバカにすんなよ!アンタこのまま帰れると思ってないよね?謝れよ!私はいいからこのオフ会を開いてくれた文弱さんたちに謝れよ!」

「うるせえな、酔っぱらってるだけだって言ってるだろうが!今までのは酔っ払いの妄言だよ!明日になりゃ忘れちまう程度のもんだ!」

「何が明日には忘れちまう程度だよ!そうやってごまかすなよ!今さっきまで自分がどれだけ酷い事言っていたか噛み締めて反省しろよ!自分の事聞かれた途端急におとなしくなってさ!」

「お嬢ちゃん、こんな下らねえことでマジになんなよ。俺たちは楽しく酒飲みに来たんじゃないか!」

「このやろ!いい加減にしろよ」

 と、バカっ吉ちゃんが怒鳴った時、今まで黙っていた文弱さんが普段の彼からは想像も出来ないぐらいの大声を上げて「二人とももうやめて下さい!」と怒鳴った。その声は本当に悲痛な声だった。文弱さんの大声での制しに二人とも驚いて黙った。しばらくして店員さんが来て心配顔でどうしたのかと私たちに尋ねた。栞さんがすぐに何事もないと答えると、店員さんは他の皆さんから苦情が出ているのでお静かにお願いしますと注意してきた。多分店員さんはこのただ事でない光景を見て驚いただろう。私はバカっ吉ちゃんと文弱さんに対して謝りたくなった。自分の言葉が原因で起こった事なのに止めようともせずただ見ていただけなのだから。私は自分の勇気のなさが今ほど嫌になった事はない。私はいつもこうやっていつも何もかもから逃げてきたんだ。誰かが代わりに解決してくれることを考えてやり過ごしていたんだ。全く呆れ果てる。私はどこでも、この『犬文学』の中でさえ、何も出来ない臆病者だ。そんな私に比べてバカっ吉ちゃんは本当にかっこよかった。彼女は体を張って私たちみんなのために戦ってくれた。

「なんか迷惑かけたようだから、俺帰るわ。迷惑料としてこれ上げるから取っといてくださいよ」

「いえ、結構です。参加費用の四千円だけもらえば」

 文弱さんはそう言って巖石さんの出した数枚の万札から一枚抜いて、代わりに財布から出した六千円を巌石さんに差し出した。その文弱さんの姿は凄く悲しそうだった。あれだけいろいろ下準備をして頑張っていたオフ会が完全にめちゃくちゃになってしまったのだ。

「あっそ」と言って巖石さんは立ち上がって部屋を出て行った。私はその巖石さんの去り行く後姿を見て何故かホッとするよりも悲しいものを感じた。

嵐の後

 巖石さんが去ってとりあえず平穏になったのでバカっ吉ちゃんは再びオフ会を盛り上げようといろんな事をした。そのうち何故か彼女は何故か一人で歌い出してみんなの笑いを誘ったりした。彼女のこのアカペラカラオケに大笑いしている栞さんは流石というかなんというかあの口論の間も全く動ぜず二人の仲裁をしたり、二人の間にあった飲み物やおつまみを退けていたし、それどころかそんな事をしながらも普通にお酒を飲んでいた。さっきあれだけ泣いていた手弱女ちゃんは今はバカっ吉ちゃんのカラオケに笑顔で笑っていた。私も彼女のカラオケに元気づけられたけど、それでもやっぱりさっきの巌石さんの言葉の節々が頭の中に残っていた。

「もしかしたらさ、彼、僕思ったんだけど、巖石さんって恐らく僕らなんかよりずっと……」

「コラ、そこの二人!私を無視して雑談なんか始めるな!ったくこのイチャラブカップルは!いい加減にしないと二人の相方に言いつけてやるから!」

 バカっ吉ちゃんのキツイお叱りであった。彼女は私と文弱さんに続けてこう言った。

「それに巖石のジジイのことなんか二度と口にしない!私たちにあんな迷惑かけた奴なんかすぐに『犬文学深くから叩き出してやるんだから!いい?アイツの正体が何者でもただの荒らしなんだから!じゃあもう一曲行くからみんな手拍子して!」

 言われた通り私も文弱さんも手拍子を始めた。バカッ吉ちゃんが道化になって私たちに巖石さんの事を忘れさせようとしているのは明らかだった。何のダメージを受けていないような栞さんはともかく巖石さんに酷い悪罵を投げつけられた手弱女ちゃんもすっかり立ち直っているように見えた。私も彼女に元気付けられさっきよりずっと気が楽になった。だけど文弱さんは笑ってはいたもののどこか落ち込んでいた。


 そうしてトラブル続きではあったものの、二次会は無事に終わり、こうしてオフ会は全て終了した。栞さんは近くに取っていたホテルに泊まるそうだ。バカっ吉ちゃんは手弱女ちゃんと途中まで一緒に帰るという。私は一人で帰るつもりだったけど、あれからずっと元気のない文弱さんが気になった。

「いやぁ、これでなんとかオフ会終わったね!いい写真沢山取ったから!帰ったらすぐアップするよ!みんな楽しみにしててね!それと……」

と言って彼女は巖石さんをどうするかと文弱さんに聞いた。私は文弱さんを見たが、文弱さんはまぁみんなの望むようにすると曖昧な笑みで答えた。

「まぁ、あのジジイが変なクソリプ送りつけて荒らし始めても私たちが全力で守るから大丈夫だよ!」

「うん、ありがとう」

「だからいつまでも今日のこと気に病んでないでさ、元気出してよ。文弱ちんが元気にならないと『犬文学』盛り上がんないんだから!」

「そうだね」と文弱さんは寂しい笑みを浮かべた。

帰り道での会話

 こうしてオフ会はお開きになり、私たちは店の前で別れたけど、やっぱり文弱さんが気になって彼の後を追った。文弱さんはゆっくりと肩を落として歩いていて、その後ろ姿はどっか泣いているようにも見えた。

「文弱さん」と私は彼の背中に向かって声をかけた。すると文弱さんは立ち止まってその瓜のようなしょぼくれた顔をこちらに向けて力なく「ああミドリさん」と返事した。

 それから私たちはしばらく無言で歩いた。私はいざ着いてきたはいいものの文弱さんのあまりの落ち込みように話しかけようにも話しかけ辛かった。そうして二人並んで歩いていたら文弱さんがため息と共にこう漏らした。

「結局、僕のせいで今日のオフ会がめちゃくちゃになってしまった。オフ会に巖石さんが参加申請した時にバカっ吉ちゃんが反対したのは正しかったんだ」

「あのそれ文弱さん全然悪くないよ。文弱さんは主催者として当然の事をしたまでだし、それはバカっ吉ちゃんだってわかってるよ」

思わず上げた私の言葉に文弱さんは軽く頷いてまた口を開いた。

「確かにわかってるけど、やっぱり僕のせいだ。それに巖石さんも幻滅させたかもしれない。多分彼僕の語る文学の話を聞いて凄く呆れたんだよ。こんな奴に文学を語る資格なんてないってさ」

「資格もあるもなしも文弱さんは文学の知識のある人じゃなくて私のように基本的な知識さえない人に向かって説明していた訳じゃない。大体うちのサークルって誰でも入れる敷居の低いものでしょ?」

「それはそうだよ。だけどその事が巖石さんのような人間にとってそれがあんなに激怒するぐらいの幻滅を感じさせたんだ。さっき言いかけたけどさ、多分巖石さんって僕らより深く文学に関わってる人なんじゃないかな?」

 それは私も薄々勘づいていた事だった。公園で不忍池で放心したようにバスを眺めていた彼を見たときから何かいわくありげなものを感じていた。ああいううちに何かを秘めた苛立ちぶりは普通の人では感じられないものだ。その時文弱さんは立ち止まって正面から私を見た。その彼の顔はどっか泣いているようだった。

「そういう文学の現場に関わってる人から見たらさ。きっと僕らのサークルなんてお遊びなんだろうね。二次会であの人にズバリそれを指摘された時、胸が突かれる思いがしたんだ。確かに僕らは文学の現場なんて知識でしか知らないし、文学を都合のいい現実逃避の場所だと思ってるかも……いや、ハッキリと思っているんだ!小説は現実に疲れた心の安らぎ、作家は僕らが日々抱えるありとあらゆるものを代弁し、そして慰めてくれる。この『犬文学』だって僕と同じよう思いを抱えている人たちと文学や小説を分かち合いたくて作ったんだ。だけどそれって本気で文学に関わっている人から見たらとんでもなく許し難いことなのかな、僕みたいなただの甘ったれた人間が文学なんかに関わっちゃいけないのかな……」

 文弱さんの言葉は飲み会での巖石さんの罵倒と重なって二重にも三重にも私の心を突き刺した。お前は小説を甘く見ているんだ。小説は現実逃避の道具じゃなくて現実との葛藤の果てに生まれるものなんだ。当たり前と言えば当たり前のこんな言葉が今の私にはとても辛い。だけど私はふと二次会でのバカっ吉ちゃんの言葉を思い出した。

「あの、文弱さん。バカっ吉ちゃん巖石と言い争ってるとき、現実逃避で小説書いて何が悪いんだって啖呵切ったよね?私もおんなじ考えだよ。確かに巖石さんの言葉は正しいのかも知れない。だけどそんな事私たちの知ったことじゃないし、大体あの人が何者かだってわかんないじゃん。文弱さんは優しいから自分に悪意を向ける人に対してもその人の心情に立ってあれこれ考えちゃう。だけどもうやめようよ。誰がなんと言おうと私たちは私たちのやり方で前に進めばいいんだからさ」

「そうだね。バカっ吉さんたしかそんな事言ってたなぁ。だけど彼女は強いなぁ。僕らのために巖石さんとあそこまでやり合うなんてさ。やっぱり若いから迷いがないんだろうな」

「でしょうね。でも私が彼女ぐらいの歳でもあんなに……いや全然言い返せなかったと思う。今まで争い事を避けて生きてきたから」

「僕も同じです」と返事してから文弱さんは突然あっと声をあげてスマホを取り出した。文弱さんはそのままスマホを眺めていたけど、やがて私の方を向いてまた瓜のようなしわくちゃの顔で申し訳なさそうにこう言った。

「あの妻から電話が何度もかかってまして、どうせ大した用事じゃないと思いますが、急いで帰らないといけないのでここで失礼します」


 文弱さんが去り一人となった帰り道、私は上野に来る時に使った地下鉄の駅へと戻りながら今日会った事を思い返し改めて自分が嫌になった。全く私はなんて無力なんだろう。その場しのぎで上部だけを取り繕って無力な自分を覆い隠している。そうやって自分を守って現実のあれこれから逃げているのだ。いつまでも逃げられるはずもないのに。さっきの文弱さんとのやりとりも酷かった。私はバカっ吉ちゃんの私たちを守ろうとした言葉を安易に使って上っ面で慰めていたのだ。きっと裸の私はしょうもなく弱いのだろう。私はハッキリ言って川の流れにさえ逆らえない池の魚だ。そこでアップアップしてなんとか暮らしている魚なのだ。きっと石なんか投げられたらすぐに当たって死んでしまうだろう。今私は電車の中、家まであと三駅で降りたらすぐそこだ。不思議な事に家に近づくにつれてオフ会の記憶が薄らいでゆく。なんだか今日あった事がすでに思い出話になりかけている。

 家に入ったらリビングにまだ明かりが点いていた。サトシはすでに自分の部屋で寝ているようだった。だけど現実はそこにしっかりとあった。点けっぱなしのテレビ、倒れたビール瓶、小皿からこぼれて床に散らばった枝豆、そんな散らかり放題の床でシャツとパンツ姿の現実は大きなイビキをかいて寝ていた。

空気を求める魚のように

 あの出来事から半月が経った。幸いにも巖石さんは、バカっ吉ちゃんが危惧したような事にならず、それから一日も経たないうちに『犬文学』を去った。『犬文学』は巖石さんの事件があってもなんの変化もなく通常通り運営されていた。だけどそれはあくまで表向きの事だ。あのオフ会での事件は私たちに大きな影響を与えたはずだ。二次会に参加しなかった柿爪さんはともかく、一番平気そうな栞さんだって、体を張って私たちを守ったバカっ吉ちゃんだってそうだ。ましてや巖石さんからある意味決定的な指摘を受けた手弱女ちゃんは確実に自分の価値観が揺らぐほどの衝撃を受けたに違いない。彼女は私たちとは違い本気で小説家を目指している子だ。彼女は巖石さんの言葉に犬文学に小説を発表していた事を無駄だったと心のどっかで悔やみ初めているかもしれない。

 だけどやっぱりその中で一番心配なのはやっぱり管理人の文弱さんだ。文弱さんはとても優しくて繊細な人だ。巖石さんのような自分に敵意を向ける人さえその心情を測ろうとする。彼が巖石さんの言葉がきっかけで自分のような現実逃避者には『犬文学』の運営は無理とサークルをやめてしまうかもしれない。人の心なんてその時々によって変わってゆく。いくらみんなでサークルを続けると誓っても何かのきっかけで目覚め、また諦めの心が生じると自然と関心が薄れ遠のいていくものだ。

 私はこの半月文弱さんが『犬文学』を閉鎖してしまったらどうすればいいのかと考えていた。あなたはそれでも小説を書き続けのかと繰り返し自分に問うていた。あの事件があった後、私は以前よりかは少しだけ現実と向き合うようになった。旦那に口うるさく言われていたパートの事だって真面目に考えるようになり、実際にパート募集サイトを見てまわるようになった。だけどいざ働くようになったら小説はどうすればいいのだろう。もう小説なんて現実逃避の戯言はやめて夫と子供を持つ一人の社会人として社会に責任を持って働けばいいのか。否、と私は悩んだ果てに思う。その悩みの中で思い浮かべたのはあの二次会でバカっ吉ちゃんが巖石さんに言い放った小説が現実逃避で何が悪いという言葉だった。あの時彼女は全く気づいていなかったけど、私にとっては自分を見つめ直してみろという啓示だった。

 やっぱり私には小説が必要なのだ。一時期は夢から覚めたように書くのをやめていたけどそれでも小説を書くという行為は私にとって、この私が生きていくために欠くべからざるものだ。私は、いや私たちは池の中の魚だ。淀んだ水の中で空気を求めて水面でパクパクしているあの魚だ。魚が淀んだ水から逃れて水上に新鮮な空気を求めるように、現実に浸かっている私には小説という空気が必要なんだ。多分私はこの現実に浸かっていきながらもそれでも小説を書き続けるだろう。それが人から現実逃避の自己満足だと笑われようとも、そんなくだらない事はやめろと詰られようとも二度と小説を書くのはやめないだろう。それは他人のためでなく他ならぬこの私が生きるために必要な事だからだ。


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