【エッセイ】考えることの麻痺
無意味と意味のないことは、必ずしも一致しない
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私たちの心のどこかが、その都度意味のフリをしている。
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なにか乗り越えなければならない対立が自分の内か外にあるとき、矛盾をどこかにつくりだすことによって、それを乗り越えている。
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その矛盾を見つけてはいけない。見つけた以上は、それを解体しなければならない。けれども、そうやって解体が完了したと見えるところでも、結局別の矛盾をまたどこかに設けただけだ。あたかも矛盾を移動させただけであるかのようだ。
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なにかを考えるとは、その時代のかかっている麻痺と一体化しようとすることだ。その麻痺と一体化できた度合いのぶんだけ、その思考は説得力のあるものになり、私たちの腑に落ちる。
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ある考えが、自分の中であまりにも腑に落ちると感じられたとき、その感じのなかにある酩酊のような感覚こそが、その考えの核心であり、麻痺の感覚なのではないか。
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無思考とか無感覚こそが麻痺だと感じるとき、そこには、そうやってなにも意識していないときほど、別のなにかによって動かされているのではないかという疑いと不安がある。
思考は、そうやって操られていることへの抵抗のようでいて、実はこの不安とか疑いへの抵抗なのだろう。
実際に恐れているものから、そのいわば手前へと矛先を移すことで、元あった恐怖をやりすごしている。
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無思考のときよりも、思考しているときのほうが、かえって、その操りの糸に絡めとられているのかもしれない
というのは、その思考は、抵抗のために矛盾を消し、一貫していようとするからだ
矛盾を消し去ろうとするからこそ、矛盾だらけの無思考よりいっそう操られている
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人間は空間的には精巧かもしれないが、時間的にはあまり精巧とは言えない。
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私たちの考えはひとつの時代にずっと属しておけるほど精巧なものではない。それ自体古びていくことによって、麻痺をほどいていく。
思考ではなく、その思考の古びていく過程が、思考でも無思考でもない、無意味でもない、意味のないなにかをほのめかすかのようだ。
読んでくれて、ありがとう。